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     ◎ホットダイアリー 2

◎あ-ちょっと待った、異議あり!

                     R2/5/22

     自分で文章を書いておいて、自分で異議ありってあり?

    ちょっと不自然に思えることが見えたものですから。

    皆さまは何も疑問を持たれなかったでしょうか。

 

    それは、玄奘の母が赤ん坊を木片に乗せて川に流した場面です。

 

    実は、「赤ん坊の左足の小指を噛み切って」とあるけれども、血書を書くために

      生まれたばかりの赤ん坊の足の小指を噛んで血を流させるのだろうか?

   普通の母親ならそんなことはしないでしょう。

    血書を書くのなら相当の血液が必要だろうと思います。

    とすれば、生まれたばかりの赤ん坊の血を使った可能性は低いと見るべきではないでしょうか。

    赤ん坊を噛めば痛さで泣くから不憫に思えるだろうし、また赤ん坊の血をどうしても使わねばならぬ必然性は無いはずです。

 

    そうです、母親が自分の指か腕でも噛んで、その血で書き上げた可能性の方が高い、と私は考えたのです。

 言い伝えが後々、センセーショナルに脚色されたのでしょう。

    異論があれば投稿をお願い致します。

玄奘は母と初対面、
     はかない、つかの間の再会

 

    ごく簡単に面白すごい個所だけを取り上げます
                       R25/5/21
 
   玄奘三蔵法師(この先は全て玄奘と簡単にお呼びします)
   生誕は602年、河南省生まれ、隣の河北省に北京がありますので、
 北京のやや南方の場所だとイメージできます。
 
 玄奘の父は江州長官に抜擢された優秀な人物だったが、任務地に向かう際、妊婦の妻と渡し船に乗った。
 ところが船頭がその妻に横恋慕し邪心を起こし、玄奘の父を撲殺し、あろうことかその妻を妾にして、自分が江州の長官になりすました。
 その船頭が留守の時に、母は玄奘を産んだ。
 母は、船頭が帰れば赤ん坊が殺されると思い、運を天にまかせ、赤ん坊を肌襦袢にくるみ、赤ん坊の左足の小指を噛み切って、生い立ちを書いた血書を同封し、木片に乗せて川に流した。
 赤ん坊は金山寺の法明和尚によって救われ、僧として養育された。
 
 産まれた時から、数奇な運命を辿る、玄奘三蔵法師…その壮絶で偉大な生涯は、天竺(インド)から経典を持ち帰るという命がけの苦難の旅ばかりではなく、持ち帰ったその膨大な経典を翻訳するという大事業をも成し遂げたことです。
 
 自分の生い立ちを法明和尚から知らされて衝撃を受け,母の消息を求めて,つかの間の再会が叶いました。
 
 偉人は、生まれからしていつ命を落としても不思議ではない、驚愕の運命を背負っているのですね。 

母の覚悟

                      R2/5/20
 
    中国の古刹、雲居寺(うんごじ)の石室で発見された最古の般若心経に、西遊記で有名な玄奘三蔵法師が訳した、と刻まれている石のお経が発見された。
 これによってさまざまな異論があった訳者の中、結局は玄奘三蔵法師であることが確定した。
 
 三蔵とはインドで経・律・論(三蔵)に精通した僧侶を三蔵法師と呼んだのを、中国でもその尊称を受け継いだものなのです。
 
  般若心経も元々は古いインドの言葉であるサンスクリット語で書かれたものが、中国に伝わり、いろいろな訳があるけれども、現在私たちがお唱えしている般若心経は間違いなく玄奘三蔵法師の漢語訳によるものです。
 
 明日から三蔵法師の世界に立ち寄ってみましょう。

夏目雅子さんきれいでしたね-

◎いよいよ最後の解説です     R2/5/19

 

 ★遠離一切顛倒夢想

    今、私どもが生きているこの人間の世界は、

  欲望にとりつかれた夢まぼろしの世界なのだ

    この欲望中心のこだわりの世界から遠く離れて

    同じ生きるなら仏の生き方をめざそうではないか

 

   心経の哲学部門で最後に言いたかったのはこのことなのです。

   しかし、容易なことでは仏の生き方を実践することはできないから

  「ギャーテーギャーテー……」という超能力の真言を身につけてゆけということです。 

   哲学部門が終わり、後半部分の「是大神呪」から、真言がいかなる超能力があるのかという説明がつづきます。

 

 哲学が分かっただけでは不十分なのです。

 

 この真言を身につけて初めて「仏の生き方」を実践できるのです。

  これが宗教なのです。

 哲学が分かっただけなら、ただの哲学にすぎないのです。

  真言が生きてこそ、初めてお経となり、宗教の実践となるのです。

仏の生き方、ギャーテーギャーテー

       長くて疲れるので、メチャクチャ簡単にします
 
般若心経の前半部の哲学部門で大事なポイントは二つ、「色即是空」と「遠離一切顛倒夢想」これだけです。(住職独自の解釈です)
 
  そして大事なポイントではないのですが、面白い言葉だと思うのは「不生不滅…生まれたり死んだりしないよ」「不垢不浄…きれいも汚いもないよ」「不増不減…増えたり減ったりしないよ」でしょう。
 心経は不・不・不で否定し、無・無・無で否定し続けています。
 無智亦無得…悟りまで、そんなものは無いと否定しています。
 心経ってすごいですね。
 
  この心経の面白い言葉から説明しましょう。
 例えば、地球上で多数の死者が出て、また多数の出産があっても、地球全体の質量は変わることがありません。
 
 遠くの星から地球を見れば、一日どんなに死亡数や出生数に変化があろうとも、地球という星そのものには何の変化も起こりません。
 宇宙規模の視点で見れば、地球は不生不滅であり、不垢不浄、不増不減…変わらぬ美しい星なのです。
 
 それが全て色即是空(形あるものは無いと同じだ)…諸行無常につながっています。
 
  明日は「遠離一切顛倒夢想」を 説明しましょう。

美しい星…地球

 
登場人物は三名。 
 
 主役は観音様、智慧第一と称される舎利子(シャリシ)に説法されている。
 
その観音様の後ろで、お釈迦様がその説法を「うん、よしよし」と検分されている。
    
 ムム、この構図は、私が弘長寺へ弟子・養子として入った時の情景とよく似ている。
 
  私がちょっとしたミスをしてお師匠様に叱られている時、(師弟関係だから叱られてもジッと我慢)気がつくと、師匠の後ろでもう一人私を叱っている者がいる、……よく見ると妻だ。
 心経の舞台設定、観音様の後ろのお釈迦様とはえらい違いで、  思わず叫んだ。
 
 「あんたに言われる筋合いはない」 
 
 ウ~ン、心経の舞台設定とは役者が余りにも違いすぎたかもしれない。

母なる姿、観音様

◎般若心経のタイトルの中で

    漢字で意味が分かるのは2文字しかない

                        R2/5/16

     正式なタイトル(題)は「摩訶般若波羅蜜多心経」です。

    この中で漢字として意味が分かるのは最後の心経だけです。

    後は昔のインドの言葉を漢字で音写したものです。

    摩訶(マハー)は偉大なる、…般若(パンニャ)は仏の智慧、…波羅蜜多(パーラミータ)はパーラム(彼の岸・仏の岸・悟りの岸)とイター(至る)の合成語(パーラミータ)で彼の岸に渉るという意味です。

    それから心経は心髄のお経という意味です。(ここだけが漢字の意味が分かります)

    全てを訳すと「偉大なる仏の智慧を会得して、こちらの岸(娑婆シャバ)から仏の岸(彼岸)に渡るための心髄のお経という意味になります。

だから心経は彼岸のお経とも言えます。

     「仏の智慧(仏教)を船に喩えて、みんなこの仏法の船に乗って

                                                                           彼の岸に行こうよ

    と呼びかけているのが般若心経なのです。

仏教の渡し船だよ~

 
    私どもはとかく目先のことだけ、今日・明日・明後日・1週間後・1年後・10年後ぐらいの処までしか考えていないが、心経は全然違うのです
 
    100億年単位どころか、永遠の過去から永遠の未来にかけての長さと、宇宙の果てどころか3次元・4次元を含めた全空間を捉えて断じているのです。
    私どもが考えている時の長さと空間の広さが全くお話にならない、気絶するほど長くて広いのです。
 
 「知の巨人」と称される立花 隆さんの書物にはこう書いてありました。
 
 ①お前は一体何者だ? 名前や地位、全てを脱ぎ去り裸になったお前は一体何者だ?
  どこからやって来てどこへいくのだ?
 ②此処は何処だ?島根?それが地球上のここら辺というのは解る、では全宇宙全
       次元の中のどこに位置するのだ?
 ③そして今は何時だ? 2020年それはたかだかキリスト後の年数だ。
  地球が生まれたのもほんの136億年前、では永遠の過去より永遠の未来にかけ
       て、一体今という時は何時なんだ。?
 
  この三つの質問に正確に答えられる人間など存在しない。
     立花さんがそうおっしゃっています。
 
     般若心経を学ぶには、まずこういう視点を持つことが大切です。

心経の視点はこんなものではない

◎コロナは世界中を貧乏に
   という悪意に満ちた忍者のようだ   R2/5/14
 
   韓国はコロナ第二波を受け、文在寅大統領からドヤ顔が消えた
  トランプ大統領は選挙をにらんで経済復活へ舵取り
   プーチン大統領も爆発的な感染増加の中でやはり経済復活だ
  中国も事実上の終息宣言発表後、第二波への兆し
  日本も完全終息を待たずに39県の緊急事態宣言を解除
   だが本当に大丈夫なのか
   集団免疫などという言葉が気の緩みを誘うが、殺人コロナはそんな生易しい相手ではないような気がする。
 火事場でやっと消し止めたと思っても、遠くで火の手が上がる…そんな相手だ。
  海外では仕事をさせろとデモも起きている。
  それを「狙い通りだ」とコロナはニンマリしているような気がしてならない。
 一体、第何波までやるつもりなんだ。
  早くワクチンが欲しい。

コロナよ
どこまでやりゃあ気がすむんだ

◎お寺は誰のものか

  こう質問すると、殆ど「そりゃ檀家のものだ」という答えが返ってきます。

    確かにお檀家様がいなければ、そして浄財を頂かなければお寺は成り立ちません。

    しかし敢えて私は「いいえお檀家様のものではありません」と返答します。

 

    すかさず「それなら住職のものか」という声がします。

    「いいえ住職のものでもありません」即座に答えます。

    お檀家様だけでもお寺は成り立ちませんし、住職だけでも同様に成り立ちません。

    

    そして最後に申し上げます、「お寺は仏様のものです」

    「仏様のものであるお寺を、住職とお檀家様とで護らせていただいているんです」

    こういう意識を持つべきです。

 

    仏教は見方革命です、意識革命です。

    ここの処をはき違えると、浄財を出してやってるとの思いが強くなり、「な~に、住職

 一家はわしらが食わせてやっとるんだ」

    こういう情けない発想に陥りがちなのです。

    

    お檀家様は浄財を布施(財施)し、住職は仏法を布施(法施)する、どちらも対等の関係だから成り立つのです。 

    菩提寺には、開山堂や位牌堂に、歴代住職やお檀家様の各家先祖代々の仏様方が祀られています。

    住職もお檀家様も、心を一つにして仏様方と伽藍を護っていくべきだと考えています。

住職とお檀家様でお寺を護持する

◎「ギャーテーギャーテー」は

            仏の言霊(霊力)にちがいない

 

    意味にとらわれずに、ひたすら真言(マントラともいう)というその言葉の力(仏の力)を信じきる…そこにまさしく霊力(言霊)が生ずるのです。

 

 私的な解釈ですが、般若心経は前半の論理的・哲学的な「空」の論述部と、おまじない的な力を持つ最後の真言部に分かれています。

 

 前半の哲学を理解しただけでは不十分で、最後の真言を信じ、お唱えすることによって仏道をまっしぐらに行ずることができる……般若心経を私はそう解釈しています。

 宗派によっては哲学の部分に重点を置いていますが、むしろ真言に重きを置くべきだと私は考えています。

 

 極端に言えば、般若心経を全部暗記することが難しい方もいらっしゃるでしょう。

 そういう方は心経全てを覚えなくてもよいのです。

 だって「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラソーギャーテーボージーソワカ」に全てが凝縮されていますから、これだけで十分です。

これだけで般若心経の全ての霊力が込められています。

 

 例えばもし幽霊が出たら、このギャーテーギャーテーを唱えれば一発で幽霊退散です。

 ただ問題は、幽霊が出たときに、この「ギャーテーギャーテー……」を思い出せるかどうかです。

 恐らくギャーギャー騒ぐくらいが関の山で、「ギャーテーギャーテー」までたどりつかないおそれがありますが、思い出せたら一発です。

ホンマかいな

                  R2/5/11
 
    ★長屋の熊さんとご隠居さんの会話
 
      おめえ、昨日は母の日だったが、
             母親にカーネーションでも送ったかえ?
      いんや、おらのおっ母は大分前に死になすったもんで。
    
     何?バカ野郎、母の日は生きてる母親だけに感謝する日かえ? どこにそんなこと
   が書いてあるんじゃ、そう仕向けちょるメディアも悪いが、とんでもねえ勘違いす
   るんじゃねえぜ。    
      どこを探してもたった一人しかいねえ自分の母親に、墓石の中だろうが仏壇の中だ
   ろうが、母の日にカーネーションを一輪供え、手を合わせて、感謝の気持ちを捧げ
   るくれーのことーしたって、バチは当たんねーじゃねーのか、このバチ当たりの親
   不孝者めが!
 
  へへ~ッ
 
 
    案外私どもはこの熊さんのように、母の日は、死んだ母には関係ないと、うっかり
 そう思いがちです。
 
   母親に、産み・育てていただいたのに、当たり前顔をして散々親不孝をし、
              死んでからも、母の日に花一つ供えない、さらなる親不孝をしているそこの
              あーた。  
    少し考え直したほうがいーと思いますわよー。 (あら、ついついデヴィ夫
             人調になってしまったわ、ごめんあーそばせー)

お母さん、おばあちゃん、有り難う!ついでに、お父さん、おじいちゃんも有り難う!

◎「私は無宗教です」と自信を持って語る人は

        世界で私ほど無知で傲慢な人間はいない、

           と宣言しているようなものです   

                         R2/5/10

 

   恐らくそのように語る人は、何事も自分で考えて、自分のお金で、自分で全て処理できるから宗教なんて必要ない。

 自分は何者にも頼らず強いんだということをアピールしたいのでしょう。

 そんな恣意的行為人間は間違いなく人望など全くない人でしょうね。

    人間なんて、お釈迦様の手の平で威張ってみせた孫悟空のようなもので、宇宙的空間や時間から見れば、ゴミにもならないちっぽけな存在なのです。

    どんなに大金持ちでもどんなに頭脳明晰でも、歳を取れば人の介護を受け、必ず死ぬんです。

    どんなに地位やお金があっても、財産・命の全てを地震や津波・洪水などで失うことだってありますし、災難から逃れても最終的には死によって全てを失います。

 現実には実際今ここにあるけれども、結局は近い将来には無い(無くなる)と同じことなのです。

    あるけれどもない、それが「空」の教えです。

    そういえば「孫悟空」という名前も、「空」を知って「悟る」、というかなり示唆に富んだ名前ですよね。

    宇宙が生まれてから136億年という長い長い目で見れば、今、ここに形がある物も136億年後には、間違いなく全て影も形もかけらも無くなります。

    だって地球だってあと2億年で無くなりますもの。(10億年との説も)

    「あるけれどもないという空の法則(真理)」が仏教の教えの根底に存在しています。

    人間はもっと謙虚になるべきです。

    だから無宗教を誇示するということは、ものごとの道理が解らず、可哀想で残念な人と見られますから、恥ずかしいので大声で語るのだけはやめましょう。

 いかに自分が小さい存在であるかを自覚し、謙虚で、「おおいなる存在」に早く気づくべきでありましょう。

俺様のすごさを見せてやる!

 

 

◎意味を知らない方が、実はお陰を沢山もらえる

 

  とかく現代人は意味を知って「な~んだ」で終わり、

  なんともったいないかぎりだ

 

 せっかく途方もなく仏様の冥力(ミョウリキ:目に見えない力)をいただけるのに、今の人たちは、教養や知恵が邪魔をして、その冥力を残念ながらみすみす見逃しています。

 

 例えば、般若心経の最後の有名な真言(仏様の言葉)、

 「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラソーギャーテーボージーソワカ」

 この真言の意味を知ってしまうと「な~んだ、たかだかそんな意味か」で終わってしまいます。(本当はものすごい力があることを私は身を以て体験しています…幽霊なんて一発で退散です)

 宗教は、「でも信じよう」という力を奮い起こす教えです。

 今の人たちはつまらない(失礼)教養が邪魔をして、「南無阿弥陀仏…ナンマイダ」なんて阿弥陀仏という架空の仏を拝んでいるだけなのか、「南無妙法蓮華経…ナンミョウホウレンゲキョー」ってただお経のタイトルを読んでるだけじゃないか、……それだけで捨て去ろうとする。

     あーなんてもったいないことだ!

信心は教養・知識を超えて

◎お寺って字は何故、                          

         土(つち)の下に寸(すん)なの?

                    (R2/5/8)

 

    それはね、お経が漢文だからちんぷんかんぶんで、意味がよくわからないのだよ。     

  それをね、お坊さんが解りやすいように教えてくれるところなんだ。

  すると人生の生き方が「ドスン」とお腹の底までわかるんだ。

  だから「おてら」と読むよりも「ドスン」と読んだ方が、本当はピッタリだよね。

 

  これを逆に、寸の下に土を書いて「スンド」だったら疲れるよ、「あ~スンド」となるからね。

   お粗末ですたー……あ~スンド。

   どっしりと「ドスン」    こんな風に建てられたら「あ~スンド」

  そんな難しい顔しないで、

     人生長いんだから、たまには息抜きしましょ!

 

 

 

       ◎仏という字を私的に解析する  (R2/5/7)

          にんべんは人、ムは無でない

      つまり悟りを開いた仏はもうにんげんでは無い

 

       ムを使う字には「私」がある。

     この場合の「ム」は農機具の「スキ」になる。

     スキを使う農業に携わる人(農民)が私という、領主が農民を私的に使いこなす。

     そんな説もあります。

  

     仏は、以前は佛と表しました。

  私的に解読すれば、偏は人、つくりは非ずです。

  なぜこのつくりが非ずなのかというと弓に矢が縦に2本です。

  つまり、弓矢を表しています。 

  矢がに2本であれば、即、人を殺める道具となります。 

  矢がに2本だと、即、人を殺める道具に非ずということです。

  沸は水が沸点を超え、気体になること…水に非ずということと同じです。

  勿論全くの私的解釈です。

 

  フランスのことを「仏国」といいます。(米国、英国のように)

  なぜかと言えば、昔は「仏蘭西」と漢字表現したからです。 

     若い頃、仏国って「仏の国」という国があるんだ、とズーット思っていました

   …バカですね。

   真実を知り、がっかりして、叫んだ。「そんなことはホットケ」

矢が縦なら
直ぐに矢を射ることはできない

    ◎春眠暁を覚えずR2/5/6

 されど、「春眠暁を覚えず」どころかコロナで外出できず、仕方なく布団にくるまってテレビ三昧なんて方も多いのではないでしょうか。

 

 弘長寺も本年2月から祝日に、仏旗と国旗を掲揚することにいたしました。

   最近は各家庭でも国旗の掲揚をしなくなりました。

 思想的な理由があるからだそうです。

 でもね、難しく、ややこしいことにはこだわらない。

 深く考え過ぎると、「あーでもない、こーでもない」が始まってしまう。

 サラッと生きましょう。

 だってオリンピックで選手が金メダルを取った時なんて、「君が代」が流れて日の丸が揚がると、思想なんかそっちのけで、純粋に涙があふれるじゃありませんか。

 純粋にサラッといきたいものです。

 日本の国旗は白地に赤、昔は日の丸弁当ってのがあって、白いご飯の中にめちゃくちゃ塩っからい梅干しが一つ、その梅干しの表面をなめるだけで弁当の半分のご飯が食べられた。

 その弁当箱がアルミ製なら、残した梅干しの種で必ず穴があいたんですよね。

 戦後の日本は貧しかったけど、何となく明るかった。

 テレビゲームは勿論テレビもなかったけど、野山を駆けまわって遊び、底知れぬエネルギーがわいてくるような雰囲気がありました。

 今の若い方々は、白いご飯に梅干しだけの弁当なんて、想像もつかないのではないでしょうか。

 ある方がおっしゃってました、「最近の子供は肉料理が出ても肉を残したりする、考えられない、昔は肉なんてめったに食べられなかった、それを今の子供は残すんですよ」

 卵焼きだって中々口にできなかった。

 

 批判を覚悟で言えば、日の丸弁当とか、貧乏とか、不自由さとかに全く無縁だった若い方々には、このコロナ災禍は案外人生修行のよい試練となるのかもしれない。

       日の丸             日の丸弁当

◎一寸先は闇ぞかし     R25/5/5

      よくよく考えれば、私どもは、ありとあらゆる危険の真只中。

    地震、台風、落雷、洪水、地滑り、津波、まもなく関東大震災、南海トラフ、島根県の近辺でも大田市地震、倉吉地震、岡山真備町、広島洪水の災害だらけ。

 自然災害以外にも、インフル、サーズ、コロナ、自動車事故、放射能汚染、花粉症、黄砂、オレオレ詐欺、強盗、油断もすきもありゃしない。

   人間とは弱い存在なのに、よくもこれだけの危険な恐怖の中で生きているものです。 

 特にコロナのものすごい感染力、「ステイホーム」といわれても 、食料買い出しには行かねばならず、感染する可能性は日本中どこであろうとも極めて大きい。

 私のような糖尿病患者は、感染すれば即、死に至る覚悟をせねばならない。 

 

 仏教は教えています。

「この世は必ず苦しみに捕まる世界だ」ということを腹落ちさせよ。

 腹落ちが定まれば、苦しみがやって来たときに「当然のこと」と、案外楽に追いやることができると教えています。

 それを達観したのが良寛さまです。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

 そりゃね、良寛さまの如く浮き世を捨てて、いつお迎えが来てもOKって方ならそうでしょうが、煩悩だらけで執着だらけの我々は、中々そうはまいりません。

 しかし、どう抗がっても必ずやってくるものであれば、ちっとは仏教のいうことも聞いておいた方が、ちっとは楽になるかもしれません。

自然の力には勝てぬ

◎あの世は行くところではありません

        そんなバカなとお思いでしょうが…   (R2/5/4)

 

法華経にはこう書いてあります。

 「あの世もこの世も私のものだ」仏様がそうおっしゃっています。

 そりゃそうですよね。

 「その中の生きとし生けるものは全て私の子供である」

 法華経にはしっかりとそう書いてあります。

 つまり、私たちは仏様の子供なのです。  

 ということは私たちにとって仏様は親ということになります。

  大親ともいうべき存在でしょう。

 すると亡くなってあの世に参る時に、親元には「行く」とは言いません。

 親元には「帰る」と言います。

  だから、仏様の世界、あの世は…親元の世界でありますから、

 「あの世は行くところではなく、帰るところ」なのです。

あの世はあっちだ~!

      何をどう信ずればよいのか
 
 確か小学校5年生の時だったと思う。
 算数の授業で、担任の先生が教室に入るなり問題を黒板に書き、「この問題が解けた人に限り、この時間は運動場に出て自由に遊んでもよい。」とのこと。
 「ヤッター」と全員大喜びです。
 
  確か三桁×三桁のかけ算の問題でした。
  私は「この時間イタダキー」といの一番で先生の所へ持って行ったら、即×マークを喰らいました。
 おかしいなーと思いながら検算をするのだが、自分では間違っている箇所が見当たらない。
 全員が持って行くのだが、全員×マークをもらっています。
 足し算しようが引き算しようが、何回持って行ってもやはり×なのです。
  結局、誰一人運動場で遊ぶことはできずにその算数の時間が終わってしまった。
 
 授業の最後に先生がこうおっしゃったのです。
 「今君たちが持ってきた答えは、全部正解だったんだよ。
 その合ってる答えを、『これは絶対合っています。これを違うというのなら、先生の方がおかしいんじゃないか』って何故言えないんだ。」と叱られました。
 
 先生それはないよー、だって先生は絶対だと信じていたのにそれはおかしいよー、とその時に思ったものです。
  この時の衝撃は大きく、いまだにその時の事を鮮明に覚えている。
 正しいと思ったらその思いを通すべきだということと、何事も、何人も信じ切ってはいけないということの二つを同時に学んだ。

はて…はて…何故だ?

★ホットダイアリー3