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今日のホットダイアリー  18

◎いよいよ最終日となりました

                                          R3/4/28                            

 

 1年間毎日よく頑張りました。

 

 私の好き勝手なこのブログを飽きもせず、毎日見ていただいた方、本当にありがとうございました。

 時々見ていただいた方もありがとうございました。

 

 振りかえれば、阿倍総理、菅総理の批判が一番多かったかな、またその批判を書く時が一番楽しい時でした。

 もっとも私は、お二人を批判しようと思って書いたのではなく、事実を書いていたらそれ

が結果として批判になっていただけのことです。(笑い)

 

 殆どがあまりパッとしないブログでしたが、たまにチラッといいことも書いていますので、読み返す価値はないことはないことはないことはないような気がします。(結局何が言いたいのかい)

 

 明日から別の仕事に精をを出したいと思います。

 一返にこのブログから解放されたら呆けるのではないかと心配しています。

 (え、すでに呆けてるから大丈夫ですって?)

 (正直言えば少し寂しい気もします)

 

 ま、そんな訳で、これからは溜まった仕事を終えるまでは、月1のブログとなります。

 その時をお楽しみに。(但し生きていればのことです)

 

 誠に誠にありがとうございました、「毎日ブログ」は一旦終了です。

 

バンザーイ!
とうとうやり遂げました!

                                               R3/4/27
 
 お釈迦様だって修行の終わりはなくて、いまでもご修行中です。
 
 ましてや我々のような、35才で僧侶になったような未熟僧に修行の終わりがあるなんて、トンデモない話なのです。
 
 修行をし続けるということはどういうことかと言いますと、それは仏教に対して、永久に求法の徒であれと言うことです。
 
 お釈迦様が説かれた仏法を、死ぬまで、いや死んだ後も追い求め続けることであろうと思います。
 
 だから曹洞宗が道元様の教えだけを示して、これで良しとし、仏法の修行を了えたと錯覚している僧侶が極めて多いのです。
 
 本当に正伝の仏法なのかを追求するだけでも、自らにとって新しい発見があるはずなのです、その求法を停滞させている僧侶の何と多いことか。
 
 宗派としてお釈迦様に対する矛盾を、分かっていても素知らぬふりをする宗門に間違いなどないと信じ切る僧侶の何と多いことか。
 
 私自身は私生活にしても全く立派と言える僧侶ではありません、有り難い僧侶ではなく、むしろ堕落僧の部類に入るかもしれません。
 
  でも本当に正しいことを追求していこうとする姿勢だけは誰にも負けないつもりです。
 
 
 ※余談ですが、広島・長野・北海道の選挙で、菅政権が全敗してよかった。(公明党の応援でも無理でした))
  これこそ真の世論だと思っています。
 
 ○この文章で365日目、いよいよ明日は366日目です。
    毎日ブログの最後の日です、366日を以て休止します。
    これからは、およそ月1程度といたします。

実はこの中に落とし穴がひそんでいた

◎休息直前なので一気に私の思いを出し切りましょう

                   R3/4/26

 

 私のブログを丁寧に読み、分析していただいていたら、私が主張することがお解りになるのではないかと思っています。

 

 自分の宗派への批判に対しては、その批判から宗派へのお願いをいたしております。

 

 それは正伝の仏法という言い方です、曹洞禅は決してお釈迦様から正しく伝わった仏法ではありません、私は何度も論破しています。

 

 他宗派のように、正伝の仏法などと言わずに自らの教えを主張していれば良いのです。

 曹洞宗は13派もある仏教の宗派のたかだか13分の1という宗派です。

 

 そして私は新しい思いに目覚めました、それはブログ 2月15日をお読みいただけると分かりますが、仏教の大きな教えから見れば曹洞宗の教えだって理解は出来るのです。

 仏教全体から見れば、曹洞宗は大きい宗派ですが、それは道元禅によって組織が大きくなったのではありません。

 

 葬儀と先祖供養によって組織が巨大化したのです。

 

 ですから安易に悟りに結びつけるような高度な禅を標榜するのではなく、親しく楽しめる禅・心豊かに出来る禅として生まれ変わるべきだと思っています。

 

 

  ○ブログ休息まで後二日

楽しい禅、心を豊かにする禅

◎仏教宗派の宗祖は先祖供養を重視せず

                                                        R3/4/25

 

 一昨日の続きをもう少し述べてみよう。

 

 曹洞宗の道元禅師は、托鉢もされていない、全て波多野義重公(鎌倉時代中期の武将、北条重時の娘を室とし重時の被官として活躍した。)の庇護のもと、衣食住を賄っておられた。

 

 そして弟子の葬儀をされた記述は残っているけれども、一般の在家に対する葬儀・法要はされていない。

 

 道元禅師と波多野公が亡くなると永平寺は立ちゆかなくなって、四代で一旦断絶します。

 

 中国の葬祭術(葬儀・法要)を学ばれ、永平寺を追われた永平寺三代の徹通義介禅師が永平寺とは別の寺院でそれを実践されました。

 

 だから両祖として総持寺の瑩山禅師が祀られていますが、宗派の存続という面では、むしろ瑩山様の師匠であるこの徹通義介禅師の功績こそ大きかったと思います。

 

 これは浄土真宗の親鸞上人も同じです、「私が死んだら鴨川に流してこの身を魚に供養させよ」「親鸞は父母の孝養(供養)のために拝んだことはない」との言葉を残しておられます。

 

 そして仏教開祖であるお釈迦様はどうかというと、「私が死んだ後、葬儀は出家者である弟子のお前達がするのではない、在家に任せよ」とおっしゃっています。

  (お釈迦様滅後300~500年経ってやっとお経ができたのですから、当時は当然読経供養もありません)

 このような状況が長い歴史の中には紆余曲折を含んでいます。

 

 仏教に対し問題意識を持って学び発言する僧侶よりも、何の疑いもなく宗派の教え通りに従順に葬祭を行う僧侶(私はお経拝み屋さんと呼んでいます)の方が有り難いと思われるならば、私はこれ以上何も申しあげることはありません、ご随意にどうぞ。

 

 

仏教の原点はお釈迦様です

◎菅総理にロックダウンする勇気はありません

                                                                R3/4/24

 

 まんえん防止などという中途半端な策では変異株に対応が効かないので、イヤイヤ緊急事態宣言を出した菅総理。

 

 しかしたった2週間ほどかけ、この生ぬるい措置で、コロナが収まる訳がないのです。

 

 英国が現在収まって来ているのは、抑え込む効果抜群の長期ロックダウンと早期のワクチン接種が効を奏しているからです。

 

 日本ではワクチンが後手後手に回っている現状なのに、五輪をどうしても開催したくて、ゴールデンウィークさえ乗り切ればなんとかなると思っている愚策が浮き彫りになっています。

 

 おかげでとうとう0行進だった島根県も、変異株の脅威にさらされることとなりました。

 

 非常事態宣言では、数は若干減るのでしょうが、「もう怖くないぞ」という段階には決して行かないでしょう。

 

 少し数が減ったところで、緩めてはまた急激に感染拡大の繰り返しで、結局は国民と経済に大きなダメージを与え続けていくという繰り返し連鎖の愚策なのです。

 

 少しは英国という良い例があるので見習っていただきたいと思うのですが、菅総理には、結局は感染にも経済にも効果てきめんのロックダウンをする勇気はないと思います。

  中途半端策で延々と国民や経済に打撃を与え続けるでしょう。

 蓮舫さんが問いただした言葉を思い出します。

 「菅総理、今解除して本当に大丈夫なのですか?」

 「大丈夫です」

 そして現在は「ごめんなさい」で、ごめんで済まそうとして責任は絶対取らないのです。

 

 こんな総理でも世論はさらに支持率を上げるのでしょうか?……笑ってしまいます。

 

   ○ホームページ休止まで、後4日

  

もうこの顔見たくありません

◎私は仏教の真実に忠実でありたいと思っている

                    R3/4/23

 

 いよいよ丁度一年目である366日目が一週間後に迫って参りました。

 

 そこでどうしても言っておきたいことを申しあげておきます。

 

  私のブログを読んで、自分の宗派を批判するような僧侶に、先祖供養をしていただいても有り難くないのではないかというご意見があるやに伺いました。

 

 それは違います。

 自分の宗派であったら、明らかに間違っていることであっても指摘してはいけないのでしょうか。(ホームページ12/14~12/25に私の疑問点を掲載) 

 私は仏教……つまりお釈迦様の教えに忠実でありたいと思っています。

 

 仏教はお釈迦様が開祖です、お釈迦様が仏教の原点なのです。

 なので曹洞宗に縁があって曹洞宗の僧侶ですが、 曹洞宗の道元様の教えも確かに大切でありますけれども、お釈迦様の教えの方がもっと大切だと思っています。

 

 だから私は純粋なお釈迦様の弟子・仏教徒(者)であると自負しています。

 純粋な仏教者として、お檀家様の先祖供養を行っています、何の矛盾もありません。

 葬儀・ご法事では読経に手を抜くことはありませんでした、そして可能な限り法話をしてまいりました。

 

 現代の才僧で高度な宗教哲学を論じられる、青森県曹洞宗恐山菩提寺院代(山主代理):南 直哉老師の著書に衝撃を受けました。

 

 「道元禅師を100%信じているわけではない」…………この言葉に仰天したのです。

 

 曹洞宗の僧侶は、天才中の天才である宗祖:道元禅師が間違ったことを言われるはずがないと教えられ、その通りであると思い込まされて来ました。(結構洗脳に近いかも)

 

 しかしその教えを学ぶにつれ、多くの疑問点、矛盾点が湧き起こってきたのです。

 その時に南老師のこの著書に出会いました。

 

 このような才能豊かな方が、堂々と仏教のそして道元禅の核心をつく自らの思いを述べられることに感動しました。

 

 結論を言えば、宗派意識を超えてお釈迦様の仏法に生きれば良いと思っています。

 

 

読経も法話も真剣です

◎とうとう島根にもやってきた

                                            R3/4/22

 

 恐れていたことが現実味を帯びてきました。

 突如12名の感染者が発表されたのです。

 圧倒的に0更行進を続けて来た島根に取っては昨年の100人クラスター以来の衝撃的な数字です。

 

 松江市も出雲市も感染者が数名出ていますので、ここは島根東部住民は要注意だと思います。

 

 不要不急の外出はしないようにしたいと思います。

 

 それにしても大阪の感染者数は桁違いの数字が出ています。

 東京も緊急事態宣言を要請しています、東京もジワリと感染者が増えてきています。

 テレビで見ていても、繁華街や駅でもすごい人であふれています。

 

 自分はマスクをしてるし大丈夫、感染なんかしないだろうという、危険が迫っているのに油断だらけの群衆が映っていました。

 

 大阪近県の感染者や岡山・広島・山口の感染者もすごいです。

 そして感染者数が少なかった鳥取県でも他県並みになって来ました。

 

 だから島根県がこの感染者数になったのも自然現象として頷けます。

 今年も仏教関係の事業は何もできないでしょう。

 世界的災害と認識して諦めるしかないと思います。

 

ヤバい…身近に危険が!

◎結局緊急事態宣言となった

                                     R3/4/21

 

 中途半端なまん延防止等重点措置では結局抑えきれなかったコロナ対策。

 大阪では感染が止まりません、その上若年層でも重症化という、今までに見られなかった現象も起きている。

 

 ワクチンも遅きに失している、菅総理がファイザー社CEOと9月末までの完納を予約したとのことですが、これは当てになりません。

 

 世界中からワクチンを求められているファイザー社に、バイデン大統領との会談にやってきた菅首相が、ついでにCEOに、しかも電話で依頼したのです。

 

 そりゃあ、リップサービスで「うん、いいよ」って言いますわな。

 

 そもそもファイザー社のワクチンが出来た時点で、菅総理が直接ファイザー社に出かけて依頼するのならともかく、他国が一斉に動いたのにも拘わらず、指をくわえてみおておいて、今更会談のついでに、あーそうだとワクチンの件を思い出し、電話で要請する程度のことですから、私は全然当てにならないと思っています。

 

 島根県は感染者0が結構多いのですが、安心していてはいけません。

 厄介なのが、コロナ菌をもっていても陰性で、自分でも意識しないうちに他人に感染させる可能性があることです。

 

 おそらく0という理由で、全国でも観光なら島根だという狙い目にされていることでしょう、来県者の中には、保菌者だけど陰性で見た目にはわからない方が結構いる、ということも疑わなくてはなりません。

 

 0だから心配しなくてよいということではありません。

溜息…またか

◎お遍路さんの悲哀

                       R3/4/20

 

 昔からお遍路さんは、故郷から捨てられ、追われ、故郷の役人が発行する身分証明書「捨往来手形」をもっており、そこにはこのものが遍路の途中で行き倒れになっても、故郷に知らせる必要がないと明記されていた。

 

 つまり昔のお遍路さんは、病弱者や極貧乏者、村八分になった者などが死ぬ覚悟で出かけたのです。

 現在のように、観光バスで半ばレジャーじみた観光遍路などではなく、本気で死にに行くための遍路でした。

 

 昔、伊予国に、河野衛門三郎という強欲非道な大百姓が住んでいました。

 

ある日、衛門三郎の家の前に一人の旅のお坊さんがやってきて、托鉢の鈴を鳴らしました。

 

心地よい昼寝を破られた衛門三郎は、お坊さんを追い返そうとしたのですが、動きません。

腹を立てた衛門三郎は、竹ほうきでお坊さんの椀をたたき落としました。

すると椀は、8つに割れて飛び散ってしまいました。

 

そんなことがあった翌日から、衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。

さすがの衛門三郎も声を上げて泣きました。

 

ある夜、衛門三郎の夢枕にあの旅のお坊さんが現れ、「全非を悔いて情け深い人になれ」 と告げます。

 

夢から覚めた衛門三郎は、自分が強欲であったことを悔い、あの時の旅僧は弘法大師だと気が付きました。

 

衛門三郎は許しを請うために旅に出たのが四国お遍路の始まりと言われています。

 

 

現在はレジャー化しています

◎仏教はコロナが長引こうが廃れることはありません

                                                                            R3/4/19                                                                                     

 

 何故かと言えば、日本の仏教は日本人の心の奥深くに染みこんでいます。

 いくらコロナ禍であっても、家族がもし亡くなれば、その処理をしなくてはいけません。

 

 その時に仏教の深い教えを考えるなどという方はいません。

 

 目の前の遺体を素早く処理するためにはどうすれば良いかをまず考えます。

 その時に都会に住む方は、そして経済的にあまりお金をかける訳にはいかない方は、手っ取り早く直葬にされる方も出て参ります。

 

 人によっては、ただ親の遺体を焼却処分すれば良いと思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、多くの方は育てて貰った恩に報いるのに、祖父母や両親がしてきたような手厚い葬り方ができなかったという後悔が、後をひいていくのではないかと思います。

 

 後ろめたさが自分を攻め続けていくと思われます。

 それくらい、仏教というよりは、仏教的葬儀の慣習が日本人には根底に根ずいているのです。

 その仏教の単なる形式だけで終わらせず、仏教の中身、教えを説いていかなければならないのは僧侶であり、住職の課題であります。

 

 手厚く葬らなければいけないのは、仏教寺院の僧侶も同じ事です。

 しっかりと決められた儀式を懇ろに執り行ってはじめて、次の住職として認められるような気がしています。

 

   

懇ろに弔いたい

◎石破さんにガッカリしたことが一つあります

                                                                 R3/4/18

  

 それはBSフジ プライムニュースに出演された時のことです。

 

 菅総理が総務大臣だったときのこと、大臣秘書に大学を卒業したてでバンドマン志望の息子をあてたのです。

 このことに関して石破さんは、大臣秘書はいろんな人がいたからね今までも、と特に問題はないかの如くスルーされたのです。

 この反応に対して私は、これは石破さんらしくないと思いましたよ。

 

 菅総理が総理に就任して半年にも至らぬ時期に、自民党の議員達が管総理を擁護出来ぬ雰囲気を作り出した時、石破さんがカツを入れられた。

 「先般自分たちで総理を選んだばかりで、それはないだろう。」

 

 その男気はよく分かります、でも菅総理を支えることと、何も分からぬバンドマン志望の息子を大臣秘書として税金から給与を与えることとは別問題だと思うのですが、私の解釈の方が間違っているのでしょうか。

 

 安倍元総理と共に官僚の人事権を握り、官僚に対し逆らうことを許さない恐怖政治の結果総理大臣になったので、官僚から厚い信頼・信望を受けてなったのではありません。

 

 菅総理は現在アメリカでバイデン大統領と会談中ですが、おそらく世論の支持率がグンと上がるのでしょうね。

 前にも書いたのですが、私は世論を全く信用していません。

 ちょっとふざけて言えば、ヨロヨロ……ヨロンと安定しないのが世論なのです。

 

 いくら支持率が上がろうとも私は菅総理を、信頼することは絶対あり得ません。

 

 

 

 

 

明白な疑惑

◎葬儀が家族葬なら結婚式も家族婚?

                                                R3/4/17

 

 家族葬があるのなら家族婚もあり得ると思えて、ネット検索したらヒットしました。

 

 葬儀がコロナ回避で家族葬・(悔やみ受け)流れ焼香が主流となっています。

 さすれば結婚式も家族婚・流れ祝儀があっても不思議ではないと思って検索したのですが、家族婚はあっても流れ祝儀なるものはありません。

 

 葬儀の一時間前から流れ焼香をするというやり方には、ほとほと感心いたしました。

 葬儀社の会館の中に入って長い読経に逢わなくて済むのですから、一般焼香の方にとっても弔意は示すことが出来るし、時間は短いし、良いことづくめなのかもしれません。

 

 両家家族婚、或いは両家親族婚で、流れ焼香と同じように披露宴の1時間前から祝い受け付けを式開始時間まで設置すれば、祝いたいと思っている友人達や懇意にしている知人方にもある程度納得していただけるのではないでしょうか。

 

    その代わり、祝儀受付の時、祝い返しと同時に、新郎新婦の詳しいプロフィールも添えておくべきでしょう。

 

 それにしても変異株のコロナの勢力はものすごいものがあります。

 五輪開催へ向け、意地でも緊急事態宣言を出そうとしない政府ですが、名前は変わっても「まん延防止等重点措置」を望む都府県が増加、そして小池知事の「東京へ来ないで」発言が出ました。

 東京都知事が東京五輪開催3ヶ月前に、「東京へ来ないで」と訴える、しかも自民党幹事長が「五輪中止あり得る」発言を見ていると、こんな状態で五輪開催などはとても出来る雰囲気ではありません。

 

 残念ながら早めの決断が求められる時期が来ているような気がしています。

 

 

流れ焼香はグッドアイデアでした

◎今死んでも大丈夫な覚悟

                         R3/4/16   

 

  死はいつ襲ってくるか分かりません。

 この心の臓が動かなくなれば、この世から去らねばならないのです。

 

 東日本大震災の津波もそうでした。

 関連死を含めると22,200人もの方が命を落としています。

 

 今までの地震でも大丈夫だったのだから、今度も大丈夫だろうとわざわざ海岸の堤防に出て津波の高さをこの目で見ようとした方もテレビの画面に映っていました。

 

 まさかという思い込みで、命を落とした方もたくさんおられると思います。

 

 平均でも10メートルから15メートル、最大では21メートルの高さ、そして地形によっては40メートルを超えた箇所もあるようです。

 家を、地域を一呑みにしていく津波の恐怖を思い知らされました。

 

  神戸地震では津波は起きなかったのですが、高速道路がぐにゃりと曲がったり切断されたりする程の揺れで、家の中で壁や家具に挟まれて、身動きが取れない中での大規模な火災が発生し、炎の中で命を落とした方も沢山いらっしゃいます。

 

 さっきまで元気だった方が、脳梗塞や心臓麻痺で命を落とす方、病院の手術で臓器の中にメスやはさみが残って、再び取り出し手術という話もたまにありますので、医者の不注意で切ってはいけない大事な血管を切ってしまって命を落とすことだってありますでしょう。

 また運が悪いと、暴力団による人違い殺人や、突如前の道路が陥没することや、台風でビルの屋上の看板が落ちてきて命を落とすこと、登山中突然の噴火による死もあります。

 

 どんなに健康に留意している頑丈な方でも一寸先は闇なのです。

 その時に、いつ命を落としても良い覚悟を私たちは持っているのでしょうか。

 

 ケセラセラです、道元禅師は、「命を失う時は南無釈迦牟尼仏、或いは南無帰依仏」と称えなさいとお示しです。

 

 

 ああ、神様、ナンマンダブ、アーメン、いざ、まさかという時に称えることばを用意しておきたいものです、きっと後生の利益に恵まれます。

いつ命がなくなるか不可知です

◎ヒザ痛が治った

                     R3/4/15

 

 4月8日くらいからヒザに違和感を覚えた。

 病院へいくことも考えたが、以前鎮痛漢方薬「イタドリ」を飲んで治ったことを思い出した。

 

 以前正座が出来ないほどヒザが痛くなった時、境内の管理をしていただいている元大工さんから教えていただいた薬です。

 

 その時は一回飲んだだけであっという間に治りました。

 

 今回もそれを思い出したのです。

 

 今回も正座をしようとしても、痛みのためヒザ立ちで朝課読経したりしました。

 また、歩いていてもヒザに力が入らず、時々うずくまるほどの激痛が走ったりしました。

 

 丁度飲み始めて一週間になりますが、なんと不思議です。

 全く痛みが無くなりました。

 

 感謝、感謝です、ですからヒザ痛でお困りの方は、病院へ行く前に一度試してみる価値はあると思っています。

 

 「正座が……」「歩行が……」とおっしゃる方、人によって効果の差はあるかもしれませんが、人によっては救世主となりますよ。

寝ていてもジリジリ痛む

                               R3/4/14
 
 とうとう政府が福島原発事故の処理水を海洋放出することに決定した。
 勿論濃度を薄めての放出です。
 
 これについて橋本 徹氏は、全国の海に均等に放出すべきだと意見された。
 
 確かにおっしゃる通りですが、韓国の異様なまでの反発をみると、日本海に放出すればその反発が相当激化することは必死です。
 
 橋本氏の意見は基本的には賛成ですが、私は少しだけ違った思いを持っています。
 だって福島県民にとっては余りにも不公平だと感じます。
 東京都民のための膨大な電力のために、東京から離れた福島に原発を作ったのです。
 
 その原発が事故を起こし、未だに故郷へ帰れない原発難民の方も沢山おられます。
 
 やっと福島の漁業が回復の兆しが見えた段階での汚染水地元海洋放出では、あまりに不公平で、県民にとっては踏んだり蹴ったりではありませんか。
 
 私は事故による多大な災害を福島県民にだけ負わせてはいけない気がしています、対岸の火事とばかり素知らぬ顔をし、のほほんと電力を使っている東京都民が住む東京湾放出にこそ比重をかけた方が良さそうな気がしています。

「東京湾にも原発を」という本もある

◎あの世は分からないから、丁度いいのかもしれない

                                                                          R3/4/13

 

  あの世の行き先が分かってしまったら、世の中メチャクチャになってしまいます。

 

 あの世のぞき箱を覗いて自分の死後の行き先が分かったらどうでしょう。

 

 善業を積み上げた方が自分の行き先が「極楽浄土」と分かったら、なお一層善業に励まれるでしょう。

 

 問題は、行き先が「畜生道」や「餓鬼道」とか「地獄」とか、自分が望んでいた行き先とは全く違う行き先が示された時に人はどうなるかと言うことです。

 

 地獄行きが決まってるのなら、この先どんなに善業を尽くしたところで何にもならないのだから、更に徹底的に悪業に向かってやろうということになるでしょう。

 

 お釈迦様の教えの中に、この池に石を投げ込んでおいて、皆で一心に「石よ浮かび上がれ」と祈ったら果たして石は浮かぶのだろうか?

 

 いいえ尊師、石は浮かび上がりません。

 

 それでは、油をこの池に投げ込み、「油よ沈め」と祈れば油が沈むであろうか?

 

 いいえ尊師、油は沈みません。

 

 これはお釈迦様の自業自得を説いた喩えとして有名です。

 

 あの世覗き箱などないのですから、お釈迦様のこの教えに従って、善業を尽くす努力をしておいた方が良さそうです。

行き先はここで決まります

◎島根県はコロナ感染者が少な過ぎる……不思議だ

                                                                     R3/4/12

 

  全国の感染者数を新聞で毎日見ているのですが、他県はものすごい感染者数が発表されていても、島根は何日も0という日が続いていたりしています。

  

  島根に観光客が来ていないのか、というとそうではありません。

  玉造温泉・出雲大社・松江城・石見銀山・津和野町などそれなりにお客は足を運んでいるのです。

逆に感染者0に惹かれて数が増加しているはずです。

  

  そしてイオンやゆめタウン、スーパーなど、確かにマスクはしているけれども、土日には本当に大丈夫なのかというほどの客数の多さを感じます。

  

  それでも0のオンパレードです、そして昨年100人ほどのクラスターが出て、お隣の鳥取県には感染者数で大幅に負けていたのに、とうとう鳥取県に追いつかれて、なおかつ追い越されてしまっています。

  

  最近は全国でも島根の感染者数が0という発表が当たり前のようになっています。

  不思議です、実に不思議です。

  

  それは出雲部の方達の心の奥に潜んでいる「大社さんのおかげ」なのだろうか?

  実に不思議でたまりません。

天照大神の
パワーかもしれない

◎一体ミャンマーはどうなっているんですか

                                                              R3/4/11

 

 いや、ミャンマー国内は軍部が悪いに決まっていますよ。

 軍が、自分たちの方が民主主義だなどと勝手な主張をし、武器を持たない民衆に対し虐殺を始めているのに、民主大国である米英日本は何をしているのでしょうか。

 

 ロシアのプーチンにしても、中国の習近平にしても、自国で同じ人権を踏みにじる行為をしているから、ミャンマーへの批判ができないのは理解できますが、本当の民主国家であるはずの米・英・仏・日は何をしてるのでしょう。

 こと無実で武器を持たぬ国民が国民を守るべきはずの軍部から武器による殺戮を受けている現在、中・ロに遠慮する必要がどこにあるんでしょう。

 

 おそらくトランプさんなら、イランの軍事トップ、ソレーマーニー司令官を暗殺したように、おそらく独断で動いていたかもしれない。

 

 バイデン大統領、ただ批判をするだけでは、虐殺はなくなりませんよ。

 こんなひどい虐殺は普通ないではありませんか。

   今日のニュースでも80人が虐殺され、政権に反対する少数部族が警察所を攻撃して複数の警察官が殺害された模様です。

 するとまたその地域が砲撃を受ける…何の罪もない人たちの命が奪われ、泥沼化の様相を呈しています。

 

 武器を持たない国民に銃や砲弾を向け、大量殺害をしている軍国家に対して批判だけ、全くの無力状態の国連が手を出せないようであるならば、トランプさんの方がましだったのかもしれない。

 

 命を尊ぶ仏教各派も何故声を出さないのか不思議でたまらない。

軍人も平気で虐殺できるよう
訓練されているそうです

◎11日は副住職と2人だけで大般若祈祷会を行います

 

    大般若祈祷を目前にして、副住職は腰痛、住職は膝関節痛となりました。

 

    お檀家皆さま方に対する祈祷はもちろんですが、コロナ退散をも願う祈祷会に対し、コロナからの嫌がらせのような気がしております。

    

    余計に全身全霊で祈祷したいと存じます。

    

    カリフォルニアで新型の変異株発生、感染力が強く、その上重症化しやすく、ワクチン効果を低下させるウィルスが沖縄で発見されました。

    

    益々もってワクチンだけでは解決出来ないことが明らかになってきました。

    

    期待を持って年寄り優先でワクチンを打たせて貰っても、どんどん変異型が発生すれば何の役にも立たないのです。

    私の様に糖尿病者はそのワクチン接種がいつになるか分かりません。

    また、接種しても効かないとなれば、何となく絶望的なのですが、藁にもすがる思いで勿論打たせていただきます。

    

    だからワクチン製造者はどんな変異に対しても効力のある開発が必要です。

    

    希望的なニュースが飛び込んで来ました。

    京都大学・長崎大学の共同研究で骨粗鬆症薬の中の薬品と糖尿病薬の中の薬品が治療薬として有効ではないかと研究が進んでいます。

    

    とりあえず僧侶としては、大般若祈祷に全力を注ぎたいと思います。

    

コロナ絶滅のため
頑張っていただきたい

                                                            R3/4/9
 
 生老病死は、四苦八苦の四苦にあたります。
 「人生楽ありゃ苦もあるさ」 ご存じ水戸黄門の主題歌であります。
 
  楽だけなら何の心配もないのですが、問題は苦です。
 
 四苦の中で解釈が難解なのは「生」です、生まれる苦しみとは何か?
 
 その解釈は2種類あります、一つは、お母さんの狭い産道を抜け出る苦しみ、という解釈があります。
 しかし殆どの方は、そんな苦しみを覚えていません。
 ということは、それは苦しみとは言えないでしょう。
 
 母とは羊水の中でへその緒でつながれています。
 水の中で生まれそだっていく事実は、我々の先祖が海から生まれ出た事にも繋がっているのかもしれない。
 
 それはさておき、もう一つの解釈は、人生が苦しみに満ちていますが、その人間として生きていく苦しみの中に生まれ出ずる苦しみとの解釈です。
 
 死の苦しみは、私はないと思っています。
 なぜなら、これが死かと思った瞬間には既に死が終わっています。
 死に至る瞬間には、それまでどんなに激しい苦痛に見舞われていても、アドレナリンが排出され、苦痛なしで死に至ることができる様に、私たちの身体は出来ています。
 
 すると公平に与えられている生と死は、その生の瞬間と死の瞬間は人生における苦ではないということになります。
 
 残るのは老と病です。
 老の苦しみは、人によって違いがあります、事故も病もなければ、老いはただの老衰ということになります、そして例え事故や病にとりつかれていても、熟考の末、全ての煩わしさから解放され老いを楽しみとして生きることができる人もいます。
 
 残りは病ということになりそうです、池江選手のように、努力によって白血病を克服する方もいますが、全くの例外だと思います。
 
 病を友として生きるには、余程の熟慮と納得がいると思いますが、普通は病を悪として闘うという意識が強いのではないでしょうか。
 
 だから苦の順番は、病・老・生・死ということになりそうです。

病気は友達?

◎寺檀一如を目指し頑張っているつもり

                                                     R3/4/8

 

 コロナ自粛生活で、一寺院として、なかなかお檀家様を一同に会していただく事が困難となり、しかしその中でも、お檀家様との心をつなぐための方策として、寺報を出したりこのブログを毎日更新したりしているのです。

 

 でも、お檀家様の中には、住職の努力などどこ吹く風で、「あんまり見ていませんが、大変でしょうね」とか「あ、なんか毎日文章を載せていらっしゃるんですってね」「ごめんなさい、全然見ていません」などとおっしゃる方が結構いらっしゃって、自分の期待通りにはいかないものだということを痛感したものです。

    まあ最もお年寄りの方はインターネットとかホーページとかブログってそりゃ何だ?って方もいらっしゃるでしょうし、若い方は仕事で疲れて住職のブログをみるより寝なくちゃという方もいらっしゃるのでしょう。

 

 最近は見ていただきたいなどと思ってはいけないと思うようになりました。

 

 立派なお坊さんとはほど遠い毎日を送っている私の文章など、真剣に読んでいらっしゃる方などいないと思い込む方が気が楽だと思うようになりました。

 そうではなく、あくまでも自分の勉強であり、修行であると自覚する事が、安心して文章を載せる事に繋がるのだ、との思いに至っています。

 

 でも時々、あの文章は感動しましたなどとおっしゃる方がいると、もううれしくなってすぐ有頂天になってしまいます。

 

 自分の修行ではあるけれども、真剣にご覧になっている方もいるんだと思うと、頑張らねばと勇気づけられます。

 

 このブログで346回になります、後20回で丁度一年となります。

 

なかなか文章が浮かんで来ない

◎やはり大変な事になってきた

                                          R3/4/7

 

 コロナの感染拡大が異常です。

 解除宣言を先行させた大阪では878人、東京は555人、兵庫328人になり、20代、30代が急激に伸びています。

 全国新規感染者3,000人以上となり、やはり第4波に入ったと認識せざるを得ません。

 

 感染力が強く、急激に拡大をしている、重症者増大、医療逼迫です。

 ワクチンは速度が遅い、高齢者は6月までにとの予想はかなり外れそうです。

 おそらく8月以降になるのではないかと思います。

 

 その後一般の方々ですから、その頃にはワクチンだって益々進化し、平気でワクチンをすり抜ける新型が登場し、来年も今年と同じ行程を踏むのかなあ。

 

 全国的なこの勢いを見れば、島根も安心などしていられません。

 昨年もあっという間に100人のクラスターが発生しています。

 人口比にすれば圧倒的に感染者数は少ないのですが、松江のイオンとか出雲のゆめタウンでは、土日などは結構密で、いつクラスターが発生してもおかしくない状態です。

 関西圏からの影響をもっと深刻に考える必要がありそうです。

バランス取ってたけど、変異ウィルス強すぎた

◎この世もあの世も不思議な世界③

                                                  R3/4/6

 

 私たち人間の先祖が海水であり、さらに進化して海のゴミ?が更に進化したものなのでしょうか。

 

 私たちの遺伝子にはそれが書き込んであるのでしょうか。

 ダーウィンの進化論を出さずとも変化するものが生き残るのは当然のことです。

 

 まあそれはさておき、私が言いたいのは、この世の生物は間違いなく自然に進化(変化)する方向に動いているということです。

 

 壊滅・絶滅に向かって進む生物などないのです。

 

 例えば、コロナウィルスにしたってそうではありませんか。

 放っておくと進化しようとしています。

 ワクチンという敵が来ればそれをすり抜け、姿を変えようとする……ということは自分が壊滅することを避け、優秀な子孫を残そうとし、進化しようとしている証ではありませんか。

 

 まるでウィルスそのものに意志があるかのようです。

 

 コロナの遺伝子を読み解けば、それがコウモリから出てきたものなのか、あるいは武漢のウィルス研究所から出たものなのかはいずれ分かってくるような気がしています。

生きものは進化するのです

                                         R3/4/5
 
 何というたくましさ、何という根性、何という頑張り、何という強さ、何という驚異的な凄さでしょう。
 
 あのゴール後の涙、そして会見の言葉には涙なしでは見ることができませんでした。
 今すぐ、国民栄誉賞を差し上げても誰も文句を言う方はいないでしょう。
 
 血液の癌と呼ばれる白血病に襲われたら、まず絶望で何をする気にもならないのが普通です。
 そこからこのオリンピック最終選考会で優勝するなんてもはや超人です、神だと思います、いくら称賛しても称賛仕切れません。
 
 この優勝は多くの方に勇気と感動を与えてくれました。
 私は、こんなに頑張っておそらく想像を絶する練習の結果を出した彼女に対し、自分自身が本当に勇気をいただいた気がしました。
 
 池江選手、ありがとうう!!!

池江選手ありがとう!!!

◎この世もあの世も不思議な世界②

                                                R3/4/4

 

 よくよく考えて見れば、この世の人間、存在しているだけで不思議だと思いませんか。

 

 136億年前、宇宙がビッグバンで出来上がり、そこら辺から不思議です。

 未来も未知の世界であるけれども、過去だって未知の世界なのです。

 

 だってビッグバンの前は宇宙はどういいう状態だったのだろうか、全くの無から宇宙は生まれたのだろうか。

 

 実は我々はホーキング博士によって、宇宙はビッグバンから始まったと思わされているが、その証拠は何なのか。

 

 ビッグバンではない可能性はないのか。

 

 太陽系の宇宙がいくつもあるらしいが、そのはては、その区切りはどうなっているのか。

 

 地球が生まれて46億年、海の微生物から生物の歴史が始まったといいます。

 酸素があり、ほどよい温度があり、その微生物の餌となる食物が豊富にあったとしても、何故そこから生物が生まれるんですか。

 

 生まれせしめたのは何者なのか、微生物から進化させうるものはなんなのだろうか。

 進化が進化を生み長い歴史を踏んで、今ここにいるこの私という存在は、一体何者なのか。

 

 元々は微生物の前はただの海水にすぎないものが、今は眼があり、鼻があり、口があり、頭があり、胴体があり、手足がある。

 

 元は只の海水にすぎないものが、意志を持ち、思考する事が出来る人間となっている。

  これを不思議と言わずして何というのであろうか。                          つづく

元はただの海水です

                                               R3/4/3
 
 この世の住人からすれば、あの世は不思議な世界に見えます。 
 では、この世は不思議ではないかといえば、この世も不思議だらけなのです。
 
 曹洞宗を開いた道元禅師様が、中国の天童寺で修行をされて後、日本に帰られて興聖寺という禅の道場を開かれた。
 
 その上堂の第一声がこの言葉です。
 お師匠様の如浄禅師にまみえた時、即座にこの言葉を悟り、もう人には騙されないと確信したとあります。
 
 眼は横に、鼻は縦にあること、すなわち当たり前のことを当たり前に捉える術を得たということです。
 
 一休さんだったでしょうか、枝が曲がりくねった植木の松を門前に出して、「誰かこの松をまっすぐに見えた人に褒美をやる」と書き置いた。
 
 「まっすぐになど見えない」として誰も褒美を貰おうとしなかった。
 しかし夕方、1人の旅人が通りかかり、「立派に曲がった松ですな~」と大声で話した、その旅人に一休さんは褒美を与えたそうです。
 
 当たり前のことを当たり前に受け取ることが大切だという禅語なのですが、もう一つ別の面から見てみると、世界中の動物が眼の下に鼻があり、その下に口があります。
 それは古代の恐竜もそうですし鳥も魚もそうですよね。
 
 それじゃあミミズはどうでしょう。
 ミミズは退化して眼がないと思われているのですが、確かに表面にはないのですが、身体の中に沢山の眼があるそうです、以外ですね。                                                                                            ……つづく

眼がこんなところにはない

◎ケセラセラは、信仰のど真ん中

                                                R3/4/2

 

 

 コロナが第4波を迎えつつあります、人類最強の敵と言わざるを得ません。

 その敵は、忍者と同じで人を攻撃すれど姿を見せません、顕微鏡でしかその姿を表さないのです。

 気づかぬうちに、口から鼻からこっそり忍び込んで、城内の柱・天井・壁を攻撃してダメージを与えます。

 PCR検査をし、陽性となって初めて敵が城内に潜入していることが解るのです。

 

 城内で忍者捕獲部隊のワクチンができたと知るや、変身の術を使い、ワクチンをすり抜けようとします。

 

 その城が新しく堅牢な柱・天井・壁であれば、少々の攻撃ではダメージはありませんが、その柱・天井・壁が古ければひとたまりもありません。

 城そのものが崩れ落ちるのは時間の問題です。

 

 やっかいなのは、堅牢な城の忍者は陰性でPCR検査にもひっかからないのですが、その忍者が陰性のまま外に出て、他の城に潜り込もうとするのです。

 

 誠に厄介な敵ですが、それでもキチンとマスクをして、消毒、手洗い、うがいをすればある程度防げます。

 

 でも100%絶対という事はないのです、だって外で食事をしたらマスクを外す瞬間は必ずありますもの。

 

 家族なら安心だと思っていたら、家族クラスターだって起きています。

 どうにもならぬ不可抗力の事態が起こり得るのです。

 

 そんな時は、「ケセラセラ」の出番です。

 私は信仰の言葉だと思っています。

 「なるようになれ」は投げやりの言葉ではなく、信仰のど真ん中、(神や仏に対する)お任せの言葉だと思っています。

 ですから「ナンマンダブ」や「ナンミョウホウレゲキョウ」と同じです。

忍び込み易い城だぜ!

◎変異株とうとう近くまでやって来た

                                                    R3/4/1

 

 4月1日、本日感染者は東京で475人、大阪で616人、兵庫で199人です。

 

 その大阪へ行ってきたという鳥取県倉吉市のグループを含め、昨夜8人追加で合計20人の変異ウィルスクラスター発生、島根県奥出雲町でも1人感染、全国的には第4波に入ったと思える府県もあります。

 

徐々に変異株ウィルスによるコロナが、迫って来ているような気がします。

政府には、変異ウィルスに対して、ワクチンをすり抜けるウィルスを素早く発見し、対応を今のうちから考えていただきたい。

 ファイザーは南アフリカ型には現在のワクチンで対応出来ると証明したが、しかしウィルスは変化し続けるので、いつまでも初期ワクチンだけで対応出来るとは限らないのです。

 

 そしてくどいようだが、特に変異ウィルスにも効く可能性が高い「イベルメクチン」や「抗うつ病薬」への素早い促進力で治験・対応願いたいものです。

これからは俺たち変異株の時代よ!

◎もはやつける薬がない

                               R3/3/31

 

  厚労省の職員23人が東京・銀座の居酒屋で深夜まで送別会を開いた。

 

 国民は「またか」という思いしかないが、政権にとっては「まさか」「何をやっとるんだ」「信じられん」と衝撃が走った。

 

 それでも懲戒解雇ではなく、更迭で職場を変えるだけで役人天国、まあいつものことで驚きません。

 

 変異株による感染拡大の増加で、歯止めが効かないリバウンド状態になってきた。

 二階さんも再拡大であれば、解散を勧めるとのことだから、やはり解散は5月頃かもしれない。

 

 これだけ変異株が勢力を強めれば、ワクチンを打ったとて、安心なんてできるものではありません。

 

 ワクチンの改良には、再度相当の月日が必要となるし、その頃にはまた改良ワクチンをすり抜ける別の変異株が発生し、いたちごっこなのです。

 

 そこでどうしても声を上げたくなるのが、大村教授のイベルメクチンと西田教授の抗うつ病薬です。

 ここに頼るしかないと思うのに、政府はこれに対して動きが遅い、まごまごしてるから解散の危険度が増しているのです。

大臣が頑張っても、厚労職員が足を引っ張る

◎自粛生活の中だからこそ、このブログも生きてくる

                                                                           R3/3/30

 

  私ども僧侶は、仏教者として生きています。

 

 お釈迦様の教えを基に、自らもその教えにできるだけ忠実に生きようと思っています。

 思ってはいるのですが、お釈迦様の示された戒律とはほど遠い生活をしているのも事実です。

 

 そもそも僧侶は出家者であるべきなのに、日本の僧侶はまず結婚・妻帯をしています。

 

 そしてこのコロナ禍の状況では、とても出来ないのですが、少し前までは、法要の後で宴席に招かれ、お酒もごちそうもいただいていました。

 

 まことしやかにご法事の席では、修証義の十重禁戒も読み上げております。

 お酒を禁ずる戒も僧侶の都合のいいように解釈しています。

 生き物を殺すな、人のものを盗むな、性の交わりはするな、(在家は不倫をするな)、嘘をつくな、等耳が痛い事ばかりです。

 

 お釈迦様の戒を読み上げはするけれども、都合の悪い深い解説はしないのです。

 

 お釈迦様の戒を重んじる、東南アジアの仏教国の僧侶が、日本の僧侶の実態を知れば、必ずひっくり返ること間違いありません。

 

 だから日本の僧侶は完璧な破戒僧です、そのことをやはり恥ずべきで、申し訳ないつつましい思いをまず抱くべきです。

 

 そして破戒僧ではあるけれども、恥ずべき思いのない堕落僧になってはいけないと思っています。

 

 コロナ禍のステイホームで、仏教界は思ったような布教活動ができません。

 

 そのステイホームで威力を発揮するのが、この毎日書くブログだと思っています。

 賛否の感想は当然ありましょうけれども、住職の率直な思いを、考え方をお檀家様に届けたいと祈っています。

そろそろ政府の言うことを聞かなくなってきた

◎次の世論が注目です

                          R3/3/29

 

 前回の世論調査には愕然としたのですが、変異株のコロナが猛威をふるい出しました。

 大阪はまもなく宣言解除の取り消しでしょう。

 東京も近々そうなります。

 

 すると菅総理の「大丈夫です」は撤回することになり、再び宣言を出すことになるでしょう。

 

 「解散は考えていない、コロナ対策に万全を尽くす」というその万全が崩れつつあります。

 

 ヨーロッパの国々が、ワクチンを打っても変異株の破壊力でロックダウンする国が出てきていることを考えれば、まだまともにワクチンも満足に打てない状態の我が国で、宣言解除など本当はあり得ない話だったのではないでしょうか。

 

 感染者がゼロに近い状況での宣言解除なら納得できますが、変異株が勢力を増しつつある傾向の中での宣言解除など、自殺行為ではありませんか。

 

 そもそも安倍元総理と菅総理のコロナ対応の失敗が尾を引いているのです。

 再び宣言ということになれば、世論はどんな反応をするのか、見物です。

宣言解除、待ちに待っていたもんね
……でも

◎そりゃ、森さんにそういう機会を与える方が悪い                                                 

                                          R3/3/28

   森氏は3月26日、東京都内で開かれた河村建夫元官房長官のパーティーで、衆議院議員会館の河村氏事務所にいるベテラン女性秘書に「河村さんの部屋には大変なおばあちゃんがいる。女性というには、あまりにもお年だ」と発言しました。

 

 だって女性差別の根本が分かっていないのですからこの発言など当然出るべくして出てまいりました。

 

 これは率直に言って、そういう機会を与えた方が悪いのです。

 放っておけば、これからも数限りなく出てまいります、だって差別発言の宝庫なのですから。

 

 むしろ、このパーティは森さんの問題発言を期待していたのではないでしょうか。

 だってこの忘れかけていた影の薄い元官房長官がパーティを開いたという事だけでも驚いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 そういう視点から見れば、このパーティは森さんのお陰で注目を集め、大成功と言えるのではないでしょうか。

 

 主催者も、問題なく平穏なスピーチで終わってしまえば、「何のメリットもなかった」と愕然としてしまったのではないでしょうか。

多分死んでも治らない

                                              R3/3/27
 
 
 BS夜の政治番組で石破元防衛大臣の鋭い洞察力と核心をつく意見を聞いていると、『この方に総理になっていただけたら』 と思うことが何度もあります。
 
 この方であれば森友・加計・桜を見る会や総務省接待問題なども起こらないと確信いたします。
 
 ただ、あまりにも理屈っぽくネチっこいので議員方の間では不人気なのですが、是非一度機会があればおやりになっていただきたい方です。
 
 安倍政治と菅政治の、表向きは「国民のために働く」とは真反対の、「嘘で固めた自分の利益と自らの権力誇示のために働く」という吐き気がするような政治手法には飽き飽きしているので、石破さんなら「井戸・塀」政治家に近い政治を行っていただけるような気がするのですが、皆さんはどうお思いでしょうか。
 
 現実には、現在は派閥政治なので、石破総理はなかなか難しいのでしょうが、山陰出身なので、案外丸山知事の「不公平を正せ」との意見も、石破総理であったら即実現されていたかもしれない。

派閥の論理だとこうなります

◎自力と他力では、救われる感はどちらが強い?②

                                                                     R3/3/26

 

  とかく宗教者は、どの教えが素晴らしいか、どの教えが本当に救われるのかを考えてしまいます。

 一番正しい教えは何か、種々の宗派があれど、どの教えが正しいのか。

 

 そう思った上で、我が身が所属する宗派こそが一番正しくて、誰もが救われる宗派なり。

 

 大方そんな処ではないかと推測出来ます。

 

 確かに各宗祖はそれぞれに縁をいただかれ、それぞれに智・行に励み、自信をもって自らの教えの道を切り開かれたのです。

  

 私は、現代の宗教者は、自分の宗派にだけ思いをいたすのではなく、もう一つ上の視点から、仏教そのものを仏教全体を見渡す視野を持つべきだと思っています。

 何故かと言えば、八万四千の法門があることをお釈迦様が申しておられます。

 どんな教えであろうとも、それはそれぞれが尊い教えなのだ、八万四千の内のそれぞれ一つ一つなのだ、私にはお釈迦様がそう叫んでいらっしゃるような気がいたします。

 

 こんなことを書けば、当然反発が起こるのが必定と思います。

 

 「お前ごとき未熟者がなにを申すか」「自分の宗派こそが最上であるのに偉そうに何を申すか」

 私を批判する言葉が、手厳しく向けられることも百の承知の上で、やはり主張したいのです。

どの宗派もどの仏像も有り難い

◎あちゃー!やはり感染拡大だ~!

                                            R3/3/25

 

      3/24 あっという間に、東京は420人、宮城171人、大阪262人、神奈川・埼玉・千葉も100人超えになりました。

 特に変異株は、兵庫161人、大阪105人で、10代未満の幼児にたいしても感染力が強い。

 

 このままでは、おそらく第4波も直ぐにやってくるでしょう。

  

 何たってこの時期は気候も暖かくなり、花見、卒業、入学、引っ越し、歓送迎会、その上選挙もあって人々が動かざるを得ない状況が山のようにあります。

 そこへもってきて条件はあるというものの、自粛解除ですもの、開放感で、一気に人々が安心して外へ出かけます。 

 感染者数も驚異的にうなぎ登りになると予想出来ます。

 

 蓮舫議員の「リバウンドは本当に大丈夫なのか?」の質問に、総理は自信たっぷりに「大丈夫だ」と応えたが本当ですか?

 

 変異株の攻撃にさらされていて、早くからワクチンを打っているはずの英国もフランスもロックダウン中です。

 

 変異株が相当強烈である証です。

 

 何故イベルメクチンを早急に特別認可しないのでしょう、ワクチンと両方進めれば良いではありませんか、既存のワクチンだけに拘り、複合対策を打てないこの内閣は早急に交代すべきです。

やがてはこうなります
ロックダウン

◎自力と他力では、救われる感はどちらが強い?

                                                                R3/3/24

 

  自力といわれる曹洞宗はどうか、坐禅修行がそのまま悟りであり仏であるとの教えなのだけれども、正直に申せば、私は坐禅をしていて、「あ、今仏だ」とか「今、何も考えていないから、これが悟りだ」などと一度も感じたことはありません。

 

 足が痛くて「早くこの坐禅が終わらないかな」とか色々な妄想を考えていたことの方が多い。

 つまり、坐禅によって自分が救われるとか、仏に成れたなどと思ったことはないのです。

 

 曹洞禅は本来まともに取り組めば難しいのです、初心者はまず坐禅を組み、姿勢を正し、呼吸を整えて、まず足の痛みとの闘いをしなければならない。

 

 半跏趺坐なら大丈夫かと言えば、それでも痛みやしびれが生じます。

 とても安楽の法門にはほど遠いのです。

 

 一般の方なら、足の痛みに慣れるその段階に至るまでに、音を上げてしまう方が多いのです。

 

 苦痛があるから修行なのだという言い訳は、曹洞禅が総檀家を巻き込む程の参禅者がいない原因となっています。

 

 現在は宗門がイス坐禅を奨めていますが、それでも「居眠り禅」「妄想禅」がいいところで、何年経とうが道元禅師がおっしゃるようなつかみ所がない「非思量禅」など不可能に近いのです。(特に私の場合ですが)

 

 自分の宗派をあまり思わしくないような言い方をするのは気が引けますが、禅宗は自力だと言われます、だからどうしても難解で、救われている感や仏に成れた感にはほど遠い教えと言わざるを得ません。

 

 要するに曹洞宗は、坐禅で宗勢拡大してきた宗派ではなく、法事・葬祭に力を入れたので拡大した宗派なのです。

 

 それでは他力の浄土系の宗派はどうでしょうか。

 

 親鸞様のような堅い岩盤のような盤石な信心を最初から得るのは、いくら他力といえども、その部分は自力の部分なので難解です。

 

 そんな信心から入るような念仏ではなく、法然様のように、ただナンマンダブと口で称えればよいという行は「易行」と呼ばれるだけのことがあって、行じ易いと思います。

 

 行が易ければ信者も増えるのが道理ということではないでしょうか。

 ただ浄土系にも難点があります。

 

 現在のように科学が発展し、現実的で科学的な考え方をする現代の若い方が、はたして阿弥陀如来の存在を固く信じ、浄土を信じることのできるのかどうかです。

どちらもどちらの部分を持ち合わせる

◎大村教授が再び吠えられた

                                 R3/3/23

 

 せっかくノーベル賞受賞の北里大:大村教授のイベルメクチンが治療薬にも予防薬にもなり得るのに政府は、まるで目に入らぬかのようで、特別認可に動く姿勢も見受けられない。

 

 案外ワクチンを国民が2回受けるほどの大量購買予約をしているのが、抗寄生虫薬:イベルメクチンによって、それらのワクチンが無駄買いに終わった時の事を考えているのではないでしょうか。

 

 各国で治験が進み、即座に治ったという声も多数上がっているのに、政府の対応がじつに緩いのは、政府のメンツが邪魔をしているのではないでしょうか。

 

 注文通りに入荷出来ていないワクチン……しかもワクチンをすり抜ける変異株も出て来ています、そして副作用の危険性だって出ています。

 

そんなワクチンよりも、安価で即座に治って、しかも副作用がない錠剤薬のほうが良いに決まっているではありませんか。

 大村教授は、素早い特別認可を出すべきだと吠えられました、尤もな事です。

 

 これは九州大の西田教授の抗うつ病薬のコロナ予防治療薬も同じ事です、細胞にウィルスを侵入させないことを発見された功績は凄いと思います。

 

 これこそ変異株にも対応出来るもので、ワクチンを凌駕する予防薬ではないですか。

 

 速く終息できるなら、たとえワクチンが無駄になっても良いではありませんか、日本で生まれた薬品が世界を救う快挙に沸き、世界を救うことになれば日本政府だって鼻高々ではありませんか。

 政府の超素早い対応が欲しい。

 

注射なし、錠剤飲むだけ

 ◎「信」か「行」か

                                R3/3/22

 

 法然様は称名念仏そのものによって救われると説かれました。

         口で唱える行が大事……専修念仏。

親鸞さまは、信心をもって念仏を称えることで救われていくと説かれました。

        信心のない行は「空念仏」だ。

 

 元々二人の間には「信か行か」で違いがあったのです。

 

あるとき親鸞さまが、一門の間に考え方の異なる者がいるので、それを確認してみたいと法然さまに進言されました。

 

つまり往生するのに「信=信ずる心」が重要なのか、「行=口に出して念仏」が重要なのか、「信行両座」に分けて、いずれが重要なのか一門の人びとに問うてみたいというのです。

 

そして、親鸞さまをはじめ数名が「信」の座に着かれたのですが、大方はどちらに座ろうかと迷っていたところ、法然さまも「信」の座に着かれたということです。

そして言われた。

「念仏しているからといって信心を得たとは限らない、しかし信心を得れば必ず念仏を伴う。」

 しかし、これは法然様の真意ではないと思います。

 親鸞様に遠慮して、あるいは事を荒立てたくなくて迎合されたのです。

 

 ここに曹洞宗の道元禅師を登場させてみればどうなるでしょう。

 

 道元様は間違いなく「行」に付かれるはずです。

 「形(行)が整えば、信(心)は後から付いてくる」と示されています。

 

 では私はどちらかと明かせば、「親鸞様がおっしゃるような、最初から真の信心を持つことは凡人には難しいので、形(行)から入るべきではないか」と思っています。

 

信か行かどちらだ?

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◎一ヶ月先の予告

                     R3/3/21

 

 昨年4月27から始めたこのホットダイアリー、来月の27日で丁度一年になります。 

 そこで少し休息をいたします。

 

     何故かと言いますと、このブログを書いていますと、一日が全く余裕がなくなるのです。

  寝ても覚めても一日中今日はどんなブログにしようということばかり考えていました。

    そりゃあいい加減な事を書くのなら可能ですが、そんなことはしたくありませんもの。

 まさか私自身、1年も続けられるとは思っていませんでした。

 

 そこで、私の大事な仕事が手つかずのままですので、そこにエネルギーを費やしたく存じます。

 全く止めるのではなく、月1、或いは週1かでつなげて行こうとは思います。

 

 そして大事な仕事が完了し、余裕が出来たら、また毎日のブログに戻ってきます。

 だって毎日ブログを書くことの楽しさもたっぷり味わいましたし、毎日書ける自信もついたのですから。

   そして何より自分への勉強となりました、あろうことか所属する曹洞宗の批判をしたり、他宗派への批判を通して自らの気づきも反省も生まれました。

確かにこのブログを書くことによって少なからず成長させて頂いたと思っています。

 

 そういう事ですから、4月28日をもって、ひとまず休息に入ります事を今から、予告させていただきます。

1年間よく頑張った!

◎しつこいようですが、もう一度私の説を載せたい

                                                                      R3/3/20

 

 東日本大震災の10年目で3月11日も過ぎたので、もう一度書いてみたい。

  決して数字遊びをしている訳ではありません。

 

 私は2011年3月11日に起きた東日本大震災に衝撃を受けました。

 自然の猛威のもの凄さに唖然となりました。

 と同時にこの震災が単なる偶然ではなく、奇跡的で不思議な側面も多数持ち合わせていると直ぐに発見し、寺報にすぐさま書き込み、その年の8月、お檀家の皆様方にお知らせしました。

 

 実は自然災害の阪神神戸大震災と東日本大震災の発生時間が、午前5時46分と午後2時46分で、分の値が同じなのです。

 そして自然災害とは違って人災になるのですが、アメリカの同時多発テロの発生時間が午前8時46分(米時間、日本時間でも46分)なのです。

 それと東日本の3.11とか、同時テロの9.11と、阪神淡路の1.17とか日付の1の数字がダブっているのも不思議です。(東日本の3.11と、同時テロの9.11の日付を時間に置き換えれば、3時11分と9時11分で短針同志がキッチリ一直線となる

 

 いずれも日米に限っての死者、約6,000人以上の大惨事なのですが、いずれも46分という同じ時間なのです。

 

 これって不思議だとお思いになりませんか、偶然という言葉で表しきれない、私はこの46分が奇跡の時間だと思っています。

  人災と自然災害の違いがありますが、3件の分の値が同じになる確率は、ものすごい数字になるのではないでしょうか。

 

 しかも順序は違うのですが、発生時間が2時、5時、8時と3時間おきになっています。

 

 ですから気になる時計の時間を、3時間おきという目で見ると11時46分が空いています。

 

 人智を超えた大きな力が災害に働いているような気がしてなりません。

 

 次の大きな死者6、000人以上の大災害は午前か午後の11時46分になるのでは、と個人的には思っています。

                                                   

 他人の災害を数字で弄んでいるような気がして、今まであまり強く強調できなかったのですが、宗教者として感じた不思議な側面があることを、皆さんが一応認識しておかれた方が良いような気がして、再度このブログに載せました。

奇跡の時間

(◎阿倍・菅ラインは違法スレスレ狡猾ライン

                                                            R3/3/19

 

 総務大臣の25回答弁をみれば、絶対に尻尾を出さないぞとの意志が透けて見えます。

 

 でもあっさり文春が、総務大臣もNTT社長から接待を受けていたことをバラしてしまいました、文春砲スゴイ。

 

 総務省の幹部の首を切ろうが、絶対に自分や総理にことが及ぶことのないように防御しようとする意志の強さがありありと感じられていましたが、次々と文春にバッサリ斬られています。

 

 その首を切った幹部も、本来なら2週間後に本当の定年退職(60才)だったとのことですが、そうですか 5,800万円の退職金ですか。

 その定年を2週間早めて今、不自然に退職させる理由は、NHKの接待疑惑があるからだそうです。

 次から次へと接待贈賄疑惑が発覚しています。

 

 退職して民間人になったから、その幹部は国会招致は無理であるとの官房長官談話です。

 要するに、証拠・証人隠しのなにものでもありません。

 

 普通公務員が悪事を働いて辞職すればボーナス・退職金がなくなるのが普通ですが、留保されてるとはいえ、必ずそれに近い額はもらえます。

 その上おそらく気楽で高給な天下りの仕事が待ち受けているはずです。

 

  辞職者にうま味を残しながらトカゲの尻尾切りをして事を乗り越えようとするのは政治家の常套手段ですね。

 

 何をしようとも世論が甘いので、楽に乗り越えられると、総理の顔が狡猾自信に満ちた顔になっています。

 

 文春さ~ん、次はいよいよ本丸ですよ~。

 

 

「記憶がないと言え」
的確な指示なれど、周りに筒抜けだ

◎世の中で一番幸せな人ってどんな人?

                                                     R3/3/18

 

 私が法話をする時に、皆様方に必ずこの質問を投げかけました。

 このブログをお読みの皆さま方はどうお答えになりますでしょうか。

 

 人によっては、お金が有り余るほど沢山あって、豪華な家に住み、美人の妻と結婚し、家政婦さんが沢山いて、 運転手付きの車に乗り、毎日贅沢に遊んで暮らせる。

 

 案外そういうことが幸せだと思っている方が多いのではないかと推測します。(違っていたらごめんなさい)

 

 私が一番幸せな人だと思うのは、ここら辺の言葉(出雲弁)で言えば、どげな(どんな)

えらい目に逢っても感謝の出来る人だと思います。

 

 どうです、皆さん出来ますでしょうか、私は残念ながら出来ません。

 「出来ないというのなら、それはただの理想論ではないか」

 そうかもしれません。

 ただ、出来ませんけれども、理想の幸せという具体的な思いを持ち合わせているかいないかでは、現実にどげな目にか逢った時に、具体的対応に確かな差が現れると思っています。

いざ災害、感謝できるか?

◎九州大学:西田教授もありがとう!

                                                   R3/3/17

 

 ノーベル賞受賞者大村教授発見のイベルメクチンがコロナに対して非常に有効であることが判明して希望が持てたのですが、このたび九州大学の西田教授が抗うつ病薬「アナフラニール」の中の「クロミフラミン」がコロナの細胞侵入を防ぐ効果があることを発見された。

  

 さすが日本の医学は、世界のトップクラスであると再確認いたしました。

 実験された動画データで、クロミフラミンを投与すると、細胞が全く壊されない状態が確認できました。

 

 是非治験を早めて早急に使用できる様にしていただきたいと思います。

 

 世界のコロナ感染者数が、1億2千万人に達したと報道がありました。

 これは日本の人口と同じ数ということになります。

 

 一位はアメリカ、間もなく3千万人に達します、東京の人口の3倍です。

 2位はブラジルとインド、1千万人づつです。

 

 世界を救うためにも、日本の薬品がその使命を果たすことを願って止みません。

今度は九大:西田教授の快挙!
 

◎批判と悪口の違い

                        R3/3/16

 

 仏教者だから批判してはならないのだろうか。

 お釈迦様はバラモン教やヒンズー教の差別に対して、「人は平等である」と容赦なく厳しい批判をされています。

 

 人としての真の道から外れていることに対しては、厳しい言葉で批判をされています。

  それは悪口ではありません、真の道に戻させようという慈悲の批判なのです。

 

 何も言わないのが立派なことではありません。

 正しいことを正しく発言することこそ、仏教者として必要ではないかと思うのです。

 

 東北新社の社長が「菅総理の息子正剛氏は優秀な人材である」と持ち上げた。

 

 騙されてはなりません、彼の人間性や仕事に対する姿勢が優秀なのではなく、ただ総理の息子だから優秀なのです。

 

 総理の息子、(当時は総務大臣の息子)でなかったら、誰がバンドマン志望でロン毛でサングラスをかけ口ひげ生やした気持ち悪い若者を雇うものですか。

 

 菅総理の息子は「接待要員ではない」とのことですが、誰がそんな事を信じるでしょう。

 

 脳科学者の茂木健一郎氏が、「会社の監督官庁を接待すること自体が倫理的にNG]

 

 「政治家に人事を握られている官僚の発言は、忖度と便宜でいいくるめる芸術だとみんな思ってる、情けない」

 

 武田総務大臣は、自身への接待疑惑に対し「尻尾を出さない、壊れたレコードのような答弁」を繰り返した。

 全てを官僚のせいにして、自身と総理の保全に対する答弁は、真摯に批判すべきだと思う。

たとえ別人格でも親子は親子

                         R3/3/15
 
 古い仏典「ダンマパダ」の言葉です。
 空の上、海の中、山奥に逃げても無駄だ、悪業は消えない。
 
 私は息子とは別人格だ、全く関係ない。
 総務大臣の時、バンドマン志望の息子を秘書官に任命して税金を使おうが、その息子を総務省と深い関わりのある東北新社にコネで入社させようが、その息子が衛星放送許認可のため、総務省の高官に接待三昧で近づこうが、私とは全く無関係であります。
 
 これで危機を乗り越えようが、(先日の驚愕的なほど甘い内閣支持率の世論を見れば、案外乗り切れるかもしれない) 彼の作った悪業は絶対に消えません。
 
 権力を手にすれば、絶対に無理だという事も可能になる。
 その味をしめて総務大臣となり、阿倍政権下では官僚の人事権を手にして睨みを効かせ、名官房長官として、悪業を覆い隠す無類の手腕を振るい、官僚に公文書改ざんまでさせ、官僚から自殺者を出しても平然として問題ないと答えたのです。
 
 世論を欺くことは出来ても、仏の目から逃げ切る事などできるものではありません、ダンマパダが見えない世界から、上記のごとく警告しています。
 
 今逃げ切れても、絶対逃げ切れない世界が必ず待っています。

官僚から自殺者が出ようとも
そんなの関係ネー!

◎如来と菩薩はどちらが偉いのか

                                           R3/3/14

 

 如来の如は真理の世界、来は来た人です。

 つまり真理の世界から来た人です、悟りきった人、悟りを体験済みの人とも表現されます。(如来・如去の略との説あり)

 

 それに対して菩薩は、菩提薩埵の略で、菩提は悟りという意味です。

 薩埵は求める人(衆生)という意味です。

 

 結局菩薩は悟りを求める人という意味ですから、まだ悟っていない人(悟り未体験)ということになりますので、普通に考えれば菩薩よりも如来の方が上で偉いということになります。

 

 また、如来は飾り(宝冠・首飾り等)を付けていませんし、菩薩は装飾品で着飾っています、唯一菩薩で着飾らないのはお地蔵様です。

 

 

 ところが、菩薩にはもう一つの解釈がありました。

 菩薩はいつでも悟ることができるけれども、わざと悟らずに衆生を直ぐに救済する菩薩の位置に留まる仏となっています。

 

 いつでも悟れるならば、悟っていると同じ事ではないですか。

 

 つまり、如来も菩薩も悟れる仏ということになります。

 

 如来と菩薩の差は何かなんてかんがえずに、私が主張している「大いなる存在が分身の術・変身の術を使って、私たちが親しみやすい如来や菩薩に姿を変えている」ということですから如来と菩薩の区別などにこだわらず、自分の好きな仏様を拝めば良いのです。

好きな仏を拝めばよい

◎今度はフィリピン株

                          R3/3/13

 

 コロナの変異株の種類がだんだん増えてまいりました。

 ファイザー社のワクチンで対応出来るとされていますが、よく解っていません。

 変異株に対して医療関係者は、倍の人数が必要としています。

 

 問題点は、先月25日までに分析された感染の内、21%が10歳以下の子供だということです。

 

 これまで幼児・児童の感染はあまり言われてこなかったので新たなショックです。

 

 変異株は感染力が70%強力増になるということで、爆発的な感染に繋がる懸念があります。

 

 一都三県の非常事態宣言も21日には解除の予定となりますが、この感染状態が続けばおそらく無理ではないかと思われます。

 

 五輪も海外からの観戦者を中止決定しましたが、感染者が増えれば日本人の観客も制限或いは中止となる公算が強いと思います。

 

 子供の感染がこれ以上増えれば、昨年の3月に安倍総理が行った「全国一斉休校」がまた年度当初に再登場するかもしれません。

 

 コロナさん、もういい加減にしてください。

 

次々と新たな変異種が

◎東日本大震災から10年

            R3/3/12

 

    10年前のこの日、おそらく人生で初めて見る、人が為すすべもない自然の猛威を見せつけられた思いにかられた日でありました。

 

 台風や洪水はある程度予報を見ながら、対策を立て、身構える準備が可能なのですが、地震は難しいですよね。

 数秒前にスマホから警報を受け取っても、立っていられないほどの揺れには直ぐに対応が出来ないからです。

 

 今大地震がくれば、間違いなく津波の危険が分かっているので、殆どの方ができるだけ高所に逃げようとするでしょうが、当時は津波の本当の危険など誰も知ってはいなかったのです。

 

 災難に遭う時節には災難に逢うがよく候

 死ぬ時節には死ぬがよく候

 これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 

 よく引き合いに出される良寛さんの言葉です、これは俳人仲間で親友の山田杜皐(とこう)が、新潟大地震で子供をなくしたお見舞いに手紙を送ったその中の言葉です。

 

 お互いを知りすぎるほど知って信頼し合っているからこそ書けた言葉であろうと思います。

    何か仏教の言葉として1人歩きしているような傾向を感じますが、タイミングを誤ると、被災者の心に突き刺さる凶器となり得ます。

 

 災難に遭った見知らぬ人にこの言葉を投げかけたら、もし相手が刃物でも持っていたなら、間違いなく刺されます。(即、災難に逢うことができます)

 どうあがいても自然の猛威の前にはかないっこないのだから、猛威が来たならば仏様の名を呼んでおまかせしましょうよ、という意味です。

 

 だからこの言葉は平素何事もない、平穏な時に味わう言葉なのです。

自然災害

◎これからの仏教に必要なものは何だろう②

                                                           R3/3/11

 

 それでは今回は寺院の立場で見ていきたいと思います。

 

 これは私が個人的に思うことであって、こうでなければいけないという押しつけがましいものではない、ということをご理解いただきたい。

 

 それは、私の亡き母が行った行為です、母は父が晩年声が出なくなった時、副住職の弟が函館に出稼ぎに出かけていて、そこで一寺を任されていたものですから、急には帰れなかったのです。

 

 そして私もまだ一人前の僧侶になる前でした。

 

 すると母が、お檀家様役員会の席で、葬式の導師は規則で出来ませんが、曹洞宗は住職が急に亡くなった時は、数年間寺族の法要導師を認めています。

 近隣の住職に法事を頼むことも考えられたのですが、法事は私にやらせてください、と希望を述べたのです。

 

 確かに母はスーパーウーマンでした、婦人会長・民生委員・お茶・お花・ご詠歌・日本舞踊と師範級でなんでもござれでした。

 筆を持たせれば、教科書よりも素晴らしい字を書きました。

 

 その母の法事のお手伝いに、宍道町から度々布部の実家のお寺に出かけました。

 

 母は、般若心経とご詠歌だけで法事を勤めました、大した自信です。

 その読経とご詠歌の後が凄かったのです。

 

 寺付きの娘として、昔から村の様子は住職よりも詳しかったのです。

 

 「ここのおじいさんはこういう素晴らしいことをおっしゃり、実行された」「ここのおばあさんは働き者で子供や孫さんを立派にしつけられた」

 必ずその法事のホトケ様の昔話をしたのです。

 

 誰も母に対して文句も言わず、むしろ昔話を聞かされる事が一番の供養だと思われていたような気がします。

 

 これだと思います。

 大上段に構えて、仏教本のどっかから引っ張ってきたような法話よりも、亡くなった身内の方の話を聞く方が、お檀家様の心に染み入っていくような気がいたしました。

母はすごかった

                                                                       R3/3/10
 
 それはお檀家様との心のふれあいを深めていく事ではなかろうか。
 ふれあいを深めていく最大の場は、葬儀と法要であろうと思います。
 
 葬式仏教と揶揄されることがあることも知っていますが、しかし葬儀は大切な儀式であり、結婚式と並んで或いは結婚式以上に大きな儀式です。
 
 寺院の立場と、お檀家様の立場を分けて考えて見ましょう。
 最初に一般お檀家様からの立場です。
 
 結婚式は、人によっては数回なさる方もおいでなのですが、葬儀は間違いなく1回限りです。
 結婚式は二人の財政的理由のため式を挙げくても、役所に行って籍だけ入れれば、それで夫婦になれるのです。
 二人の愛さえあれば立派な夫婦になれます、そして何十年後でも、やっぱり心残りから式を挙げたくなり、結婚式を挙げる事は可能です。
 
 葬儀にしても、なにもお坊さんを呼んで儀式をあげなくても、直葬で自分が納得出来れば、直接焼き場に遺体を持って行けば、遺体焼却は可能です。
 都会では、2割が直葬だそうです。
 いざ親が亡くなって、はてウチの宗派は何だろうというお宅は、まあ、直葬でもいいかとなる可能性が高いと思います。
 
 しかし、地方ではそう簡単にはまいりません。
 先祖代々を読経によって葬儀をしてきた我が家のしきたりを、自分の代で断ち切り、ただ骨だけにしたのでは、普通の人間なら悔恨が残るはずです。
 
 悔恨をひきづりながら残りの人生を送っていくならば、決して満足のいく良い人生を送ることは出来ないと思います。        つづく

直葬…ボタンだけ押せばハイ終わり

◎そんなバカな…………。

                                R3/3/9

 

 NHK世論調査で内閣支持率が9ポイント増の48%に跳ね上がった。

 これはショックでした、私の支持率が下がるという予想は全く裏切られました。

 

 そうですか、世論はそう考えているのですね。

 

 総理が緊急事態宣言の延長宣言をしたのと、感染者が激減しているのが高評価だというのです。

 

 そうですか、それは一都三県知事がその方向に向かっているという報道を、自分の手柄にしたくて先取りしただけの事だと私は思っていたものですから。

 

 いや、よく解りました、

 

 年末の緊急事態宣言の遅れで大変な数の感染者を産み、医療のひっ迫を産み出したことは、今回の宣言延長というそれだけでご破算になってしまうのですね。

 

 確かにこの内閣を超える内閣は他に見受けられないし、支持政党の内閣だからというのも納得です。

 

この内閣で諦めるしかないという数字なのかもしれませんね。

 

  世論は、内閣の虚偽答弁はいつものこと、野党が弱いので結局は逃げられてしまう。

 それよりもコロナ対策の方が大事だということなのでしょう。

 どちらにせよ、私は世論も信じられなくなりました。

ヘッヘッヘ、
やれるもんならやってみな

◎菅総理が総務大臣の時、息子を秘書官に

                                                        R3/3/8

 

 菅総理が総務大臣の時、明治学院大学出たてで、プロのバンドマンを目指し社会経験ゼロのロン毛息子を秘書官にしました。

    ロン毛秘書官など、いかにも異様な出で立ちですが、誰も不思議に思わなかったのでしょうか。

 また、菅大臣も、その髪型はやめろと言わなかったのでしょうか。

 

 とすると菅大臣も息子も、社会をなめきっていたのではないかと思います。

 

 そもそも社会経歴ゼロの学生上がりでバンドマン志望の息子を大臣秘書官にして、誰も何も言わなかったのでしょうか。

 

 普通大臣秘書官は、政治・社会に精通している方を選ぶのですが、バンドマンの息子を指名して誰もおかしいと思わなかったのでしょうか。

 だって国民の税金で給料が支払われます。

   これを普通「公私混同」「非常識」と呼ぶのではないでしょうか。

 

 そして総務省の衛星放送認可に関連した東北新社に大臣のコネで入社させ、菅総理はその東北新社から政治献金を受け続けているズブズブの関係です。

 深く総理親子が関わっている事は自明の理です。

 

 勿論「別人格」で逃げ切れるはずがないのですが、野党の詰めが甘いのか「行政が歪められている」核心に追い込めていません。

 衛星放送許認可優遇措置を得るために総務官僚が高額接待を受けていることは間違いないのに、いつまでたっても「徹底調査中」で逃げ切られそうです、つくづく菅総理がイヤになりました。

下心確かに忖度完了、乾杯

                                             R3/3/7
 
 
 今日の週刊新潮を買って初めて知りました。
 本当は文春だけを買って、新潮を買う予定ではありませんでした。
 
 しかし、それでもと思って新潮を手に取り目次を見た途端、「コロナワクチン」確保失敗でも大丈夫、「自宅療養中の急死」も防ぐ特効薬「イベルメクチン」が目に入り、両方とも購入しました。
 
 感染が判明した後、数日以内に1回、必要量を飲めば良いとのこと。
 現在世界中で使われていながら、重篤な副作用は無いと言われます。
 
 ワクチンはあっても治療薬の無かった世界にあっては、画期的な治療薬です。
 
 しかも日本製、日本発なのです、ノーベル賞大村教授の大発見です。
 北里研究所等の治験で、抗寄生虫薬「イベルメクチン」がコロナの治療薬として極めて有効であることがわかりました。
 
 あっという間に治った事例が多数あるとのこと、しかも副作用無しですからこれ以上強力な治療薬はありません、しかも安価で後進国にも勧められるとのこと。
 
 4錠ばかり水と一緒に飲めば良いのですから、簡単です。
  コロナ重症患者には効き目が悪いのですが、予防になる確率と軽い症状には90%以上の効果が上がっています。
 
 これは絶対に世界に拡めなければなりません。

コロナは寄生虫と同じだ

◎スペインでケセラセラはアーメンと同義か?

                                                                 R3/3/6

 

     後5日で、「東日本大震災」からちょうど10年目となります。

 衝撃でした、地震が海で起これば、巨大津波によって、人も家も船もこんなことになってしまうのか、テレビでその光景を呆然と見ていた気がします。

 

 スペイン語で「ケセラセラ」は本来、未来のことはわからない「なるようになるさ」という意味です。

 私の想像では、「アーメン」と同じ意味になるのではないかと思います。

 

 ドリスデイが映画「知りすぎた男」の主題歌として歌ってヒットした曲です。

 

 これは日本語では、というより仏教では「南無」と同じだと思います。

 つまり、未来はどうなるかわからないから「仏様におまかせですよ」、ということです。

 

 自然災害は人の力では如何ともしがたいのですから、例え明日、地震で天井の下敷きになろうとも、津波に飲み込まれようとも、それは神仏や、それを超えた大いなる存在の為せる業ですから諦めるしかありません。

 

 コロナで感染が拡大していますが、同じマスクをしていても、感染する人は感染するし、感染しない人は感染しないのです。

 

 人智をを超える自然現象には、お手上げですから全てお任せです。

 

 (明きらめ、諦め、お任せ)南無阿弥陀仏、南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経、アーメンと同じ意味を持つ「ケセラセラ」もその中に同等に入れて欲しいと思います。

恐ろしい津波

◎本地垂迹説に潜ってみる

                                   R3/3/5

 

 

 簡単に言えば神仏習合説とほぼ同じだと思います。

 日本古来の神と大陸から来た仏とが同じである、と説かれたものです。

 

  神は仏が日本の衆生を救済するために、仮に姿をかえて現れたものとする平安時代に出てきた説なのです。

 

 逆に鎌倉時代に入ると、「いやいや、仏が本地(本体)ではなく、神が本地」だよとの主張が出現します。

 

 権現の権は「仮の」という意味です、仮の姿で現れるのです。

 

 だから、伊勢の本地が大日如来、白山の本地が十一面観音と言う風に具体的な仏の名前が出て参ります。

 

 弘長寺の秋葉三尺棒大権現は観世音菩薩が本地です。

 

 この考え方は明治初期の神仏分離令まで続くのです。

 

 私はこういう考え方は非常に大事だと思っています。

 なぜなら、この考え方を進めて行くと、私の考える神仏を超えた大いなるものに行き着くからです。

 

 つまり、「大いなるもの」が分身の術を使って、私どもが親しみやすく、信仰しやすいように色々な神や仏に姿を変えておられるんだという考えに行き着くからです。

本地垂迹説

◎最近、一番の驚き……ノストラダムスよりすごい

                                                                   R3/3/4

 

 アナンド君は14才、インドの占星術師です。

 

 アナンド君は占いでコロナのパンデミックなどを信じられないほどピタリと言い当て、それを2019年8月ユーチューブで発表したのです。

 

 ○2019年8月22日、コロナが発生し、11月にウイルスによるパンデミックが発               生する

 

 ○2020年3月29日から4月2日にかけてピークに達し、より状況は悪化する

 

 ○航空業界などを筆頭に経済的にも様々な困難に直面する

 

 ○ 5月29日移行ゆっくりと収束され、7月には一旦は収束する

 

 ○しかし、2020年12月20日〜2021年3月31日にかけて、世界中で同時多発的に新  種のウイルスが発生する

 

 ○その新種は今までのウイルスとは性質が異なり、致死率の高いウイルスで、どんなワ  クチンも効かないスーパーバグ(超耐性菌)とのこと

 

 ○感染経路もわからず、治療薬もなく、対策は一人ひとりが免疫力を上げていくしかな  いとのこと

 

 ○経済は2021年11月13日からゆっくりと回復していくとのこと

 

 ※何も申しあげる事もありません…………すごいとしかいいようがない。

占星術師:アナンド君

                                                                           R3/3/3
 
 八万四千の法門がある仏教は、当然見方によっては、「それはおかしい」「これもおかしい」「何故そうなるんだろう」「突然のこの飛躍の根拠は」など何故?と疑念に思うことはキリがないほど山ほどあります。
 
 これは仏教以外の宗教でもそうだろうと思います。
 キリスト教でも十字軍や魔女狩りなどで神の御名を後ろ盾に、軍隊を作って人の命を奪うことも平気でやっていた時代だってありますから。
 
 仏教も平安時代から、寺院が僧兵を持ち武力で守っていました、室町時代には大名並の武力を持つに至り、信長が10年も手こずる程の強力なものでした。
 
 勿論、不殺生戒を説く仏教の教えからはほど遠い、殺人集団に守られていたのです。
 
 何故?を言い出せば、例えば「ナンマンダブ」を唱えて何故浄土にいけるのか?、坐禅をすればそのままが何故仏なのか?「南無妙法蓮華経」お経の唱題を唱えただけで何故救われるのか?何故印を組んで真言を唱えれば仏なのか?
 
 よくよく考えれば、論理的にはおかしなことで一杯です。
 しかし、肝心なことはその「何故?」からの脱却なのです。
  「何故?」から脱却すると、「不可思議な信仰の世界だから」というところにゆきつくのです。

魔女狩り

◎仏教の果たしてきた役割は大きい

                                                    R3/3/2

 

    例えば家族が亡くなった一大事の時、仏教は遺族に対して絶大なる安心感を与えてきたと思います。

 そこは、普段余り接することのない、僧侶が衣を身につけて読経をするという、日常では殆ど視界に入ってこない特別な世界を見ることから始まります。

 

 昨日まで元気で会話をしてきた家族が突然亡くなって、呼びかけても何も反応がなく、冷たくなった亡骸(なきがら)を涙を流して悲しみにくれている時、僧侶の姿と読経を聞くだけで、悲しみが癒やされていきます。

 

 実はその僧侶にも家族があり、家族が亡くなった時には同じように悲しみにくれる場面があるのです。

 

 そして同じように読経によって癒やされるのです。

 

 私どもは、何回かその悲しみから徐々に解放される場面に出会います。

 最初は、火葬場で遺骨を拾う時、骨になってしまった亡骸に対し、諦めることができます。

 そして葬儀、読経によって仏の世界に無事送り出すことができた安心感を得て、最後に49日法要で吹っ切れて、ようやく日常にもどれるような気がするのです。

 

 それは、普段葬儀を営み、読経する僧侶も全く同じ体験をいたします。

 だから、僧侶はお檀家さまの悲しみも安心感も理解ができるので、しっかりと寄り添うことができるような気がしています。

◎山田内閣広報官が辞任

        R3/3/1

 

 菅総理が山田広報官辞任ついて陳謝したというのだが、最近は総理にとって全てが裏目に出ているような気がいたします。

 

 しかし全て元々は総務大臣時代からの菅一家と東北新社は、衛星放送で深くて長い関係があることは明々白々なのですから、当然の結果がジワリ、ジワリと現れてきているのです。

 

 菅総理は自分には全く関係ない「別人格」とおっしゃるのだけれども、息子の正剛氏を当時の菅総務大臣の秘書官に任命し、そのまま総務省管轄の衛星放送事業の認可を受けようとする東北新社に入社させるという、絵に描いたような図式が丸見えです。

 

 東北新社は、正剛氏を入社させ、役員に昇格させ、当然の如く正剛氏の古巣である総務省の高官達を接待して目的を達成させています。

 

 ただ菅総理にしても、総務省幹部にしても、東北新社にしても青天の霹靂であったのは、文春が接待の場で会話を録音していたものですから、ウソをついて逃れようとしても逃れられなかったのです。

 

 この文春の一撃で行政が歪められた可能性が高い確率で浮き彫りになりました。

 

 解りすぎるほど解りやすい、いくら武田総務大臣が否定されても、国民は行政が歪めさせられたことをハッキリと理解しています。

 

 今度出てくる内閣支持率は菅総理に致命的な打撃を与えると思っています。

 おそらく自民党議員は、これ以上この総理では選挙など戦えないと思っているはずです。

 

 そして国民はそれを許すほど、そこまでバカではありません。

菅総務大臣秘書官だった正剛氏を同じ総務省にいて認識せずなんて話を誰が信ずるの?
大体秘書官で長髪⇒異様すぎて認識しすぎてしまいます

◎仏教は8万4千の法門

                              R3/2/28       

 

 仏教には8万4千の法門ありといわれます。

 それはどんな入り口でも大丈夫、受け入れますよ、ということでありましょう。

 

 個人の努力で仏になろうとする小乗仏教的な入り口であろうと、皆で一緒に楽に仏になろうとする大乗仏教的な入り口であろうと、阿弥陀様や法華経を信心して仏になろうとする入り口であろうと、坐禅によって仏になろうとする入り口であろうと、なんでも許容しますよ、ということです。

 

 ということは、これを否定する行為を主張する教えは仏教の枠には入らないということだと思います。

 

 つまり仏教においては、何でもありと認めることが正しい仏教の基本であろうと思います。

 

 しかしともすると、自分だけの教えが最良の教えであるとか、これだけを信じないと救われないとか、他の教えを誹謗するとか、自分の教えだけが、お釈迦様以来続いている正しい教えだとか、特定の仏様や特定の経典だけに思いを馳せて、それ以外を排撃しようとする思考は、もはや仏教と認めてはならないということでありましょう。

 

 日本に入ってからの仏教も時代によって、また為政者によって様々な変化を遂げて参りました。

 

 今、大切なことは、どの宗派もどの宗教も相手を認め合って、認めにくい相手でも恕し、認め合って(実はこれが一番むずかしいのですが)、全ての人が宗教によって救われる、そして垣根を越えて、世界の平和の為に手を取り合って邁進することだと思います。

世界平和

◎闇の中で何者かに警策を受ける怖さ

                                                   R3/2/27

 

 宇治の興聖寺専門僧堂へ入って2ヶ月が過ぎた頃だったであろうか。

 

 入った当時、修行僧が9人いたのだが、修行期間を了えて4人の先輩僧が一度に送行(そうあん:山を下りること)されたので、結果修行僧が5人になった頃でありました。

 

 僧堂(坐禅堂)が修行僧の生活の場であります。

 坐禅をし、寝起きをし、本来は食事をする場所が僧堂です。

 起きて半畳、寝て1畳と言われるように、起きると坐禅をして食事をするのは半畳で足りて、寝ると1畳を使うのです。

 その自分の1畳を「単:たん」と言います。

 

 朝4時起床、そのまま僧堂で1時間の坐禅、次は法堂(本堂)にて朝課(朝のお勤め)、それが終わると僧堂で食事なのですが、興聖寺は便宜上庫裡で食事をした。

 

 2ヶ月も過ぎれば、僧堂の生活にも慣れが生じて、少し気も緩んだ頃でありました。

 

 私は首坐単(修行僧の中でトップの僧の単)の次の単が自分の場所だったのですが、

 何せ修行僧が5人しかいないのですから、広々としています。

 そこで、気の緩みから、通常は布団を縦に一畳分敷くのですが、ある夜、横に2畳分敷いて横になって寝たのです。

 

 真夜中1時頃、突然何者かが私の上に覆い被さって来たのです。

 ものすごい重さでした、身動きが取れず息も出来ずにいて「誰だ、このままでは死んでしまうではないか下りろ」と思っていたら、フッとその重さが軽くなり、私はガバッと起きた。

 薄暗がりの中で、辺りを見渡したが、だれも私の単から逃げ帰った気配はなく、いびきだけが聞こえていた。

 

 翌朝、行茶の時、恐る恐る堂長老師に昨夜の事を話したら、「ああそうか、あんたも体験したか」とおっしゃった。

 

 この道場に何かがいて、「気を緩めずに修行をしろ」と警策を入れられたのだと確信をして、それからはもっと真剣に修行に打ち込みました。

修行中

◎興聖寺の本堂の縁の天井は血糊の天井です

                                                            R3/2/26

 

 私の修行した宇治興聖寺は、1233年創建時は京都伏見区深草ですが、1648年、淀城主永井尚政公が五世:万安英種禅師を擁して現在の宇治山田(茶所宇治の朝日茶園)に移築したものです。

 

 但し、本堂は淀城の女房の間、うぐいす張りの縁と血糊の天井は伏見城からの移築です。

 

 その伏見城は、徳川家康の家臣であった鳥居元忠が、関ヶ原の戦いの前哨戦とも言える『伏見城の戦い』で石田三成と戦って敗れてしまいます。

 

 その後、伏見城落城の際には、元忠をはじめ、1200余の武士が割腹をして果てたといわれています。

 

 その血糊の天井が、表向きは元忠と家来の菩提を弔うためでありましょうが、そこで修行をしている修行僧にとっては気持ちが悪いのを通り越して「気味悪くおぞましい」以外の何物でもありません、出来ればやめていただきたかった。

 

 中雀門の廊下を夜中に歩けば、横目で必ず本堂の天井が見えます。

 そう思うと、足の運びも当然速くなるのです。

 

 そして怪現象は起きました。                                        つづく

血糊の天井

◎総務省が接待受けた幹部11人の処分を発表

                                                              R3/2/25

 

 何とか深みに調査が進まぬ内に幕引きを謀りたい意図が見え見えです。

 

 そもそも菅総理が総務大臣時代に、息子は父親の秘書官だったのです。

 息子とは「別人格」と逃げようとしても、それは無理な話なのでした。

 

 東北新社に入社するのも、「この紋所が目に入らぬか」を言うまでもなく、総務大臣秘書官に入社して頂ければ、画面の精細さで他社に負けていようとも、衛星放送事業展開も堂々と推進でき、簡単に他社に打ち勝つことができると確信したのも至極当然のことでありましょう。

 

 トカゲの尻尾切りと言う言葉があります、それにしては大量幹部処分となりましたが、その内容たるや懲戒解雇にする訳でもなく、3ヶ月2割カットの給料減ですか。

 トカゲの頭切りなのですが、さっぱり切り切れていないですよ。

 元々高給取りの方々には痛くも痒くもない額ですね。

 明日も山田内閣広報官が証言台に立つとの事ですが、74,000円の接待に対して菅総理はすぐさま許して広報官続投です。

 国民はそこまでバカではありません、次の選挙で対応します。

 

  古館伊知郎氏が仰るように、いくら処分されても、車付き、秘書付き、事務所付き、個室付きの天下り法人への再就職が待っていたりするので、そこまで見越しての観察が必要だ…なるほど。

 

 ※昨夜更新しようとしたら、あきばれさんが急にメンテナンスに入るというメッセージ、諦めて今朝入浴後もう一度開いたら、OKとなりました、良かった。

菅さん、一番のお気に入り

◎このワクチン不足では、

      とても五輪どころじゃないでしょう

                                                                                                                                R3/2/24

 せっかく新しい会長が決まったのに、五輪が出来そうな気がしません。

 本日河野大臣からワクチン予定到着不透明の予想が発表された。

 

 つまり世界でワクチン争奪戦が起きていて、ワクチン接種がかなり遅れそうだということです。

 

 高齢者は、4月からの予定が遅れる可能性が高いのです。

 

 そして、ワクチンは一回接種だけでいいのではないかとの無責任な意見も出始めているというのです。

 

 まるで英国のワクチン対応と同じではないですか。

 英国もワクチン不足から、ファイザーから3週間後の2回目接種を推奨されているのに、2回目接種を数ヶ月後に延期し、その分一回目の接種者を増やすという対策に転じました。

 

 どこよりも早い段階で接種が始まった英国でもそんな状態ですので、こういう状態になるのは致し方ないような気がします。

 

 河野大臣は都道府県の人口比により供給量を設定するとのこと。

 

 そうなれば、人口の少ない島根46位・鳥取47位のブービーとビリの県には最少の配布量ということになります、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれませんが、人口に比して感染者数も少ないからやっぱり仕方ないのかも。

 

 ただ世界の状況から見れば、変異株が今後猛威を振るいそうな可能性があり、脅威となっています。

 英国型は感染率が1,7倍ですが、今あるワクチンで対応出来るそうです、ところが、南アフリカ型は英国型ほど感染率は高くないのですが、今のワクチンでは対応できないのではないかと言われています。

 

 ワクチンをすり抜けるかのように変異する忍者のような変異株に対して、ワクチンとの追いかけっこになる気配もありそうなのです。

医療従事者は問題ありませんが…

◎菅総理絶対絶命

                     R3/2/23

 

 菅総理の長男絡みの総務省12人38件に及ぶ接待問題、文春が音声録音し、総務省の接待を受けた本人が「自分の声に間違いない」と認めた。

 

 菅総理も、長男の務める東北新社から度々政治献金を受けている密接な関係ですし、当然便宜を謀る要素が存在するのは明白です。

 

 「菅総理の長男」ということで、総務省の幹部も断り切れなかったことは間違いありません。

 

 それにしても一日7万円の接待費で、どんなごちそうが出たのでしょう。

 和洋中華の高級料理でも食べきれません。

 

 「長男とは別人格」と逃げようとした総理も逃げ切れず、本日自分の口から「申し訳ない」と謝罪の言葉が出た。

 

 菅親子に巻き込まれた総務省幹部も「菅さんなら守ってもらえる」と思って安心して接待に応じていたのでしょう。

 総務省はトカゲの尻尾切りで逃げようと試みるが、野党は許さないでしょう。

 

 長男の国会承知は拒んでいるようだが、長男を呼ばないと予算成立に弊害がでる事も予想されている。

 

 文春の録音が無ければ、案外逃げ切れたかもしれないが、今回だけは無理のようです。

 もしうまく逃げたとしても、菅内閣の支持率は急激に落ちるだろうから、もう持たないと思われる。

 

 それにしても森友・加計・桜を見る会のウソで固めた安倍内閣と、続けて不正お粗末内閣の誕生見るにつれ、総理を国民投票で選びたいと思うのは私だけでしょうか。

 案外次の選挙もグンと早まるような気がいたします。

親の菅光りですがな

◎お釈迦様の悟りへの瞑想法

         R3/2/22

 

  それは絶頂時の羽生永世七冠の脳内論理思考法と同じような思考法だと思っています。

 ずいぶん前ですが、NHKの実験で、長考する羽生氏の脳波を調べたのです。

 

 その頃羽生氏は、4・5時間の長考で先手先を読むと語っておられた。

 千手先を読んで、この一手で必ず勝てると確信に至った時、指す手が震えたと話された。

    (最近は衰えから、いつも震えるらしい)

 

  脳の右半分、つまり右脳しか使っていないのです。

 あたまに無数の電極を貼り付けられ長考中NHKのテレビモニターに、脳の右半分だけ活発にうごめく赤い波形の塊が鮮明に映し出されていた。

 

 千手先を右脳だけのイメージ高速処理で読まれていることが科学で証明されたのです。

 

 あくまでも私見だが、お釈迦様の瞑想も、イメージ処理を司るといわれる右脳を使っての論理思考だった可能性が高い。

 

 真理へ至る道程で、何億いや何百億の問題項目を、七日間ひたすらコンピューターの如く、真理へ向かうイメージで高速解明処理をされたのだと思います。

 

 私には右脳を使う能力は全くありませんが、右脳使用例は、例えば算盤を頭の中に思い浮かべて、どんなに長い数字の計算でも暗算で瞬時に答えを出せる方がいますし、(知りませんでしたが、暗算にも段位があるそうです)速読もそうでありましょう。

 

 圧倒的に左脳使用とは処理速度が違うのです。

 誰もが出来うる、何も考えない「非思量」などで悟りに至られたのではなく、お釈迦様独自の左脳と「超人的な右脳思考法」により悟りに至られたのです。(私はそう思っています)

お釈迦様:左脳と右脳の使い分け

                                                          R3/2/21                                                           
 
 女性差別発言で世界的に有名になった森前会長。
 でも辞任された後の発言を聞いても、未だに完全に理解していらっしゃらないような気がいたします。
 
 そもそも動物の中には交尾中、あるいは交尾後にメスがオスを食べてしまうことが多いのです。
 
 かまきりが有名ですが、鈴虫もそうですし、アナコンダも交尾中にメスがオスを絞め殺して食べるのだそうです。
 
 カマキリの場合はオスが頭を食べられて頭が無くなっても、なおかつ交尾をしようとするのだそうです。
 カマキリのオスの悲哀を感じます。
 
 タコは吸盤でお互いに張り付いて交尾をするのだそうですが、交尾中にメスがオスを食べる習性をオスがよく承知をしていて、オスがメスと密着しないようになるべく離れて交尾をするのだそうです。
 食べられる危険性のある中で交尾をせねばならないタコのオスに、さらなる悲哀を感じます。
 
 種を残すための争いでは、オスがメスの生け贄になることが多いのです。
 自然界では、可哀想なのはオスの方です。
 
 男性の方が偉いと思っていた森さんが、世界中の人からパッシングを受けたのは、案外、種の保存原理に基づいた知識欠如の結果なのかもしれません。
 
 (とてもお坊さんの文にしては、学術的にはそうであっても品性に欠けている部分があるかもしれません、お許しあれ)

アタシの彼、マジ、ウメ~~!

                                                            R3/2/20
   ※祝:とうとうブログが300話達成!!
 
   1年間で2万人が亡くなっているそうです。
   週間現代が忠告している。
 
 「ふう~、極楽・極楽」その一言を最後に本当にあの世に旅立つ人が年間2万だそうだ。 2万人を365日で割ってみる。
 すると一日54人となる、つまり一つの県に毎日一人 は風呂でなくなっているということです。
 
 大体人は熱めのお湯か、温めのお湯かに分かれるのでしょうが、以前はヒートショックだと言われてきたが、今は違うようだ。
 
 ヒートショックは急激な血圧の上昇で、耐えきれず心筋梗塞・脳梗塞をおこすと理解されてきた。
 
 しかし最近では熱中症ではないかとの見方が有力になってきているのだといいます。
 
 私は最近いろんな理由から朝風呂に入っている。
 
 入る時にはぬるま湯で心臓の下まで両手の肘までつかり30秒後に肩までつかる、ということを実践しています。
 
 そして身体を洗った後、最後にもう一度肩までつかりますが2~3分程度だけつかることにしていますので、週間現代の忠告には適っているであろうと思います。

ふ~極楽!
あ、いや、取り消し、冗談冗談

◎橋本聖子さんで良かった

                                   R3/2/19

 

 新会長就任の記者会見で、歯切れの良いしっかりした口調で思いを述べられ、この方で良かったなと思いました。

 

 五輪が出来るのかどうか解りませんが、出来なかったとしてもこの方なら上手く後処理がしてもらえそうな気がします。

 

 私も選挙で1票入れた丸山島根県知事が、思い切った発言をされました。

 聞いた途端に大拍手をいたしました。

 そりゃ、夜の9時頃伊勢宮・東本町に全く人がいませんもの、気の毒になります。

 それでいて大都市のお店のように補償も何もない、潰れていく店を見過ごすしかないのです。

 

 コロナと聖火リレーを同列に語ってはならないのは、言われなくても知事は百も承知ですよ、しかし全国でも一番弱い県の知事が発言し、注目を浴びるためには、少々変則であろうともこういう手を使わざるを得ないのではないでしょうか。

 

 ところが、病気で弱っておられると思っていた竹下衆議院議員が、「丸山君を叱る」発言をされた。

  

 県知事選の際、自民党推薦の候補を出したのに、丸山知事が当選してしまった遺恨がチラっと見え隠れするような気がします。

 

 まあ、何を言われようとも、丸山知事は間違いなく我が道を貫かれます。

  素晴らしい知事で良かった。

期待しています

◎このホーページの便利な使い方

                                         R3/2/18

 

 毎日ホームページを拝見しているが、もっと簡単に、昨日や一昨日、3日前、4日前のブログの本文に飛べるといいんですけどね、との声を頂いた事があります。

 

 案外そう思っていらっしゃる方もいらっしゃるのではないかと思われますので、一度このホームページの使い方を説明しておいた方が良さそうな気がします。

 

 最初にホームページを起ち上げますと「今日のホットダイアリー」とその下に本日のタイトルと簡単な見出しの文章が出て参ります。この表題画面を『A面』と呼びます。

 

 その下に「詳細:続きはこちらをクリック」があり、これをクリックすると『B面』の本文に移ります。

 

 『B面』を下にスクロール(下げていく)すると、昨日のB面、一昨日のB面、3日前のB面とどんどん以前のB面が出て参ります。

 

 逆にA面を下げていくと、★ホットダイアリー総タイトル一覧が出て参ります。

 

 それをクリックすると298番までブログがあるので、その番号をクリックするだけで見たいブログに入る事ができます。

 

 あと二つブログを作れば、300に達します。

 ここまで来れば、366までは行こうと思います。(確か草刈りの後不調になり、一日抜かしていますので)

ネット画像を使えるので有り難い

◎仏教は凄い教えであることを再確認

                                                        R3/2/17

 

 私は目覚めさせていただいたのです。

 今までの私が、仏教に対する言動は間違っていたということではありません。

 真剣に正しい仏教を模索し、自分なりに思索してきたのです。

 とはいえ、批判をしてきた曹洞宗にも真言宗にも、また不快に思われた方にも申し訳なく思っています。

 ただ、いろいろ問題提起することができたような気がしています。

 そして疑念を持って壁にぶつかり、それを乗り越えることができたのですから感謝の一言です。

 

 それは、ハエが外へ出ようともがき、隣の障子には大きな穴が空いているのに、今の障子の枠から出られずにいる姿そのものでした。 

 その枠を思い切って飛び越えて大空へ飛び立つことが出来たような気がします。

 

 私のような者が偉そうに言えることではないのですが、宗務庁(その宗派)の言うとおりに、何の疑念も起こさずに純粋に信じてこられた方を、凄いとか偉いとか全く思いません。

 

 そうではなくて一旦疑念を持ち、悩んだあげくに答えを導き出した人だけを、凄い・偉いと私は思うからです。

 

 例えば、道元禅の教え「修証一如……修行と悟りは同じ」、弘法大師さまの「即身是仏……この身がこのままが仏」は思想的に全く同意だと思っています。

 ただ、私にはこの考え方は安易なご都合主義にしか見えなかったのです。

 只坐っただけで、それが悟りであり仏であるなどとはとても考えられなかったのです。

 また、印を組んで真言を唱えれば仏だ、との考え方にもついて行けませんでした。

 

 そんなに簡単な事で仏になれるなんて、都合が良すぎるからです。

 一旦それはおかしいと疑念を呈することが宗教者には必要だと思うのです。

 疑念を超えるものに出会い、心の底から納得できると言うことが大切だと思っています。

この仏頂面に慈悲を感じます

◎東北、再び震度6強の地震

                                      R3/2/16

 

  2011年の東日本大震災の余震とされる震度6強の地震が再び東北を襲いました。

 10年前の巨大地震よりも揺れがひどかったという声をテレビを通して沢山聞こえてきた。

 けが人は150人だということです。

 コロナ禍の中で大変な時期に、地震ばかりかその直後に、風速35メートル以上の台風並の雨風の追い打ちです、本当に気の毒でたまりません。

 改めて日本が地震大国であることを実感しました。

 

 学者の方々から警告されている「南海トラフ」や「首都直下地震」「津波」などがもし発生したら、日本は経済的にも精神的にも崩壊してしまうような気がします。

 

私自身は、鳥取西部地震の時に、多伎町の寺院でご詠歌の指導に伺っていた時に起きた。 宍道町は震度5強でしたが、私のいた場所は宍道町よりかなり西部だったので震度 5弱ではなかったかと思いますが、それでもかなりの揺れを体感しました。

 

 当山は本堂は震度7程度なら大丈夫ですが、庫裡はひとたまりもありません。

 

 松江市は地震がすくないのですが、倉吉や大田市でも強い地震で被害を受けています。

 でも大山にしても三瓶山にしても、死火山ではなく休火山ですから急に活火山として活動を始めることだってあり得ない話ではないということをもっと自覚すべきであろうと思います。

再び地震の恐怖
 

◎小乗・大乗を超えた視点で仏教を考えてみる

                                                       R3/2/15                           涅槃会です

 

 基本的には全ての人を救うのが仏教です。

 そこには分け隔てなどないと思います。

 

 ということはつまり、小乗仏教の如く自分で泳いで向こう岸の直前で息が切れて、向こう岸へ渡れなくても、仏様は「よくそこまで頑張った」と必ず救われるような気がします。

 

 ここで私は大きな疑念を生じた。

 小乗も大乗も、結果として全ての人を仏が救うのであれば、仏になるための修行法だって色々あっても良いのではないかと思えてきた。

 

 例えば道元禅師の「修証一等」を、私は今まで修行と悟りは絶対同じであるはずがないと否定してきたのだけれども、大乗仏教が全ての人を救うのであれば、これだって有りかなと思わざるを得ません。

 

 小乗仏教のように、修行を成就しようが途中で死んでしまおうが、全ての人が救われるのであれば何だって良いような気がしてきました。

 

 仏教の基本的な慈悲の教えの前には、修証が一等であろうがそうでなかろうが、全ての人が救われるのです。

 

 つまり、修証が一等(一如)であろうがなかろうが、全ての人が救われるのであれば、修証一等だってあり得るという論拠が成立する訳です。

 

 なんだか仏教の広い心の前には、自分のつまらぬ思いなど歯が立たないような気がしてきました。

 今、心の中は完全に脱帽状態です。

悪人でも(こそ)救われる

◎仏教のとらえ方には二種類あります

                                                 R3/2/14

 

 一つはお釈迦様に対して、「一人の人間」としてとらえる方法、お釈迦様は人間であって、その人間が修行をして悟りを開かれた、ととらえます。

 これは小乗仏教のとらえ方です。

 

 これに対して後で興きた大乗仏教は、お釈迦様は元々仏様だととらえています。

 宇宙仏の仏の一人で、人々を救うために現れた仏様というとらえ方です。

 

 小乗仏教は、お釈迦様を人間ととらえていますから、仏の岸に渡るためには、お釈迦様と同じように修行して悟りを目指す、ということが最も重要になってきます。

 

 逆に大乗仏教は、船を用意して、皆で一緒に船にのり、一人残らず向こう岸に渡ろうではないかと考えます。

 

 とすると小乗仏教は、向こう岸(仏の岸)に自分で泳いで到着するのは自分の修行次第、つまり自己責任ということになります。

 

 向こう岸に着ける人もいれば、途中で流れに負けて沈んでしまう人もいるのです。

 だから一心に修行することが望まれます。

 

 大乗仏教は仏様が用意された向こう岸行きの船に乗り、それほど大変な修行をせずとも向こう岸に必ず行けるシステムです。

 

 するとここで疑問が生じませんか?

 

 一心に修行をして向こう岸を目指したが、体力つきて望みが叶わなかった人と、たいして修行らしい修行をせずに、ただ一言「ナンマンダブ」を唱えた功績ですんなり向こう岸に行けた人を比べると同じ仏教者でも差別を感じませんか。                         つづく

皆で行けば怖くない

◎幸福の科学を科学する

         R3/2/13

 

 一昨日は、デスクトップパソコンのホームページが調子が悪く、夜中の2時頃更新作業を進めたが、不能に陥ってしまった。

 

 仕方がないので朝の九時半に「あきばれホームページ」に電話して、何とか10時頃更新できました。

 

 WINDOW10の最新アップデートをしてから不具合が生ずるようになった。

 ドライバーが最新の状態に対応出来ていないような気がする。

 

 さて、幸福の科学という宗教ですが、一千万人を超える信者と公称しているが、政治に進出しようと全国に候補者を立てたが、30万票しか集まらなかったので独りも当選者を出せずじまいだった。

 結局信者もそれくらいの数しかいないと言うことがばれてしまった。

 

 有名人の守護霊や霊界からの本人の語りを本にしてそれを売る事で教団を

維持しているようです。

 

 夫婦で離婚騒動を起こして、その信仰に疑問符も付いています。

 2~30年前でしたが、道元禅師の霊言が出たので早速読んでみた。

 「こんにちは道元です」から始まり、ガクッときましたが、我慢して読んでいると、何の事はない、道元禅師の入門本を2~3冊読めば書ける内容でしかなかった。

 

 宗門で問題になっている点も、それを深く掘り下げる話では全くなく、初期通説のままが言葉として書かれていた。

 

 つまり霊からの言葉ではなく、自分が本を読んで適当に肉付けして話し、それを霊言集として売っているだけであるのが明白でした。

 ただ、それにしても驚異的な霊験集の数であり、その点についての能力は凄いと感じました。

東大法学部同級生
賭け麻雀で辞任

◎エッ、森会長を相談役にですか?

                                                R3/2/12

 

 「辞意はしません」とほとぼりの冷めるのを待って、頑なに辞意表明を拒んできた森会長がやっと辞めてくださった。

 

 そして森会長は後継を川淵氏に依頼し、川淵氏が了承されたとのこと。

 私などは「誰?その人」と真っ先に思いました。

 その川淵氏が「森会長を相談役にお願いしたい」とのこと、それを聞いて訳のわからぬバランス感覚の崩れた人で、こんな人しか候補がいなかったのかと不思議に思います。

 

 いくらスポーツ界で功績のある方でも、知名度は低すぎるし、世界中からパッシングされ、非難された人を相談役にしようと発言された、それだけで世界中が「何を考えているんだ」さらに火に油状態が続かないだろうか。

 

 そもそも世界中から総スカンを食らった人に、後継を推薦する資格があるのかと不思議に思います。

 

 もう口を開けば問題が起きるのだから少し黙ってていただきたいと願うのはわたしだけでしょうか。

 私などは「森会長を相談役に」と聞いただけで、完璧に同じ穴のムジナではないかと思ってしまいます。

 それで世界中が納得すると本気で考えておられるなら、こんな人は失格で大反対ですね。

 

 一部の人だけが知っているような川淵氏などではなく、もっと知名度の高い人がいるでしょう。

 この騒ぎの後で、世界中が「誰?この人」と思うような方ではなく、思い切って橋本五輪相とか、柔道の山下会長とか、初代スポーツ庁長官の鈴木大地氏とか、あるいは世界の王選手とか、いらっしゃるではないですか。

 

 明日の組織委員会には、森さんに辞任の挨拶をしてもらったら、お引き取りをしていただき、森さんのいないところで会議を進めていただきたい。

やっとお辞めに

◎中学・高校と進むにつれ、お寺に対する嫌悪感が強まった

                                                            R3/2/11

 

 お寺は収益不規則な職業です。

 お葬式の有無で生活が違ってくるのです。

  それが堪えられなかった、人の悲しみを土台に生きているのではないかと思い続けてきた。

  そんな生き方を自分の生き方にしたくないという思いがつのってきて、長男ではありましたが、お寺は絶対継ぎたくないと思っていた。

 

 今思うと、何という罰当たりな考えだったろうと思うのだが、当時は青春時代、多感でものごとに対して敏感に思索をしていた。

 

 勿論今では、こんな尊い職業はないと断言出来るのですが、若気の至りで生理的に受け入れられないような気持ちになっていたのは事実です。

 

 多分、全国でもコンビニの数より多い寺院数(75,000ケ寺)があるのですが、

親の言うことを素直に聞いて後を継ぐ方ばかりではないと思います。

 

 今、住職になっている方々も、一度は世襲に対して反発を覚えた事はおありではないかと存じます。

 

 私の様に、一旦仏教・寺院を離れてから、新たに仏教に対する興味・憧れが芽生えて、遅まきながら仏門に入った人間には、世俗を体験しているだけに仏教の重要性を痛感出来て、世俗に対してあまり未練もなく仏道に邁進出来ていると思います。

ポツンと一軒寺
ここにも住職がいる

                                                         R3/2/10
 
 小学生の時だった。
 ず~っと何年も、弟と二人で盆の棚経をしてきたけれども、6年生の時だったような気がするが、3才違いの弟と分かれて、棚経を一人で行った事がある。
 夕方、家族が多いお宅だった、その家で私と同じ年代の子供が沢山見ている前でテンパってしまい、般若心経の途中で間違えて、つい「ナンミョウホウレンゲキョウ」と口をついて拝んでしまった。
 
 よりによって「ナンミョウホウレンゲキョウ」ですよ、「ナンマイダ」ならまだ許されそうな気がするが、絶対口にしてはいけない言葉の様に思えて、恥ずかしさのあまり、泣き出しそうになりました。
 
 何とかごまかしてほうほうの体でその家から逃げた。
 まさに逃げたのです、その時に何故自分は人の前で読経しなければならないのだろうと、落ち込んで考え込んだことがあります。
 
 勿論、今なら「アーメンならまだしも、可愛げな間違いじゃないか、同じ仏教だし……」と思うのですが、当時はその一件で、お寺の子という身の上を嫌いになったのです。

可愛いとは言われたが

◎森会長は忍耐強い

                      R3/2/9

 

 森会長は、世論の90%以上が辞任すべきだと数値が出ていても、未だに辞任する気がないようです。 

 すると自民党の二階幹事長から、「発言を撤回したのだからいいのではないか」と擁護する声が上がった。

 

 総理の首根っこを牛耳っている方の発言らしいですね。

 総理が5人以上の会食は控える要請を出した直後に、総理を呼び寄せて8人のステーキ会食を実行したお方でありますから、これくらいの発言は当然なんでしょうね。

 謝罪会見で、差別発言を口で撤回しただけで、本心は撤回など全くしていない態度がありありと露骨に現れたから問題なのですが、撤回したからいいんじゃないかというのは、「お前らそれくらいにしとけよ」というこの人らしい完璧に上から目線の物言いだとおもいます。

 むしろ「焼け石に水」どころか「火に油を注ぐ」結果になるのではないでしょうか。 

 五輪ボランティアが390人辞退したと発表されました。

 この二階さんの発言で辞退者がさらに増えるのではないでしょうか。 

 日本だけじゃない、全世界から「任に非ず」と非難されようが未だに辞任と言わぬ森会長は忍耐強いと思います。

 二階さんのこの擁護発言は、オリンピックを成功させようとする意欲をさらに失わせることになりました。

田んぼを走る芸能人聖火ランナー

◎話としては面白かった大霊界

           R3/2/8

 

 丹波哲郎という俳優がいました。

 

 自分では霊体験が一つもないのに、自称霊界の宣伝マンとして、映画も「大霊界 死んだらどうなる」「大霊界2 死んだら驚いた」と2作も作った面白い人です。

 

 家族は殆どが東大卒という家柄なのですが、本人はそれでは面白くないと中央大の法科を卒業した秀才です。

 「大霊界」1作目のときには、早く見ないと御利益が薄いとテレビで言ったら、前売り券が予想以上にさばけたといいます。

 そこら辺は胡散臭い匂いがプンプンです。

 自分では霊体験がないものだから、他人の体験に頼るしかないのだが、それをもっともらしくパーフォーンスで演出して見せた人です。

 つまりは完璧な受け売りなのですが、それを自分があたかも体験しているかのような演出で説明するのですから凄いです。 

 コマーシャルベースでありながら、しかも死後の霊界を紹介するという、胡散(うさん)くさくて、冗談っぽさも感じられるようなところもあるのだが、本人はいたって真面目のようであった。

 そして、確かに霊界を往来したという「スウェーデンボルグ」を真剣に研究したのであれば,真面目な点は頷けると思います。

大霊界…死んだらどうなる

◎やっぱり名人歌奴さんの落語は面白い

                                                       R3/2/7

 

 山のアナ、アナで有名な三遊亭歌奴さん、偉くなって芸名を圓歌と改名しました。

 友達の吃音(どもり)を真似していたら本当の吃音になり、それを治す為に落語家になったという、ウソかホントか解らぬような方です。

 

 この圓歌さんが、日蓮宗のお坊さんになるために、身延山で修行をされました。

 11月から百日間、寒行のため毎日水をかぶる厳しい修行が行われます。

 

 外では雪が降っている寒い日に水をかぶるのは、心臓の弱い方ならば、死に至る危険性もある厳しい行です。

 

 グッと力を込めて水をかぶっていたら、隣の修行僧が耳打ちをしてきた、「そんなにまともに水かぶっていたら死んじゃうぞ、水を頭の後ろに捨てろ」いわれてその僧のやり方を見ていたら、確かにまともに頭に水をかけずに、後ろに捨てていた。

 

 ウン、これなら修行も楽しくできる、と感謝したらしい。

 それを「中沢家の人々」の落語の中で言っちゃって笑いをとるのですから凄いですね。

 

 この方の落語を聞いていると、本当なのか冗談なのかさっぱりわかりません。

  でも真面目な修行僧はともかく、厳しい行にも案外抜け道のようなものがあるのかもしれない。

死ぬ~!

◎医学は延命治療だけを手柄とする

                                                    R3/2/6

 

 現代の医学は、死をなるべく先延ばしにして、延命にしていく事が勝利だと思っている節があります。

 患者がどういう状態で何を望んでいるかなど考えていない。

 

 私の叔父が草刈りをしていて崖から落ち、崖下のコンクリートで首の骨を折り、全身麻痺となってしまった。

 

 叔父を妻と二人で病院に見舞いに行った時、叔父は動けない身で必死に顔の表情で訴えていた、どうやら「この人工呼吸器を外してくれ」と言いたかったに違いないのですが、そんなことをすれば医者の処置に逆らうことになり、下手をすれば殺人罪で訴えられそうな可能性もあった。

 

 叔父の奥さんも毎日看病で付き添っていて、吸入器を外したいということは彼女も理解していたのですが、やはりお医者さんの言いつけを守らなければならないとのことだった。

 

 言葉にならないので、必死の表情で訴えているのだが、「ごめんね、叔父さん、苦しいかもしれないけどお医者さんには逆らえないんですよ」と心の中で手を合わせた。

 

 病院を出る時、叔父のいかにも無念で悲しそうな顔がいつまでも脳裏に残った。

 間もなく叔父はなくなったが、やはりお医者さんも医学的処置としての理由があって、そうすることが少しでも延命に繋がると考えられた上での処置だったのでありましょう。

 

 でも患者本人は、今死んでもかまわないから、この呼吸器を外してくれと叫んでいたようで、私はしばらく自分に答えが出せなくて長期に亘って悩むこととなりました。

人工呼吸器

◎森さん、それはないでしょう

                                          R3/2/5

 

 女性蔑視の発言に世界が驚いた。

  逆ギレ会見にもう一度驚かされた。 

  別の意味で存在感のある方です。

 

 本人の弁解を聞けば、前言を撤回したからもういいだろう、そんな大した問題ではないとの気持ちがありありと出ていた。

 差別していても、差別している意識が根底にない、とことん理解されていない証拠だと思います。

 

 失言は過去にも多くあります、「天皇を中心としている神の国」発言や「子供を一人もつくらない女性の面倒を税金で見なさいというのはおかしい」発言。

 

 ゴルフの最中に水産高校の実習船「えひめ丸」と米原子力潜水艦の衝突事故の一報を受けながらもプレーを続けたことで批判が高まる中、「これがどうして危機管理なんですか、事故でしょ。」

 

 リオデジャネイロ五輪でも日本選手団の壮行会で、「国歌も歌えないような選手は日本の選手ではない」等々。

 浅田真央さんに「この子は大事なときには必ず転ぶ」。

 

 おそらく森さんは、素直で正直な人なんだろうと思うのだけれども、まさに戦争でも起きない限りは全部大したことはない、と思っておられるのだろうと思います。

 五輪のボランティアを辞退する声も出始めましたから、もう崖っぷちでしょう。

 

 ホームページを思いのままに載せている私も、色々な指摘を受けることがありますので、これからは気をつけたいと思います。

オリンピック

                                                         R3/2/4
 
 なるほどと納得する言葉ですね。
 これもひろ先生の著書から拾ってきました。
 
 古代ギリシャのエピクロスの言葉です。
 
 「死は最も恐ろしいものとされているが、実は我々にとって死は何でもない。
  我々が存する限り、死は存せず、死が存するときには、我々はもはや存しないのだ。」 非常に面白い説です。
 
 つまり、死は生きている者にも、既に死んだ者にもかかわりがないというのです。
 
 要するに人間は、死ぬ前には死んでいないのだし、死んだ後では生者は存在しないということです。
 ということは、死の瞬間を自覚する者はいないのであって、死は存在しないのだという面白い理屈ですよね。
 
 ひろ先生はシェークスピアの「ジュリアスシーザー」の言葉を披露しておられます。
 
 「臆病者は、本当に死ぬまでにいくたびも死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない」                                                                               つづく

いいけど、少し早すぎません?

◎実は三学は六波羅蜜に変異

                                      R3/2/3

 

 昨日の戒・定・慧は仏教の基本である三学と呼ばれるものです。

 

 しかし、戒・定・慧はどこかで見たことがあるという方は正解です。

  そうです、それは六波羅蜜にある言葉です。

 

 六波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧

 

 これは悟りの境地に至るための六つの修行徳目です。

 この中の持戒と禅定と智慧が三学です。

 とすると三学では不十分なので、徳目を増やしたのが六波羅蜜ということになります。

 どちらにしても、禅定の後に智慧が来ていますし、修行の一番最初には布施が来ています。

 

 つまり只ひたすら、戒を保(持)っているだけでは駄目で、布施行をしながら戒を保てと言うことです。

 

 この六徳目はどれも大事だということだが、並列に重要性がおなじなのかといえばそうではありません。

 

 禅定はあくまでも心の状態を乱さない為の徳目であり、曹洞禅はこの段階でありましょう。

 最終段階としてに目指すのはやはり一番最後に登場する「智慧」なのです。

 これは私どもが主観的に分別する智恵に対して、分別を離れた絶対的な智慧をいうのです。

 これ以上深めると難解になりますので、この件はここで終わりにします。

画像の説明を入力してください

◎お釈迦様は、お悟りの後では

           何故、坐禅を重要視されなかったか

 

                                                          R3/2/2

 

 お釈迦様は、ご修行中に禅定を学ばれました。

  当時禅定家として著名なウドラカ仙やアラーダ仙に師事されたのです。

 

 その禅定の境地が「無所有処定」「非想非非想処定」……考えない処を考える……つまり道元禅師の主張された「只管打坐・非思量禅」とほぼ同意です。

 この境地を未熟な境地と確信され、インド古来からあるヨガに毛の生えた程度だと感じられました。

 お釈迦様は瞬く間にこの境地をを会得され、二人の師から自分の座を譲りたいとの申し出がありましたがこれを断り、こんな行法ではとても悟りになど到達できないと確信されました。

 

 それは仏教の「戒・定・慧」の中の「定」学だけを得ただけであって、大切なのは「慧」学であると薄々感づかれていたからです。

 

 そして苦行を体験、苦行を捨てて、お釈迦様独自の瞑想(論理的思考術)によってお悟りを得られたのです。

 

 お釈迦様はお悟り(真理)を得るのが目的であって、坐禅そのものが目的ではありませんでした。

 その独自の思考法は、誰にも真似のできぬ、自分だけが可能であったと思われたほどの超難解なコンピューター的論理思考術だったのです。

 だから真理を得るのが唯一の目的だったので、悟りが成就した瞬間から、すぐさま坐禅を捨てられたのです。

 

 そして喜び勇んで苦行を共にした5人の仲間にその真理を教えるために、200キロ離れた地までかけつけて説法されたのでした。(これを初転法輪といいます)

 

 間違ってはいけないのは、その5人に坐禅を教えられたのではなく、徹底的に説法で真理を説かれ、説法によって5人全員を悟りに導かれたのでした。

初転法輪

◎ワクチンの遅延と変異3ウィルスの脅威

                R3/2/1

 ワクチンの供給が間に合っていないようだ。

 欧州では、ワクチンが足りていないので、イタリアなどは製薬会社を契約違反で訴える準備をしている程です。

 

 でも考えれば、普通は治験を繰り返し、最低3年はかかるものを治験もそこそこに1年でやりましょうという、本来なら無謀なことですから、無理が生ずるのも当たり前のことでしょう。

 先日も紹介したように英国が、1回目の接種3週間後に、2回目のワクチン接種を行わなければならないが、2回目のワクチンが供給不足なので、接種会場を閉鎖するのも勿体ないので、急遽2回目の会場をそのまま1回目の接種会場として拡大し、2回目接種を12月に延期したことを発表しているが、ファイザー社からは「危険」と警告を貰っている。

 危険といわれても供給が追っつかないのだから、それなら会場を休ませるという無駄を省き、1回目接種者を増やしていこうという作戦なのです。

 アメリカに取って一番の同盟国である英国でさえ、そのような供給不足が生じているのだから、日本も計画通りに進むと思ってはいけないと思います。

 ワクチンを高額で買い取り、ワクチン接種率は世界最高のイスラエルで、感染が治まっていない現実がありイスラエルは頭を抱えています。

 それは変異3ウィルスが強力な感染力で、今のワクチンで対応出来ていない可能性があるようです。

 世界は新たに変異株に対応するワクチンも早急に作らなければならない状態に入りそうです。 

 変異株といっても、既に数種類発見されていますし、更に変異しますから今後も増える可能性大です、つまりイタチごっこの様相になってきました。

 

 なんだかんだで今年で終息なんて簡単にはいかないような気がしています。

こうなるとイタチごっこ?

◎最も遠い星の距離

                         R3/1/31

 

 最も遠い星の距離は320億光年だそうです。

   宇宙が誕生したのが136億年前です。

 

 普通の1億年と1億光年とはどう違うのでしょう。

 光の速さで320億光年というのはイメージとしてどんな距離なんでしょうね。

 考えれば考えるほどわかりません。

 

 宇宙には果てがあるのでしょうか、あればその果ての先はどうなっているんでしょう。

 宇宙は膨張しているそうですが、なぜそんなことが解るのでしょうか。

 

 これだけ考えられないほどの無数の星があるのだから、地球人によく似た生物もたくさんあるのかもしれません。

 

 136億年前にビッグバンで宇宙ができました、ではそれ以前の宇宙は?

    それは、スーパーコンピューターにかけても答えは出てこないでしょう。

 

 まあ、捨て置きましょう。

 だってそれが解らなくても、ちゃんと生きて行けるじゃないですか。

 それが解るのは、唯一神なのです、そのために神が存在するのです。

 

 思いを巡らすのが楽しい事もありますが、それにとらわれ過ぎると、尊い時間を無駄に過ごしてしまいそうですから辞めておきましょう。

 マールンクヤの毒箭の喩の如く、毎日の生活にはそんなことを考えていても、何の役にも立ちません。

銀河系には百億個の地球型惑星が

◎お釈迦様が一番問題視されたバラモン教

                                                        R3/1/30

 

 お釈迦様は当時存在したバラモン教のカースト制度(差別制度)からの離脱を訴えられた。

 

 バラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族、武士階級)、バイシャ(庶民階級)、スードラ(奴隷階級)、そしてヒンズー教では、カーストにも入れない、アウトカーストで不可触(賎)民があります。

 

 バラモン教を引き継いだ現在のインドヒンズー教では、不可触民が2億人もいるのです。

 (憲法では、1950年、既に差別禁止・平等が謳ってあるにもかかわらずです)

 

 生まれや職種や結婚で明らかな差別を受けているのです。

 

 この差別制度の崩壊と平等を唱えられたのがお釈迦様なのです。

 「人は生まれによって貴賎が定まるのではない、その行いによって定まるのだ」と説かれたのです。

 

 ところが、お釈迦様が亡くなって後、アショーカ王が統治した時代は良かったのですが、アショーか王が亡くなると、仏教は衰退、消滅してしまいます。(十三世紀初期)

 

 理屈ではなく生まれながらの染みついた土着差別思想が、ヒンズー教によって息を吹き返し現在に至っています。

 確かに、日本も表面上は少なくなりましたが、ネット上などではやはり陰湿に、確実に差別が存在しますし、アメリカの黒人差別や、中国のウイグル族差別など世界中に差別が存在いたします。

 

 そう思うと、当時差別撤廃平等を説いて遊行されたお釈迦様ってものすごい超人的なお方であると改めて思うのです。

インドの差別

◎まさしく詭弁ですね

                              R3/1/29

 

  政治家というのは責任のすり替えが上手いと思います。

  菅総理は、専門家の人たちの意見を聞いて判断をしていたのだから、専門家の方にこそ責任があるのであって、自分には責任がないかの如く詭弁を述べておられます。

 

 でも、騙されてはなりません。

 一番聞かなければいけない分科会:尾身会長の意見は全く無視して、自分に耳障りの良い経済を尊重する専門家のごく一部の意見を受け入れて、多くの専門家の意見を聞いたとおっしゃっていますが、何のことはない、つまりは自分の都合の良い意見で判断をされたと言うことです。

                                          

 民放テレビのインタビューでも、呑気な顔で、「緊急事態宣言は考えていません」と応えた3日後に支持率急降下により慌てて宣言を出された。

 

 この方を解らせるのには分科会や専門家でもない、支持率を落とすことが一番効果がありそうです。

 全ては自分の判断であり、緊急事態宣言の遅れは全て自分の責任なのだということを。

 責任逃れをしようとしてもそうはまいりません。

 

 国会での蓮舫さんの言い方はキツかったんだけど、入院したくても病床満杯で仕方なく自宅療養をしていて亡くなった人たちの無念を思えば、蓮舫さんの言い方でも足りないくらいなのではないかと思います。

ママからのお小遣いで買っちゃったで
支持率急落したかっての宇宙人

 

◎宗教によって慣習や葬儀のやり方も違う

                                                                                                                  R3/1/28 

 

  日本では火葬にするのがあたりまえだが、キリスト教やイスラム教は、火葬にすれば地獄に落ちるとの思いを持っている宗教なのです。

 

 逆に、火葬にしなければ絶対に駄目だ、との思いを持っているのがヒンズー教です。

 ガンジス川に焼いた遺体を流すのですが、ガンジス川が遠い場合は近くの川をガンジス川と見立てて流すのです。

 

 遺体をガンジス川の川べりで焼くのですが、金持ちは沢山焼くための材料を用意できるが、お金がない家では生焼きで川に流してしまいます。

 

 とするとガンジス川の下流に住んでいる人は、上流から生焼けの遺体が「ドンブラコ、ドンブラコ」と流れてくるのです。

 

 下流で漁業を営む方は、栄養満点で動けなるほど丸々太ったメタボの魚を食することできますから、うらやましい限りです??

あ~ん、もう食べられん

◎法然様の前に既に中国で浄土宗が生まれていた

                                   R3/1/27

 中国では阿弥陀仏を信仰すれば西方極楽浄土に行けるという信仰が芽生えて、それが日本にも入ってくるのです。

 天台宗の円仁という僧侶が、中国から、最初は密教の行として持ち帰りました。

 

 念仏を広めた僧侶が空也上人です、京都で六波羅密持を建て、空海様が満濃池を作られた様に灌漑用の池を作ります。

 六波羅蜜寺には空也上人の木像があり、口から六体の仏像を吐いているのですが、それは南無阿弥陀仏の六字の名号を表しています。

 

 そして法然様が浄土宗を広められる前に念仏を主張されたのが、恵心僧都源信という天台宗の僧侶です。

 有名な「往生要集」を書かれました。

 

 そして源信は初めて詳細な地獄浄土絵図を作りました。

 

 悪いことをすれば、地獄でどんな目に遭うかを具体的に絵で表現したのです。

 この影響は大なるものがありました。

 

 こうして法然様が登場する素地が出来上がっていったのです。

地獄絵

                                    R3/1/26
 
 曹洞宗は禅宗であり、巨大教団です。
 しかし坐禅によって巨大教団になったのではありません。
 
道元禅師が中国から持ち帰った坐禅は只管打坐であり、厳しい修行法なのです。
  道元様は、安楽の法門と説かれて、普勧坐禅儀を書かれました。
 安楽の法門と言われても、武士には比較的受け入れられたのですが、一般には敷居が高かったのも事実です。
 
 しかし、波多野義重公という六波羅評定衆で、福井県吉田郡志比の荘の地頭(殿様)の庇護を受けて教団(永平寺)を運営できていたのです。
 
 つまり道元様に絶大なる信頼を置き、援助をしたのが波多野公でしたが、道元様がお亡くなりになると状況は一変します。
 
 道元様示寂(死亡)の5年後に波多野公も亡くなられたのです。
 
 外護者を失い、永平寺はは4代目で一旦断絶いたします。
 
 その教団を救ったのが、永平寺4代目とは別に、曹洞宗4代目となる総持寺の瑩山紹瑾禅師がその窮地を救われるのです。
 
 それは坐禅だけではなく、葬儀と法要を採り入れて、経済基盤を作られたのです。
 
 そして浄土宗や浄土真宗などの浄土系宗派の影響を自然に受け、葬儀と浄土感が意図せずして結びついたのです。
 
 そして巨大教団となることができました。
 
 どの宗派にも弱点があるのですが、曹洞宗の弱点はここです、葬儀に携わったのでそこに浄土の教えがあるように錯覚しているのですが、正式には浄土感が全くないのです。

波多野義重公
 

◎言葉に命を吹き込む

                                R3/1/25

 

 プレバトの俳句道場で活躍されている夏井先生の番組に魅せられています。

  毎回色々な俳句の善し悪しを見事な感性と能力で解説をなさいます。

 

 言葉が一文字違うだけで、絶品の句に仕上がったり致します。

 また梅沢富美男さんとの掛け合いも面白く、大笑いしています。

 

 それは俳句に命を吹き込む作業だと思います。

 そしてそれを解説説明されることの的確さには、いつも舌を巻く思いになります。

 

 俳句を極めた方の奥深さと、人から何を言われても微動だにしない自信に魅せられます。

 

 それは詩の世界でも同じ事。

 

 仏教詩人の坂村真民先生の詩に圧倒されます。

 簡素な言葉の奥に深い思いが…

 

見えないからと言って

 

    日の昇らない時が

    あっただろうか

    月の出ない時が

    あっただろうか

    見えないからと言って

    なかったとは言えない

    それと同じく

    見えないからと言って

    神様や

    仏様が

    いないと誰が言えよう

    それは見る目を

    持たないからだ

    大宇宙には

    たくさんの神や仏さまが居て

    この世を幸せにしようと

    日夜努力していられるのだ

    一輪の花の美しさを見たら

    一羽の鳥の美しさを見たら

    それがわかるだろう

    見えない世界の神様を知ろう

夏井先生

◎四国のお遍路はいつから始まったのか

                                                      R3/1/24

 

 四国のお遍路は八十八カ所です。

 何故八十八カ所なのかと言えば、仏教には法則があり、素数の11倍ということなのです。(芥川賞作家の森敦氏)

 

 例えば十一面観音や三十三間堂、六十六部などがあります。

 

 「辺地(へじ)」と呼ばれる遍歴をしながら修行をする僧侶は既に平安時代からありました。

 

 しかし現在のような四国の八十八カ所が始まったのは江戸時代です。

 

 弘法大師の若い頃の著書「三教指帰」に、生国である四国で修行に励んだと書いてあることから、四国が弘法大師の修行された場所なので、それをたどれば御利益をいただけるということです。

 

   しかし、その八十八カ所がどうやって決められたのか、誰が決めたのかは不明だったのですが、1687年(江戸時代)に発行された眞念著「四国徧禮道指南」が、今でいうガイドブックのようなものが初めて表されております。

 ここから始まったとみるのが妥当のようです。

 

 著者の眞念は僧侶ではないとのことですが、自分の足で歩き、何番名のこの寺院はここで宿を取ればよいとか、綿密にガイドしています。

 ただ思うことは、現代のようにバスで何軒かをあっという間に巡拝するのは、本当に御利益はあるのでしょうか。

お遍路

◎女性セブン2/4号に載ったワクチンの副反応

                                                                   R3/1/23

 

 「免疫学の常識からいって、マスクや飲食店の営業自粛よりワクチンははるかに効果があります。その代わり、ワクチンを打つと必ず一定の割合で副反応が生じます」

 私は糖尿病を抱えているので、早急にワクチンを打つのが怖くなった。

 少し長いネットコピペで申し訳ありません、「3つのタイミング」が指摘されます。

1つめは接種して数分から数時間で起こることが多い、いわゆるアレルギー反応で、『アナフィラキシー』注射部位の疼痛、頭痛、悪寒、疲労感、発熱などがあります」

 アメリカでは、産婦人科医の50代男性が昨年12月にファイザー製のワクチンを接種した3日後に、副反応により急性免疫性血小板減少症(ITP)を発症し、のちに死亡した。

 副反応が現れる2つめのタイミングは、「接種後から数週間」だ。

「ゆっくりと生じる副反応で、接種から2~4週間ほどで症状が出ます。脳炎を起こしたり、手足がしびれてくるような神経障害が起こることがあります」

「ギラン・バレー症候群は、手足や顔の神経などがまひする重病で、最悪の場合は呼吸困難で死に至ります。ワクチンの副反応で生じることが多い病気です」

 3つめは、ワクチン接種者が実際に新型コロナに感染したタイミングで生じる。

「ワクチンを接種したからといって、その後の感染を100%防げるわけではありません。むしろワクチン接種後に感染すると、より症状が悪化することがある」

 それが「抗体依存性感染増強(ADE)」と呼ばれるものだ。

「本来であればワクチンが効いて新型コロナに感染しないはずですが、それどころか、せっかく獲得した抗体が感染時に〝暴走〟し、症状が悪化する現象です」

 ADEは、新型コロナと同類のコロナウイルスで発生した重症急性呼吸器症候群(SARS)や中東呼吸器症候群(MERS)のワクチン開発中にも観察された。

 そうしたワクチンの副反応でハイリスクになるのは、「アレルギー体質」だ。

「アレルギー体質の人は免疫反応が強く、ワクチンに敏感になりがちです。リウマチや喘息、ピーナッツやそばなどのアレルギーを持っている人は、特に気をつけてほしい」(室井さん)

「現場の医師の多くが接種に消極的なはず」 ワクチンの接種が進む海外では、ITPで死亡した前出のアメリカ人産婦人科医のように、副反応が原因とみられる死亡例が散見される。

 ノルウェーでは、ファイザー製のワクチンを接種した23人が死亡した。ほとんどが80才以上重症になるケースもある。イスラエルでは、72才の女性がワクチン接種後、急性顔面神経麻痺の一種であり、顔の筋肉がコントロールできなくなる「ベル麻痺」を起こした。同様の副反応は、臨床試験でも4人で確認されている。

 またファイザー製の臨床試験では、比較的軽い副反応を含めると、16~55才では2回接種後、疲労感が59%、頭痛が52%、38℃以上の微熱が16%で生じた。

 続出する「ワクチン後遺症」を受けて、アメリカではワクチン接種に反対する人々がファイザー本社前に押し寄せ、「自分の体のことは自分で決める!」と激しい抗議活動を行ったほどだ。

 揺れるワクチン接種を国内の医師はどう評価するのか。

「現段階では自信を持っての推奨はできません」

 ある程度の時間をかけて、ワクチンのリスクを見極める必要があります」(谷口医師)

 今回のワクチン接種は、時期尚早というのが谷口さんの見解である。

「臨床医が患者にワクチンの副反応の説明をするときは、『100万人に〇人の割合』などと話します。つまり、副反応の発症率を知るには、100万人規模の接種が必要です。ところが、現状ではファイザーとモデルナを合わせても、治験参加者は10万人に届かず、副反応の評価ができません。

 前出の奥村さんは別の理由から、「私はワクチンを打ちません」と語る。

「ワクチンには必ず副反応がありますが、それでも根源的なウイルス対策はワクチンしかないのです。

 今後、ワクチン接種が始まると恐らく人々が殺到しますが、まずは日本経済を支えるアクティブな人たちからワクチンを打ってほしい。私は78才ですが、私のような高齢者がワクチンを打つのは最後でいいと思っています。」                                                  

 ワクチンを打っても、新型コロナとの闘いは終わらないのだ。

※女性セブン2021年2月4日号

いよいよワクチンだが…

◎葬儀について 

              R3/1/22

 コロナによって葬儀の形態がガラッと変わりましたが、お檀家皆さまに申し上げたいことがあります。

 

 二月末発行の寺報42号にもお知らせで書いております。

 

 それは葬儀会場を、JA虹のホールを使用される方が多いのですが、ものすごく高額です。

 何もJAさんの商業ベースに合わせる必要はありません。

 

 お寺をお使いになれば格安で使用が出来ます。

 手伝いが足りぬ場合は、隣保の方か、JAさんに頼めばよいのです。

 司会が欲しい場合もそうです。

 

 遺族待機室に書院をお使い下さい。

 会場使用費(お茶等)として2万円ほど頂いております。

 虹のホール使用料と比すれば比べものにならないほど格安です。 

 駐車場も広いですし、何よりも菩提寺の御本尊様に護られてのご葬儀となりますので、有り難さも加わります。

 現在でも地区で葬儀が発生すると、必ず弘長寺をお使いいただく地区もございます。

 

 

 勿論、その地区の公民館を使用されても結構ですが、折角菩提寺があるのに使用しない理由はありません。

菩提寺での葬儀が有り難い

◎お釈迦様正伝の仏法が何故出現しなかったのか?

                                                                     R3/1/21

 

  曹洞宗は釈迦正伝の仏法と標榜しているが、検証してみると全く違うということがすぐ解ります。

 禅はインドでは全く拡大しなかった、当然です、お釈迦様が禅を重要視しておられないのだからそりゃ当然です。

 

 禅は中国で生まれたのです。

 菩提達摩大和尚(お釈迦様から28代目)が、お釈迦様は坐禅で悟りを開かれたのだから、坐禅が重要だとしたのです。

  

 確かにそうなのですが、ただ闇雲に坐ればよいというものではありません。

 その内容をお釈迦様は明示しておられないのですから、手探りの闇雲禅なのです。

  

 曹洞宗も中国禅と道元禅の比較研究は宗門の大学、駒沢大学で盛んなのですが、釈迦禅と道元禅の比較を研究する分野は全くありません、そりゃ釈迦正伝の仏法というのは間違いであることを明らかにされたら困るからです。

 

 私はそろそろ曹洞禅は、道元様独自の道元禅であることを誇りを持って露わにすべきだと思っています。

 

 決して恥ずべき事ではなく、これだけ立派な宗教哲学を示されているのですから、堂々と格調高い道元禅と標榜すべきだと思います、むしろ詭弁で、いや釈迦正伝の仏法だと間違いを言い続けることこそが、恥ずべきことと自覚すべきです。

 

 これだけ宗派がありながら、お釈迦様の行履に基づいた本当にお釈迦様の意を素直に受け継いだ宗派が何故現れなかったのか不思議です。

 

 それは空海様もそうです。

 お釈迦様の行履に基づいた教えから離れて、独自の修行法を編み出されたのです。

 空海様だけではなく、浄土系も唱題系もそうです、特に奈良時代の南都六宗(なんとりくしゅうと読みます)も学問中心の考え方で修行が殆どありません。

 

 でも他の宗派は独自の教えに誇りを持っていて、正伝の仏法などと標榜していません。

 

 宗門もそろそろ考え直す時期に来ているのではないでしょうか。

遊行と托鉢

◎権力の有る限り世界を騒がす

                                           R3/1/20

 

 トランプ氏は、議事堂乱入事件で墓穴を掘ったのだが、最後の最後まで自分の権力を誇示する行動を取りました。

 

 中国に対して、ウィグル族の大量虐殺を認定するかどうかの見当に入ったことをポンペイオ国務長官が発表、中国の反発が予想されます。

 

 最後の最後まで中国に対し、直接強烈にモノを申すのですからやはりスゴイと思います。

 

 これはネットからのコピペですが、確かにここまでやった指導者は後にも先にもいません。

 

  ドナルドトランプ大統領4年間の実績

 

・50年ぶり失業率を3.5%に

・ 700万人の雇用を増やした

・ 世帯所得が平均60万円増

・他国と戦争を一切しなかった

・給料は全て教育機関等に寄付

・中東和平に向けて多大な功績

・拉致問題を米国大統領が初の国連の演説で訴え

・現役大統領で過去最多の7400万票

  そして

・核脅威の北朝鮮を話し合いの場に

・中国に対する直接制裁&対抗政策

 

  暴力を使ってでもという熱狂的な支持者が存在するのも解るような気がします。

 

 バイデン氏は、今後、世界へのメッセージとか経済の面で耐えずトランプ氏と比較されますから余程のリーダーシップを発揮しないと、「トランプ氏よカムバック」との声が強まると思います。

また逢おう!

◎弘法大師様のどこがすごいのでしょう。

                                                      R3/1/19

 

 真言宗の方には大変失礼かもしれないが、何故空海様がすごいのか私にはよく解りません。

 王羲之を手本とした書道の才と満濃池を作られたのはすごいと思います。

 中国留学中に唐で土木を学ばれたという事ですから、それはよく解ります。

 でも「ここ掘れワンワン」ではないけれど、柳の杖でコンコンと叩いただけで全国で温泉が湧き出るなんてそりゃ凄すぎると思うのですが、伝説の類いばかりで、確たる証拠や記録もありませんし、百万回か一千万回叩けばさすがにどこかで当たるような気もいたします。

 

 色々なお大師様の本を見ますと、霊力によって探し当てられたと書かれていますが、そうですか霊力ですか。

 それを言われるともう黙ってしまうしかありませんですよね。

 でもそれだけで「凄いと思え」と言われてもねえ。

 

 ひろ先生は、空海様はいきなり佛の言葉……仏語で佛と話された天才だと書かれていますが、仏語ってあのバラモン教から拾ってきた(失礼)例の言葉ですか?

 

 ま、それはともかく、私は真面目過ぎる最澄様が、自分に足らぬものは密教であると思われ空海様に弟子入りされたその気持ちがよくわかりません。

 

 自分の道を一途に歩まれれば良かったのではないですか、せっかく天台大師智顗の教えを日本に持ち帰られたのですから。

 

 隣の芝生がよく見えるということだったのではありませんか。       つづく

柳の杖でコンコン
魔法ダー!

◎真言宗は有り難く、しかし難解です

                                                  R3/1/18

 

 真言とは、サンスクリット語(古代文章語)の「マントラ」 を漢訳したものであり…仏の言葉・真の言葉という意味です。

 最初はバラモン教の聖典である『ヴェーダ』に、神々に祈り奉る讃歌として登場し、反復して数多く唱えることで絶大な威力を発揮すると考えられていました。

 後に、バラモン教に限らず不可思議な力を有する呪文をことごとく「マントラ」と呼ぶようになりました。

 

 「陀羅尼」(ダラに)も真言「マントラ」の一つで「総持…保つ、保持し続ける」という意味です 

  ですから、曹洞宗の両本山の一つであります「總持寺」は仏の教えや決まりをよく保つという意味のお寺ということです。

 

 真言宗そのものが、創立時、国家の安泰を願う「国家祈祷宗派」でありました。

 

 中国長安の青竜寺の住職、恵果大師がインドから伝来した密教の教えを後世に伝えるため、日本から空海様が来ることを夢に見たという話は有名です。

 

 そこで勘ぐってしまう私の悪い癖です。

 

 元を辿っていけば、マントラってバラモン教(現在はヒンズー教)から拾った(喩えが悪いかもしれません)言葉を「仏の言葉」としているんですか?

 お釈迦様は、バラモン教を差別教として強く非難されたのではなかったでしょうか? 

 それって本当に「お釈迦様や大日様(仏)の言葉」なんでしょうか?

                              つづく

弘法大師空海様

◎爆発的感染による医療崩壊が始まった

                                                      R3/1/17

 

 「NHKテレビ、命の選択【その時家族は】

 ひっ迫する医療現場背景に何が」を見ました。

 

 とうとう本格的に医療崩壊が始まりました。

 命の選択が始まり、80歳を超える感染重症の方が人口呼吸器やエクモ医療器の使用を放棄して、もっと若い人の為に使ってくださいと呼吸が苦しい中で死を覚悟される。

 

  入院できず、自宅待機者は3万人もいるのです。

 

 政府関係者は、目と耳を覆いたくなるようなビデオの内容ではないでしょうか。

 

 感染者は全国で325,000人で、死者は4,500人、重症者は間もなく1,000人となります。

 

 2月7日には宣言解除というわけにはいかないと思います。

 

 ちょっとでも好転すれば、それっと人の移動を緩めてまた拡大の繰り返しです。

 

 ワクチンもファイザー社製のワクチンは三ヶ月後に2回目を打たなくてはならないが、英国はワクチン一回目を増やす為に、12ヶ月後に2回目を変更して、製造者ファイザー社からも危険だと問題視されています。

 

 今年もコロナで始まりコロナで終わりそうです。

  変異種も数種類に増えてきています、オリンピックなど夢のまた夢でしょう。

命の選択:誰か決めてくれー!

                R3/1/16
 
  菅総理は、年末に突如Go toを停止、多人数での飲食をやめろと言いながら、自分は二階さんの言いなりになって、8人で会食をし、批判をされると、「国民の誤解を招くような 」と国民の誤解のせいにしたりする。
  
  キチンと謝罪もせず、何事もなかったような顔をして、緊急事態宣言を出しました。
  
  当然人々はそんな総理の言うことなど聞きません、人に命令して直後、自らその命令に反する行為を平然と行う。
  結果として、宣言後も人の移動は変わりません。「菅さん、誰のせいでここまで悪化したのか知ってるかい?」と誰もが思ってます。
 本日(1/15)も再び2000人台に逆戻りです。(2001人)
  
  とうとうネットでも「菅も二階も辞めろ」コールが始まりました。
  菅さんの顔では今年の選挙を勝てないと思う自民党員も多いと言いますが、そのカギを握っているのが選挙を司る当の二階幹事長ですから話はややこしくなるのです。
  
  思っていても、中々二階さんに面と向かって言える方は少ないのではないでしょうか。
  おそらく即刻「ではアンタの選挙は応援せんぞ」と言われたらそこで終わりです。
  
  党派のない菅総理の後継人は二階さんです、二階さんがいなかったら菅さんは総理になれなかったのです。
  8人の会食に出ろと言われれば出ざるを得なかったのです。
  ということは、本当に悪いのは二階さんではないでしょうか  。
 
  おそらく二階さんや周りから、総理が簡単に8人会食のことを謝罪したりなどするな、知らん顔をしてろと言われていそうな気がしています。
  
  出口のない小屋の中で迷える子羊のように怯えている菅さんがあまりにもかわいそうです。

打つ手が全て裏目
ガースー
で入院したいよ

◎菅原道真公の神社には近づかない方が良い?

                                                             R3/1/15

 

 ひろさちや先生が面白いことを書いておられます。 

 菅原道真公を祀った天満宮は全国で12,000社もあるのです。(曹洞宗は15,000ヶ寺ですからほぼ同数です)

 そのトップに立つ天満宮は京都北野天満宮です。

 

 宣伝のうまさもあるのだけれども、特に学問の神様として祀られていて、高校・大学等の合格祈願に大量の人が参っていますが、ひろ先生はこれがおかしいとおっしゃるのです。

 

 何故かと言えば、彼は当時、政治の中枢にいた優秀な人物で右大臣にまで昇格したのですが、藤原時平の策略で太宰府に左遷されて亡くなります。(道真の子供4人も島流し)

 

 その5年後に、左遷に拘わった人物が時平(落雷)をはじめ次々に不業の死を遂げ、また京には転変地異が起きました。

 

 そこで人々は、道真公の怨念だとしたのです。

 そしてその怨念を鎮めるために社を建てたのです。

 

 ひろ先生は、「恐ろしい怨念」を持つような社には、近づかない方が賢明なのだとおっしゃいます。

 成る程、成る程です。

 

 確かに怨念の塊のような神社は、御礼参りをしなかった場合など、その怒りに触れそうな気がしますものね。

道真公の怨霊

◎お檀家さまに負担をかけさせない住職は

            素晴らしい僧侶なのか?

                                                                   R3/1/14

 

 私一人でご法事に出かけるようになってから間もなくでした。(多分50才頃)

 そのご法事のお宅においでになっていた親戚の方から、話しかけられました。

 「和尚さん、私は松江に住んどりますがね。」

   「はあ、そうですか」

    「ウチの菩提寺の方丈さんは素晴らしい方ですよ」

    「ああそうですか、どのように素晴らしいのですか」

    

    「ウチの方丈さんはね、『あそこが傷んでいますが、私が寄付でお直ししましょうか』とお聞きしても、『いや私は2足のワラジを履いていて、公務員でちゃんと給料もらっているから、自分で直すからいいよ』、とおっしゃって私共にはなるべくお金を使わせないように気配りをされるすばらしい和尚さんなんですよ」

    

     そうおっしゃったので、私は即座に答えた。

     「そりゃ、最低のお坊さんですね」

     すると相手の方はムッとしたような表情になり、

    「何故ですか」と問われた。

    

    「仏教にとって一番の修行は布施行です。

     お寺に対して布施をする行は、仏に近づく功徳を積む一番の行です。

        ああ、お寺様に布施ができて良かった有り難いという、仏に近づくための喜びの行を積むせっかくの機会を、あろうことか菩提寺の住職が奪い取ってしまうなどもっての外、愚の骨頂です、すばらしいどころか仏教を全く理解しておられない最低の和尚さんですよ」と申しあげました。

 

 「あんた方お檀家さんはそんなにお布施をしなくていいよ」という住職さんがいらっしゃるというお話を時々伺うのですが、それは自分のエゴでしかないと思います。

 自分を有り難く、良く見せようという心が透けて見えます。

 そりゃ自分の代はそれで良いでしょう、しかしお檀家様にそういう慣習がついてしまうと困るのが後代の住職です。

 自分さえお檀家様に立派な僧侶に見られればそれで良い、という単なるエゴに過ぎないのです。

 有り難く喜捨ができ、功徳を積む喜びを得られるようにしてさしあげるのが僧侶の法施なのです。

 

大切な喜捨行です

◎議事堂突入は

       トランプ大統領の政治生命を絶つのだろうか?

                                                                    R3/1/13

 

 トランプ氏の「戦おう、議事堂へ行こう」で始まったトランプ支持者の議事堂乱入事件はトランプ氏らしい最後の幕引き劇の様に見えたのだが。

 これで大統領としての政治生命は絶体絶命となりはした、だが1月20日のバイデン大統領就任式の武装襲撃デモに備えて、警察・軍ともに万全の体制をとっている。

 

 バイデン氏が大統領になることは確実になったのだが、しかし僅差での投票差なので、トランプ氏が未練たらたらなのもよく解ります。

 

 民主党が弾劾を求めているのですが、それが例え実行されたとしても、バイデン氏の経済政策が失敗すれば、そして年齢的にバイデン氏が失脚する4年後には再びトランプ氏が立候補して当選する可能性だって残っていると思います。

 トランプ氏への熱狂的な支持者は、4年の間にトランプ氏を再選させるような暴力的な動きを強めると思います。

 

 いずれにしても益々分断を強めるトランプ氏をバイデン氏が押さえ込めるかどうかがアメリカの未来を占うような気がしています。

誰がこの事態を予測出来たか

◎神道には神像がない

                                    R3/1/12

 

 神道には、仏教のように仏像なるものを余り見かけません。

 そういえば、お檀家様の家にもミニチュア本殿や「天照大神」という文字を書いた掛け軸はあっても、彫刻した神像をおいてあるお宅は皆無です。

 

 天と呼ばれる神様は、例えば大黒天の如くいらっしゃいます。

 そして仏教でも、天(部)と名が付く神様(守護神)はその像が沢山あるのです。

 

 梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)、十二神将、十二天、八部衆、二十八部衆などです。(ネットより)

 

 それぞれキチンとその神の如く決まった姿形や決まった持ち物を持っています。

 

 しかし、日本書紀や古事記に出てくるような神様にはその尊像がみあたりません。

 結構後になって、仏教の影響を受けて偶像を作った例はあるようなのですが、ごく希で本来は全くないのです。(鏡・玉・剣という説もある…鏡と玉は御神殿の前にあるのを見たことがあるけれども、そうすると神殿の大奥には剣なのでしょうか)神道に関しては門外漢です…どなたか教えてください。

 

 日本の神は自然の力を神格化した存在であり、目に見えず大きな岩や木、山など自然物そのものに宿る存在と考えられていました。

 

 538年に仏教が入って来た時に、案外庶民にとって具体的な仏像はイメージしやすく、親しみ深く拝みやすいという事で、スンナリ受け入れることができたのでしょう。

 だから神仏習合だって抵抗なく受け入れられたのでしょう。

 

 

 

本殿の中には果たして何が

◎菅総理がかわいそう

                           R3/1/11

 

 本当にワクチンが3月頃受けられるんでしょうか。

 なかなか非常事態宣言が出ても、感染者数が減りません。

 

 私は最近、菅総理がかわいそうだと思っています。

 

 官房長官時代には、あの語りが逆に不気味で奥深い冷たさを感じて不用意な質問などできないような重い雰囲気があった。

 そして何よりも、責任が総理ほどはなかったので気が楽だったのかもしれない。

 

 しかし今度は自らが総理になったので、全ての責任がかかってきた。

 気の毒だけれども決して饒舌なめらかな語りではありません。

 私と同い年で72歳、私と同じように年齢によるボケも少し入っておられるのではないでしょうか、次の単語が出るのに時間を要することもあるし、後で訂正したり、相手のアナウンサーに助けられたりしておられます。

 同情します、私の最近の状態とかなり似ていますから。

 

 以前よりは少し上を向かれるようになったのだが、視線が下を向きすぎてオロオロ定まらず、おどおどしている印象が強かったのです。

 とても一国の強いリーダーで、国民をぐいぐい引っ張るようなイメージが湧いてこないのです。

 台湾など9ヶ月で感染者が1人という、信じられないような初期対応を含め防疫管理に成功している国もあるのですが、安倍総理の初期対応の失敗を受け継いでいるのですから、もっと慎重になるべきでした。

 尾身会長の進言は聞かずに、経済重視で自分に都合の良い意見だけを聞いた結果が今日の危機を招いています。(自業自得です)

 

 空手部に入るよりは演劇部か放送部に入り、話し方の基本を学んでおかれた方が良かったように思います。

 そして申し訳ないのですが、視線を上に向けてもあの眠たそうな目がかなり損をしているのだろうと思います。

 国民にお願いをしても棒読みで、メルケルさんのような説得力のある内容と熱意が感じられず、他人事のようなお願い事にしか映っていません。

 

 支持率もあっという間に急降下です、分裂したアメリカと中国やロシアという大国を相手に臨んで行けるような期待感や雰囲気を感じることはできません。

 

 週刊誌には判断力無能、バカ総理などと書かれ、どの週刊誌も次期総理の話題満載です。

 かわいそうですから、早く楽にしてあげたいと思います。

ここが判断力だったのに

◎今まで体験した一番の最低温度

                  R3/1/10

 

 今回の冬将軍はいつもの年とは完璧に違います。

 昨日の朝は(8日)ー3度でしたのでそれくらいならギリギリ大丈夫だと思い何の対応もしませんでした。

 しかし9日朝は-4度という数字にビビりました。

 

 お墓の水道4カ所と庫裡外周りの4カ所、計八カ所にホカロンを貼りました。

  それもホカロンの暖まる時間が12時間ということなので、わざわざ午後8時を過ぎてから貼ったのです。

 

 幸い凍結はなかったのですが、お風呂の水は出るけれどもお湯が全く出なくなりました。

 お風呂を管理する会社に電話すると、凍結に関しては処置のしようがないので暖かくなるまでお待ちくださいとのこと。

 

 20センチの雪とー4度で参っていては東北の豪雪地帯の方々の2メートルの豪雪やー10度以下にもなる気温から比べれば何てことないのかもしれませんが、しかし-4度は想像以上に冷たいものだと感じました。

 

 とりあえずお風呂の対策をせねばなりませんが、冬だから汗もかかないし、今月はこの先2週間くらい法事予定もありませんので、下着だけ替えればいたって平気なのです。

ウヒャー、凍結かよ!

                                                                           R3/1/9
 
 これはオームに限らずどの宗教組織にも通じることだが、やましさのある組織ほど権力と金を持つと、当初の原点から離れて暴走することになります。
 それは信仰とは無関係の集金マシーンと選挙マシーンに現れています。
 
  やはり日蓮系といえば創価学会でしょう。
 
 元学会員の段 勲氏が月刊住職に長年に亘って学会ウオッチャーとして批判的に詳細に報告されています。
 
 人の迷惑を顧みず、勧誘のために夜中二時頃まで粘り、相手を根負けさせた途端に、その場でそのお宅の仏壇や仏像を壊していったのです。
 そして組織から抜けたいと願い出た者には脅迫と暴言・軟禁・尾行などによって阻止を諮り、違法すれすれの行為を展開していたのです。
 
 それは毎日新聞に救いを求める多数の被害投書が届いたことで明らかになっています。
 
 およそ同じ仏教者の為せる技ではないような手法を平然と行うようになるのです。
 ノルマはないと言いながら、勧誘して信者が増えれば報償として幹部の座に登ってゆく仕組みになっている。
 
 折伏大号令を唱えたトップは集金能力も神業の如く持ち合わせ、宗教団体としては破格の金持ち教団にのし上げたのです。
 
 そして金の力で、海外の著名な政治家や学者・文化人との対談を重ね、世界的に偉大な人物に見せかけ、一時はノーベル賞候補と噂されたこともありますが、手段を選ばぬ強引な信者獲得や、脱会を許さぬ暴力団まがいの行為を容認促進したことはひた隠し、偉大な宗教者を装ったのです。
 
 現在でも脱会は相当困難だと言われています。
 
 そして多くの脱会者が、これほど多くの批判本を書く組織も珍しいと思います。
 
 組織の信仰もコロコロ変遷しているし、その信仰目標は現在、集金マシーンと選挙マシーンという具体的目標にすり替えられている。
 
 言論出版妨害事件を起こし、その最中にも共産党幹部に対する電話盗聴事件も起こしていたが、今の方(信者も)はそんなことは殆ど知らないかもしれない。
 素晴らしい組織に入って良かったと思わせる組織運営がなされていると思います。(新しい信者に対して、負の部分を知られないように組織によって必死の努力がなされていると思います)

鰯の頭も信心

                                                         R3/1/8                                    
 
 たまたま立ち寄った、近松門左衛門の菩提寺であります日蓮宗:広済寺様のホームページに感服しました。
 
 特に折伏に対し、かなり深く参究されていることに驚きました。
 
 鎌倉仏教の最後に登場した日蓮様が、自らの主張をするには念仏や禅に対する批判をしたのは当然だ、それは悪口ではなく経典と天台教義を論拠にした批判だとおっしゃるが、それは日蓮宗のみに通じる話だと思います。
    何故なら、主張だけすればよい話で、他宗を批判したり排撃したりするのは仏教の本義から外れるからです。
 
 ホームページは 「それは反感がすさまじく、中世では命がけの菩薩行だ」と論じているが、菩薩行と断定するのも日蓮宗のみに通じる話です。
 他宗から見れば、これも菩薩行の類いなどではなく、自分勝手で余計なお世話行なのです。
 
 他宗派にとっては、勝手に菩薩行と思い込んでいるだけですよ、という解釈になるのです。
 このホームページの論述を全面的に賛意を表する訳にはいかないのですが、次の折伏に関する論述には感服いたしました。
 
  教団やそのカリスマの煽動で、組織的に脅迫めいた迷惑な布教を展開して新たな信徒を得ようとする、或いはその組織からの脱会を尾行や嫌がらせで阻止する。
 それは仏教ではないし、日蓮上人の教えでもない。
 
 脅迫めいた言動や嫌がらせを、法華経も日蓮様も説いてはおられない。
 むしろ逆である。
 嫌がらせや脅迫めいた言動に対し、「耐えよ」と説かれているのです。
 法華経を信ずると難儀が襲いかかると予想しているのが「第十三 勧持品」です。
 これを自分の都合よくねじ曲げて解釈しているのが、該当する組織なのです。
 
 日蓮上人の五大部のひとつ「開目抄」に、「第二十 常不軽品」のごとき折伏をせよと説いてあります。
 
 常不軽菩薩というのは、あなたは将来仏になるお方ですと礼拝して廻った菩薩です。
 拝まれた人が、気持ち悪がって罵ったり石つぶてを投げても、少し離れてからなおも礼拝を続けた菩薩です。
 
 つまり、日蓮様も「常不軽菩薩の様に折伏せよ」と示され、石つぶてを投げられ罵詈雑言を浴びせられても「耐えよ」、その耐える姿を人に見せるのが折伏であると、一般的解釈とは正反対のことを説かれているのです。
 それなら納得です。                                                                                               つづく

辻説法もなかった、もしされていたらその場で武士に斬り殺されていたとのこと

◎ノーパソが復活してうれしい

                                         R3/1/7

 

   故障したと思われたノーパソ(これは『のーぱそ』と読みます、似ているからといって、決して『のーぱん』と読んではいけません)が復活を果たして本当にうれしい。

 

 例えばこのホームページの原稿を書くのも殆どこのノーパソです。

 買い物に出かけた際に、ちょっとしたスペースや車の中で思いついた文章がその場で直ぐに書けるのです。

 

 外へ、デスクトップなど到底持ち出すことは不可能ですから本当に便利なツールです。 しかもいろんなデータの数値や漢字など、インターネットを開けば即確認することが可能です。

 

 すごい文明の利器ですが、マイナス点もあるのです。

 

 それは便利過ぎて、どんどん漢字を忘れていき、読むことはできても書くことができなくなってしまうということです。

 この文章を紙に自分で書けと言われてもおそらく満足な漢字が書けないのではないかと思います。

 

 つまり、このグッズは生涯、相棒としてもう手放すことはできないということなのです。

世界中の人とでも会話や仕事だって出来るしこんな便利なモノ作った人の頭の中ってどうなってるんだろう

◎平和を希求し実現したその裏を見る

                R3/1/6

 

 本日山陰中央新報に、県内近隣の小学生たちが修学旅行の代わりに平和学習する為に、安来市広瀬町布部の「加納美術館」を訪れ、佳世子名誉館長が講話解説をしている記事が載りました。

 

 日本軍に目の前で妻子を殺されたキリノ大統領宛てに手紙を出し、収容所で死刑を待つ戦犯105人の赦しを請い、憎しみの連鎖を遮断し、「赦し難きを赦したまえ」と訴え続けた加納莞蕾氏の功績はすごいと思うのだが、その功績の裏では、家族の貧困による壮絶な生活があったのです。

 

 莞蕾氏は従軍画家で、目の前で起こる現実の殺し合いを網膜に焼きつけ絵に託し、人間はこんな悲惨な殺し合いをしてはならない、人類は絶対に平和であるべきだとの思いを強くされたのでしょう。

 

 それは高尚な思いであり賛美されるべきでありましょう。

 しかし現実の殺伐たる殺し合いを見たこともない家族にとっては、平和への願いよりも今日の、明日の食事であり、ノートや鉛筆であったろうと思います。

 

 戦犯の命を救うという、むしろ宗教的で崇高な目的への強烈な希求のために、家族の生活など全く顧みない一家の主人にあきれて、奥様が家を飛び出てしまわれた。

 

 特に子供さんたちにとっては、貧乏の上に突如お母さんがいなくなるという、目も当てられぬ惨状を迎えました。

 

 戦犯は個人の意志による犯罪ではなく、逆らえぬ国家の命によるものであり個人に罪はない…それもよく理解できます。

 しかし崇高な平和的目標の前には、自分勝手な家族への思いなど無用なのだろうか?

 

 わずかな収入も全て平和運動に捧げ、それでも一途に目標に向かうという事もすごいことであるには違いありません。

 でも、でも、それで家族の平和がなくなり崩壊を招く、それは仕方のないことと切り捨てて良いものなのか…。

 そこの当たりが心の隅にひっかかり、諸手を挙げてその功績をたたえようという気にはならないのです。

 その不幸な惨劇の土台の上に成り立っている功績であるとの両面があることも、私どもはどうしても理解しておかねばならないと思っています。

 

 名誉館長との二人だけのお話の中で、幼少時代に話題が及んだ時、女史の両目から大粒の涙があふれ出たことを、私は忘れることはできません。 

   (この文は佳世子女史に掲載許可を得ました)

           R3/1/8
 
 1/4 ノートパソコン(マイクロソフト:サーフェスプロ7)が電源ダウンしたまま動かなくなった。
 
 さあ大変、直ぐに修理をと言うことで松江のパソコン工房へ持ち込んだら、マイクロソフト製ノーパソだけは修理不可で、メーカーが修理をさせないし、部品取り寄せも不可と言うことがわかった。
 
 仕方がないので本日五日、マイクロソフトサポートに電話で対応を願った。
 マイクロソフトは、バッテリーや本体を修理するのではなくて、どちらも新品と交換するという仕組みだった。
 
 その代わり本体も新品となるので、中に入っているデータも消えてしまうとのことだった。
 
 それは困るので、購入店舗に行き、担当者に調べて貰ったら、単なるパッテリージャージャーの故障であり、本体は大丈夫ということが解った。 
 
 そして今まではマイクロソフトのチャージャーが特殊なので、メーカーから取り寄せるしか方法がなかったのだが、USB 接続での代替品が市販されるようになったと言うことで、それを購入して無事一件落着となった。
 
中々IC のメカの部分には適応や相性などもあり、素人は振り回されてしまいます。

この画像が、ある日真っ黒になって
電源ダウン
絶望のどん底だ

◎坊主正月ってご存知ですか

            R3/1/4

 

  今日、一月四日は当山では坊主正月といいます。

 

 他寺も同じかどうかは解りません。

 

 正月三日間は朝二時半起きで、三時より朝課…正月若水を供えて朝のお勤め、五時より大般若祈祷となり数名の方がお詣りになります。

 

大般若が終わって朝のお雑煮が終わるやいなやお檀家様が年始のご挨拶に詣られます。

最近は午前・午後を副住職と交代で受付ます。

 

 3日間が終わると晴れてお休みです

 

 一月四日は寝不足と疲れを一度に解消するお休みの日なんです。

 というわけでお休みなさい、今年もよろしく

坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた

◎それは行基菩薩が開基です

                                      R3/1/3

 

 

 ひろ先生夫妻と一緒に読誦した山の中にひっそりとたたずむお寺は禅定寺といいます。

 

 行基の開山といわれ、聖武天皇の勅願所と伝えられる天台宗の古刹です。

 

 行基は行基菩薩と呼ばれ、民衆の中にあって布教され、聖武天皇から奈良の大仏建立の責任者を命じられた僧です。

 

 禅定寺の本尊は、行基作といわれる木造聖観音立像で、国の重要文化財に指定されています。

 この観音像には、イノシシに姿を変えて餓死寸前の僧侶を救ったという、「身代わり観音」の言い伝えも残っています。

島根県にも味わい深い、しかも参拝客もあまりない(観音札所となっています)、静かなお寺があるのですね。

 

 由緒ある古刹で、ひろ先生がお詣りしたいと仰ったのも解るような気がします。

ひろ先生

◎ひろ先生ご夫妻と3人だけで心経読誦しました

                 R3/1/2

 

 仏教をわかりやすく説くことに定評のあるひろさちや先生の著書をみると、道元禅に対する評価には絶対の信頼を置いておられます。

 

 それは坐禅をしたことのない先生が、つまり坐禅行に対して全く無知の先生が、単に宗教哲学としての道元禅師を評価されているのであって、坐禅行にたいして体験無しの自らが検証できない盲点を、道元様の教え通りに鵜呑みにされているのに過ぎないと思います。

 

 だから坐禅に対する行については先生の弱点ですから、それについての講習は一度も受けた事はありません。

    またセミナーの坐禅にも一度も参加されたことはありません。

 

 坐禅をしないで禅を説き、本を書いてしまうのだからすごいですよね。

 でもそれは坐禅行についてではなく、仏教の禅語録や問答…禅哲学について述べていらっしゃるのであって、坐禅行の正当性を述べられてはいないのです。

 

 宗務所で教化主事をしていた頃、中国管区教化センターの事業で「夏休みこども禅セミナー」で毎年先生を講師としてお招きしておりました。

 

 ある年に、私が先生ご夫妻を空港にお迎えに行くことになり、お乗せしたら、途中で寺院に寄って頂きたいとのことで54号線沿いにある古刹の寺院に立ち寄りました。

 

 山門にある寺院事務所から高い石段を登ると無人の根本堂があり、そこでご夫婦と一緒に私が鐘と木魚をたたいて3人で般若心経を読誦しました。

 

 ひろ先生と一緒に読経出来たのは、今でも私にとって誇りであり、鮮明に記憶に残っています。

古刹でした

◎明けましておめでとうございます

                                                                    R3/1/1

 

 2021年の幕が開きました。

 今年はコロナが収束しますように。

  皆さまにとって素晴らしい年になりますように。

  そしてコロナ以前のように世の中が活気に溢れた生活を取り戻せますように。

 はたまた自然災害被害が激減しますように。

 

 そして、仏教の教えが人々の心の支えになりますように。

   明るさが取り戻せますように。

 どんなに辛く、厳しく、絶対絶命の時でも、仏教の教えが命を救う最後の糧となりますように。

 どんな時でも仏教の教えを心に抱ける人たちが増えますように。

 

 念頭に当たりこの様に祈りたいと思います。

今年こそ縁切りだよ!

◎政教分離はうらめしい ②

                               R2/12/31

 

 日本のように宗教が乱立しているような自由な国では、一部の宗教を特別に擁護することは不可能です。

 

 「オーム真理教」のような、武力で国家転覆を謀るような団体を、国が特別に擁護しては困るのです。

 

 また「ものみの塔」のように輸血拒否を主張するような団体を、国が特別に擁護しても困るのです。

 

 だから政教分離政策は必然性があります。

 

 ただ、仏教の教えを子供達の情操教育に深く関わりたいと願っている仏教各派にとって、特に「オーム真理教」以後は、その教団独持の仏教校以外は、仏教が教育に直接関わる事は困難となっています。

 また、国は「オーム事件」以後は宗教に対して厳しい施策をとるようになりました。

 

 本当は子供達への仏教の情操教育こそが大切であるのに、仏教団体としてはうらめしい限りなのです。

恐ろしい男だった

◎年賀状を出すのを忘れてました

                                          R2/12/30

 

 年賀状を買ってあったのですが、買って安心してしまい、作って出すのをわすれていました。

 

 そこら辺が年齢の加減ではないかと思います、昨日は必死で賀状作りでした。

 

 これは年のせいには関係ないのですが、池の水が減り、水道で水を足しても即減ってしまうので、仕方なく水漏れ防止工事をすることになりました。

 

鯉屋さんで直径2メートル、たかさは胸まである大型の水槽を借りてきて、一時的に鯉を15匹その中にいれて工事の終わるのを待ったのですが、待ちきれずに次々と鯉が死んで行き、全滅となりました。(80㎝から1メートル級の大きさでした)

 

 懇ろに弔ったのですが可哀想で残念でたまりませんでした、一匹1,000円の鯉がここまで大きくなったのにと思うと失望で溜息でした。

 

 春には、修理を終えた池に新たに鯉を購入する予定です。

大きく立派な鯉でした

◎政教分離はうらめしい

                            R2/12/29

 

 確かに日本には様々な宗教や宗派があり、政教は分離せざるを得ません。

 世界でもアメリカをはじめ殆どの国が政教分離政策を実施しています。

 

 政教分離をしない国はイスラム教を国教としている国でありましょう。

 そもそも端的に言えば、政教分離政策は国教を作らない、作らせないということが目的であると思います。

 

 宗教を国教としているだけにイスラム教の教えは、世界の隅々まで信者に行き渡っているような気がします。

 一日五回の礼拝を時間が来れば一斉に礼拝し、礼拝の方向も磁石を使い、しかも礼拝の前準備がすごいんです。

 

 身体を清めなければ、礼拝ができないのです。

 しかも身体を清める順番も厳格に決まっています。

 

 しかもその礼拝をなるべく人に見られないようにしなければならない。

 

 中々イスラム教徒は独特の規律があり、大変だと思うのですが、信者にとっては生まれてから毎日行ってきたことなので平気です、我々が朝起きて歯磨きをして顔をあらう習慣のように、そしてそれが天国に召される正統な行為だと思っておられるのです。

 

 それはともかくイスラム教でなく、仏教で良かった~。

礼拝の前には
身体を浄めなければならない

◎日本の儒教者はお釈迦様の出家を評価しない

                                                                                                                                        R2/12/28

 

 そりゃそうですよね、儒教は親孝行を絶対価値とみなしていますから、いくら真理を得るためと言っても、親を捨て妻子を捨てて蒸発した時点でアウトだと言いたいのです。

 

 確かに一家の大黒柱が急に蒸発すれば、残された家族は一般的には路頭に迷ってしまいますから、蒸発者は非難されて大問題となります。

 

 でもお釈迦様は一国の王子様です、家族も王様一族ですから路頭に迷うことは絶対ありません。

 

 お釈迦様がいなくとも釈迦国の中では一番贅沢な生活を送ることができるのです。

 

 だから残った家族の生活のことで煩い悩む必要は全くありませんでした。

 

 お釈迦様が王子であった頃、四つの門を出て老人・病人・死者・修行者に出会い、人生の苦しみを目のあたりにし、最後の修行者(沙門)に出会って出家の意思を固められました。

 

 この四門出雄は、浄居天という神が、お釈迦様に出家を促したとされています。

 私もそれは知りませんでした。

四門出遊

◎NHKスペシャル

  「患者が命を終えたいと言った時」を見た

               R2/12/27

 

 治る見込みのない筋萎縮性側索硬化症ALSの難病から絶望し安楽死を求めた50代の女性が、かかりつけの医師ではなく、ネットで知った面識のない医師二人によって安楽死を得たのだが、その二人の医師は逮捕されてしまった。

 

 難病患者を抱える医師は、患者に寄り添えば寄り添うほど、患者の今すぐ死にたいという願望にも応えたくなる複雑な心境を訴えています。

 患者の意志に応えた二人の医師の逮捕を、他人事ではないと思ったからです。

 

 画面では「鎮静」というほぼ安楽死に近い処置を行おうとする医師の複雑な心境を映し出していました。

 

 幸い「鎮静」の処置をせずとも、患者がその予定当日、自分の力で死に至ることができたのです。             

 

 難病患者を扱う医師が、毎日揺れ動く心の葛藤をしている現実がよく解りました。

 

 この映像を見て、妻の最後を鮮明に思い出しました。

 膵臓癌の痛みと痒み(かゆみ)のダブルパンチで苦しんだ妻が、病院から一時帰宅して真夜中、「頼むから殺してよ」と叫んだ のです。

 「そんなことできるわけないじゃないか」……その強烈な場面を思い出しました。

 

 医者という職業は、宗教者以上に辛い、大変な職業であることを実感しました。

早う死にたいんじゃ!

◎悪業を消すのは可能なのか?

                                     R2/12/26

 

 例えば10人殺したとしよう。

 その悪業は消すことができるのだろうか。

 その一人一人の遺族にしてみれば、自分にとってかけがえのない大切な家族を失ったのであり、殺したい程の憎しみを持ち、到底許すことなどできないはずであります。

 

 ところが修証義の第2章には懺悔滅罪が説いてあるのです。

 市販されている修証義の解説本には殆どの本が真剣に懺悔すればその罪も業も葉に宿る露のごとく消え去ると説いてあるのです。

 

 曹洞宗の「修証義御和讃」にも

 「生々生々の罪咎は 深雪のごとくふかくとも 悔ゆる心の朝日には 消えて跡なくな 

   りぬべし」とあります。(ふりにし世々のつみとがはと読みます)

 

 それは絶対におかしいと思い、第2章を注意深く読むと、罪根をして 銷殞せしむるなり、とあります。

 

 つまり「罪根をして」と表現してあります。

決して罪とか罪業をとかが書いてないのです。

 

 その罪根とは何でしょう……それは心の三毒である貪瞋癡の毒素を消してゆくことなのです。(貪瞋癡の三毒は、むさぼり、いかり、おろかさです)

 

 自分で自分の罪を消そうと思ってはいけないと考えています。(それで業が消えるはずがないのです)… それは他人が(相手が)許すか許さないかを考えることなのです。

 例えば、オーム真理教の麻原に殺された弁護士一家の遺族が簡単に麻原の罪を許すはずがありません。

 たとえ、麻原が死刑になってもその恨みが消える事など絶対にありません。

 

自分の作った罪(罪業)は消えないし、消す必要すらありません。

その業を背負ったまま善業を作り続けていくのが本当の懺悔…仏道の生き方ではないかと思っています。

ゴメンで済めば警察はいらん

◎修証義の不備をつき改訂すべきと唱えた

                                                         R2/12/25

 

 修証義百周年の前だったと思うが、坐禅を説いていない修証義は完璧な不備であり、改訂すべきだと意見を述べたことがあります。

 

 他県の偉い宗侶の方が、「修証義は曹洞宗にとって入門のお経ととらえるべきですよ」と私に諭すようにおっしゃった。

 

 猛然と反発した、坐禅という言葉がなければ入門にもならないのではないかと。

 

 そして私は中国地方代表として、永平寺系組織の東京の全国大会で意見発表をすることとなった。

 

 そして私が全国大会で何を話すかを、中国地方で行学兼備の大徳(故人)が全国大会の会場まで監視にこられた。

 大会で賛意の声が多数上がれば、宗門が混乱すると思われたのだろううと思いますが、お経を改訂、或いは最初から作り直すなどという面倒なことはごめんだという雰囲気の中では私の意見は浮いていたと思います。

 

 その後まもなく100周年がはじまったのですが、宗務庁はまったく動こうとはしなかった。

 

 問題点を上げるだけ上げさせてそれっきりという情けなさで、期待する方が無理でした。

巨大組織:曹洞宗1万5千ヶ寺、僧侶2万5千人

◎生死の中に仏あれば生死なし

                                      R2/12/24

 

 修証義の冒頭に出てくる言葉です。

 

 「人は何故生まれ、死んでいくのか、それを見きわめるのが仏教者として一番大切なことである」

 

   その文章の次に出てくるのが、この言葉であります。

 

 私はお坊さんになって、この意味がわからずに苦労しました。

  他のお坊さん方に聞いてもわからず、解説本を読んでも解らなかったのです。

 

 一般の方も、いきなりこの言葉に出会うと、「何のことやら」ということになるのではないかと思います。」

    直訳すれば、「人の生涯の中に仏様があれば生涯はない」

 さっぱりわかりません。

 

 これは意訳をしないと解らないのです。

 

 生死は人間一生涯であります、その一生涯は苦に満ちている、……だから生死というのは「人間の生涯の苦しみ」と訳さなければなりません。

 

 仏は仏教の教え、つまり仏法です……仏様の教えであり、仏になるための教えでもあります。

 

 つまり意訳をすればこうなります。

 

 「人生の中に多くの苦しみがある、しかしその苦しみの中にこそ仏になる道(仏教)があるのだから、それが解れば苦しみは苦しみでなくなるのだ。」

 

 その意味が解った時の喜びは格別でした。

右:曹洞宗を作った方、左:広めた方

◎新型コロナの変異種だって?

                                      R2/12/23            

 

  ワクチン接種がとっくに始まっているはずのイギリスで変異種が発覚、70%も感染率がアップし、イギリスは3度目のロックダウンを実施した。

 

 欧州各国は英国からの人や物資の移動を禁止、EU離脱問題も絡み、大混乱となっている。

 

 それはともかく、アメリカのファイザー社やモデルナ社が今のワクチンは、変異種でも

効果があると言ってるのですが、本当にそうだろうか。

 

 ワクチンができることを知って、コロナが急に感染力を増すように変身をしていく……それはコロナ自身がまるで自分の意志を持っていて、自らを変身させているようではないか。

 

 想像力たくましい人なら、宇宙人の仕業ではないかと思ってしまうようなタイミングの良さです。

 

 成田空港などで、防御対策を取っているが、果たして防御仕切れるのか解らない。

 何せ菌保有者でも陰性(一時的カモフラージュ)という忍者のような術を心得ている相手ですもの。

 

 緊急事態宣言がなく、GO TOはなくなったが別に何処へでも行けて、人々も政府の言うことを聞かなくなっている。

 

 こういう時に感染率70%増のウィルスなどが入り込んだらひとたまりもないような気がする。

 せめてワクチンがはじまりそうな春まで待ってもらいたい。

コロナ変異種

◎「修証義」というお経に 、その(義)が全くない

                                                            何じゃそりゃ!

                                                                                                                                                  R2/12/22                             

 曹洞宗が大切にしているお経の一つに「修証義」があります。

  難解な正法眼蔵の中の言葉をつなぎ合わせて無理矢理お経として作られたものです。

  明治23年、東洋大学長で僧籍もあった大内青巒居士が、両大本山両禅師様の校閲改訂の末、在家向けに作られたお経であります。

 

 しかし問題点の多いお経であります。

 だって「修行と悟りの意味・関係」というタイトルなのに、道元様が核心的な言葉でおっしゃっている(修証一如)(修証是一等なり)の言葉が全く見えないのです。

 

 大内居士が、在家の方たちには坐禅中心の禅の生活を説くのは難し過ぎるとして、修証義の中で坐禅を全く説いていないのです。(坐禅の坐の字もありません)

 まずここが問題です、坐禅抜きで、何をもって禅宗というのですか。

 修行が見当たらなければ悟り(証)も見当たらない、…タイトルだけがそれらしく存在する。(無責任極まりない編纂であり、当時の宗務庁がよく許可しましたね。)

 宗門の根底のもっとも大事な坐禅を説かずに、宗門の最重要な教えをお経に詰め込んだ気になっている……おかしいと思いませんか。

 

 修行と悟りの意味を説くのに、修行も悟りもないのですから、修証の意味・関係を説きようがないのです。

 

 修証義100周年で、宗務庁が先導し、駒沢大学学者の叡智を集め、修証義の大きな問題点を多数取り上げた本を宗務庁が出版しているのだが、その後宗務庁は問題だらけのそのお経を作り変える、或いは補足するという意志はあるのかと、宗議会議員と両本山の役職がいる大会で私は問いかけたが、その答えはしどろもどろで、そんな気が全くないことが明白になった。

 

 私たちが信仰に基づき読経するお経の根本的な問題点に対して何も対応しない、できないというのは宗祖に対しても、お檀家様に対しても恥ずべきことではないだろうかと私は思うのですが。

大本山永平寺様の御紋、久我竜胆

◎仏法には修証これ一等なり2

                                  R2/12/21                                          

 

  もし道元様のおっしゃる非思量の只管打坐が正伝の仏法であると仮定しよう。

 

 はたして修行と悟りは全く同一事象と考えて良いのだろうか。

 初心の弁道(修行)であっても、悟りと全く同じだとおっしゃるのです。

 いくら何でもそれは私にはどうしても考えられないのです。

 

 初めて坐禅をするのが悟りだとおっしゃるなら、これほど悟りということを軽く低次元に捉えている言葉はないのではないかと思います。

 

 それくらい今の修行は大事なのだという励ましの意味だというのであれば解る気がしないでもないのですが、道元様が真剣におっしゃっているのであれば、全くあり得ない話だと思います。

 

 だって、初めて坐禅をする方と、50年間以上坐って来た方と、両方が同じ次元の悟りの坐禅だなんてとても納得なんてできません。

 

 翻って私が最初に坐禅をしたときなんて、足が痛くて尋常な思いではなかった。

 とてもこれは悟りの坐禅と思うようなゆとりなど全くありませんでした。

 

 坐禅の足を組むというのは、人によってそれぞれ痛みは違うのです。

 手を使わなくともスッと結跏趺坐できる方もいれば、私の様に足が太くて短い者は、半跏趺坐でもキツくて駄目という人間もいるのです。

 

 私が修行した地方僧堂ではそんなに厳しくなかったのですが、御本山永平寺様などでは結跏趺坐ができず、古参にいじめられて泣く泣く山を下りた方も沢山おられるのです。

 道元様が坐禅儀にどちらでも良いと示されているのに、宗侶はプロだから結跏趺坐で当たり前だとの強者の論法で、新到和尚をいじめる口実にした歴史的痕跡があります。

 

 一見、修証一等なりと聞けばかっこよく思えるのだが、現実はそんなに簡単で単純なものではありません。

古参和尚は怖い

◎仏法には修証これ一等なり

                                 R2/12/20   

 

  初期眼蔵の「弁道話」に出ている道元様核心の教えでありますが、そのまま額面通りに解釈してよいのかは、いささか疑念を挟む余地があります。

 

 道元様の説かれた只管打坐の非思量禅(何も考えずにひたすら坐る)が、お釈迦様正伝の仏法ではないということを前回述べたのだが、はてこの修証これ一等なり(修証一如)……修行と悟りは同じだという『道元様の仏道における根底の教え』が果たして正しいのかを検証してみたい。

 

 本証(悟り)の上に修行がある(本証妙修)、この考え方は非思量の只管打坐が正しい修行であるならば素晴らしい論理だと思うのですが、如何んせんその悟りの内容が、そして修行の内容がお釈迦様の坐禅や行履と比すれば、正伝の仏法には全く関係のない行をしているように私には見えてしまいます。

 

 お釈迦様は生涯民衆の只中にあって遊行(ゆぎょう)説法という利他行をなされたが、道元様は「生涯坐禅修行の道場を離れるな」と説かれている。

 まさに正反対の教えなのです、……正しく仏法が伝わっている様には全く思えないのです……つづく

道元禅師

◎豪雪に思う

                    R2/12/19

 

 関越道で雪の為立ち往生した車の列を見て、殆どの車の運転手さんが「しまった、あそこで燃料を入れておくべきだった」とか「あそこのコンビニで食料を買い込んでおけば良かった」「不要不急は出るなのいうことを聞いとけば良かった」いろんな後の祭りの思いが錯綜したでしょう。

 

 数年前の鳥取県9号線の立ち往生を思い出しました。

 あの時のパンを運んでいた運転手さんが,、周りの車にパンを配られたことを思い出しました。

 

 女性の運転手さんは男性よりトイレに困るに違いありません。

 

 やはり、警報が出ていれば、無駄になっても良いから準備万端で供えたい。

 水や食料と携帯トイレ、ガソリンを無駄に使わない為にホカロンは必須です。

 

 乾電池式のラジオも必須です、スマホは肝心な連絡を取るとき以外はなるべく使わない様にします。

 

 準備しすぎて困ることはありません、余裕をもって対応したいものです。

 豪雪時に災害を軽く見過ぎてはなりません、絶えず恐ろしい事態を招くことを自覚すべきです。

立ち往生

◎すると禅宗の根拠は何か?2

                                            R2/12/18

 

 残念ながら禅宗の根拠はないのです。

 お釈迦様がそれを説いて明らかにされてない以上、根拠は絶対になく、現在ある禅宗の宗派はお釈迦様の坐禅とは全く関係のない、推測による勝手な創造物なのです。

 

 最初に創造物を作ったのは達摩大師です。

 つまり禅宗の祖です。

 そこから曹洞宗の黙照禅(何も考えずに只ひたすら坐る)と、臨済宗の看話禅(問答により悟りを目指す禅)に分かれます。

 

 曹洞宗を開かれた道元禅師は、黙照禅です。

 道元様は、自分の禅風の祖を達摩大師とせず、お釈迦様から正しく伝わった正伝の仏法と仰っていますが、 それは間違いです…道元様の正伝の仏法は達磨大師様なのです。 

 お悟りを開かれたお釈迦様から正しく伝わったものであると説いた方が、自分の禅風の格が上がり、箔が付くと思われたのでしょうね。

 中国には本物の仏法があると思い込み、達磨禅真っ只中の中国で学ばれたので、致し方ありません。

 

 それは臨済宗もそうです。

 達摩大師ではなく宗祖はお釈迦様だと言いたいのです。

 

 しかも達摩大師は面壁九年で本来黙照禅であるべきなのに、臨済禅は面壁ではなく人と人が対面しながら問答の答えを考えている…そういう禅です。

 

 つまりお釈迦様とも達摩大師とも、臨済の祖であった栄西禅師とも違う禅を臨済宗は編み出しています。

 

 私は曹洞禅も臨済禅も、それがいけないとは思っていません。

 それならそれで割り切って、釈迦正伝の仏法などとうそぶかずに、立派な宗教哲学を持つ正当な道元仏法だと胸を張れば良いのです。

 お釈迦様とは無縁の禅であると解れば、今の黙照禅も道元様の宗教哲学を基に、新たな禅として輝きを増すのではないでしょうか。

 

 つまりお釈迦様が捨てられた禅を拾い上げ、道元様の立派な教えに基づいて再び光を当てられたとする方が格段に解りやすい…………私はそう思っています。

坐禅

◎すると禅宗の根拠は何か?

                                        R2/12/17

 

 お釈迦様が、私の七日間の坐禅は誰にも真似ができないと、真理を悟られた時点で坐禅を捨てられたと書いたのだが、実は悟ったあと2週間ばかりは坐禅を続けられたのです。(悟後の禅)

 それは自分の悟った真理が、本当に間違っていないかを検証されたのだと思います。

 その検証後に手段として使った坐禅を再び使うことはなかったのです。

 

 すると今日の禅宗の根拠がないと言うことになります。

 お釈迦様が悟りへ至る坐禅の仕方や中身をお話になっていないので、後の禅宗は単なる憶測でしか判断ができないのです。

 

 お釈迦様は弟子たちに、坐禅の坐の字も説いておられません、生涯説法の旅でした。

 そして、摩訶迦葉(まかかしょう)に伝法され教団を譲られましたが、彼もまた生涯、説法の旅を続けるのです。

 

 そして27代にも亘って坐禅なしの教えが脈々と伝法されてきましたが、28代目に達摩(だるま)さんが中国で坐禅を主張されたのです。

 

 お釈迦様が坐禅によって悟りを開かれたので、坐禅行こそが本来の修行であると主張されたのです。

 

 坐禅の中身が開示されていないので、ただ黙って坐っていりゃいいんだと思われ、壁に向かって9年間も坐禅をされた。

 長期の坐禅によって足がなくなって、七転び八起きの達摩さんとして現在は選挙があると活躍しておられます。

 

 その中国の坐禅が日本に渡っているのです。  長くなりそうなので……つづく。

達磨さん

◎では中道の修行とは何か?

                                          R2/12/16

 

  お釈迦様がお悟りを開かれた直後の初転法輪も含め、生涯を通して、坐禅の必要性・重要性を説かれたことは一度もありません。

 だから十大弟子の中にも坐禅第一と呼ばれる弟子はいませんし、お釈迦様が説かれたという坐禅のお経も見当たりません。

 

 お釈迦様が悟りを開かれた後、生涯に亘って何をされたかと言えば、遊行です。

 広いインド国内を旅をしながら真理の法を説いて歩かれたのです。

 それを遊行と申します。

 

 つまり死の直前まで、民衆(大衆)の真只中に我が身を置き、法を説かれ続けられたのです。

 そのお釈迦様の行履こそが仏教修行者が根幹の行として見習うべきことでありましょう。

 お釈迦様が中道として示されたのが、欲望や快楽にふけることや自分の身体を痛めつける苦行の両極端に近づかないことだということです。

 

 そして中道は両極端の真ん中という意味ではなく、具体的には八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念。正定)に基づいた行に生きると言うことです。

 

  お釈迦様は坐禅によって悟りを開かれたのに、教えの中に坐禅という言葉を一つも使っておられないのです……なぜか?

 

 それは坐禅が99%「迷いの道」に入る要素を含んでいるからだと思います。

  お釈迦様が悟りに至った坐禅は、並の人間には絶対真似のできない秘法であると私は思っています。

 それは絶頂期の羽生永世七冠の如く、4・5時間で千手先を読む作業に似ている。

 羽生氏は千手先を読んでこの一手で間違いなく勝てると思ったら指す手が震えたと仰ってます。(今は老化現象で何時でも震えるらしい)

 NHKが特集を組んで、右脳だけが働いていることを証明する頭に無数の電極をつけた実験は、実際に右脳の脳波だけがうごめいている動画画面が現れ、衝撃だった。

 

 右脳を使う例は、算盤を頭の中にイメージしてどんな計算でも暗算で瞬時に答えを出すのと一緒で、左脳を使うより劇的に素早く処理ができる、速読もそうです。

 

 スーパーコンピュータの如く右脳をフル回転させた悟りに至る七日間の坐禅思考など、私にしかできないのだ。

 形だけの坐禅の真似などせず、私が説く悟りの真理を会得すれば、坐禅がなくとも悟りを得た仏となれるのだ……お釈迦様はそうおっしゃっています。

霊鷲山での説法

◎お釈迦様の中道は坐禅なのか?

                                              R2/12/15              

 

 苦行を断念されたお釈迦様が、中道として示されたのが唯一坐禅である、と早合点してはなりません。

 

 坐禅は悟りを得るためのお釈迦様だけの手段であり行なのです。

 だから真理を悟った途端に、手段である坐禅を捨てられました。

  自分が人類を代表して悟り、その真理を得たのだから、私がこれからその真理を説いていくという決意をされました。

 

 そしてこの素晴らしい真理を最初に説くべきなのは誰かと考えられた時、共に苦行に励んだ5人の比丘でした。

 

 お釈迦様が初めて法を説かれたので初転法輪と呼ばれています。

(決して5人の比丘に坐禅をさせられたのではありません)

 

 お釈迦様の有名な言葉です……コンダンニャが悟った、コンダンニャが悟ったと喜ばれました……そして次々と5人全員が説法により悟ったのです。(つまりは、人を悟りに導くのは坐禅ではなく説法なのでした)

 

 お釈迦様がもし「私が坐禅により悟りを得たように、坐禅こそが悟りを得る最上の修行法である」と思われていたならば、5人の比丘に対しても坐禅をお使いになったはずですが、実際は坐禅ではなくて、説法によって悟りを得させられたのです。

 

 では現在の禅宗はお釈迦様の意とは違うまがい物でしょうか。

 私はそうは思いません、お釈迦様の坐禅そのものとは本質的には違うけれども、一つの宗教として進歩していっていると思っています。

 それはそれで立派な仏教なのです。

初転法輪

                                                            R2/12/14                        
 
 お釈迦様は5人の比丘とともに苦行をされました。
 
 死ぬすれすれのところまで自分の身体を痛める修行をされたのですが、このまま度を超してそれ以上の苦行に至れば死しか待っていないと気づかれ、苦行を断念され、5人の比丘たちの罵倒を背に受けながら、菩提樹下の瞑想坐禅へと移られるのです。
 
 苦行を否定されたのではありますが、修行そのものを否定されたのではない事を誤解してはなりません。
 私たちは同時に適切な修行の重要性も認識しなければなりません。
 
 何故かと言えば、苦行をされたからこそ悟りへの道程を得ることができたのであって、もし苦行なしで、いきなり7日間の坐禅だけでお悟りを得ることは、たとえお釈迦様であってもそれは不可能であったろうと思います。
 
 私たちは、お釈迦様が否定されているからといって、苦行は不要なものと思いがちですがそれは間違いです。
 
 極端な苦行は否定されるべきですが、最小限の修行は必要不可欠だと認識すべきです。
 それを中道という行じ方で示されました。
 
 苦行過ぎず、欲望のままでなく、仏教者たるべき生き方、行じ方を示されたのが中道の生き方なのです。

お悟り

◎管総理やっと重い腰を上げた、でも生ぬるい

                                                           R2/12/13

 

 ニコ動画の「ガースー」の受け狙いの無能さと、危機感の無さをネットでも馬鹿にする人が殆どです。

 お気楽な我が国のリーダーに対し、支持率が急降下。

 コロナ危機で第3波の全国の感染者増大が顕著なのに、政府はまだ第3波であることも認めていないし、早々と国会を閉じてしまう無策・無能ぶりを露呈、内閣支持率の不支持が支持を逆転してやっと重い腰を上げるようです。

 東京と名古屋のGO TO を一時停止だそうです。

 

 でも何となく中途半端なんですよね。

 締め付けられつづけた国民が少々のことでは言うことを聞かなくなっている。

 

 年末だから本来は忘年会シーズンであり、クリスマスであり、年末年始という気ぜわしい時期に、一般の人々は政府の言うとおりに抑制しようなどという気持ちはないように感じます。

 

 東京の様子をデレビで拝見すると、どこもすごい人出で混雑しています。

 これなら感染拡大も納得できます。

 

 勝負の3週間で感染者増の記録更新が延々と続いています、勝負どころか大敗ですから話になりません。

 東京・大阪・北海道・名古屋だけでなく神奈川・千葉・埼玉・兵庫もすごいことになっています。(東京621人、全国3,000人を突破)

  

 後手後手の生ぬるい施策で果たしてどんな効果が出るのでしょうか。

 危うさに2日連続でコロナについて書いてしまいました。

あんなに支持率あったのに

◎菅総理:GO TO の一時停止は考えていない

                                                                R2/12/12                                                       

 東京都のコロナ感染者が595人、東京が感染者拡大を毎日のように更新している中でも、GO TO の感染エビデンスがないからと、一時停止を考えていないそうだ。

 GO TOの因果関係エビデンスがないというのなら、GO TOの因果関係がないというエビデンスも示すべきですよね。

 

 総理が他人事の如くおっしゃるのです、もうこうなれば、東京の人はかわいそうですが、各個人個人で注意喚起を高めるしかなさそうです。

 

 マスクをしていてもマスクの隙間から入り込む、感染力の強いウィルスに対して、飲食時にはどうしても外す瞬間があります。

 外す瞬間の時間を少なくせよとの指示も出てはいるが、キチッと守っている人がどれほどいることだろう。

 何処で感染したか不明という方は、おそらく外食の際のマスクを外した瞬間の感染確立も高そうです。

 

 確かに、緊急事態宣言を出してしまえば感染者が減るのは解っているけれども、忘新年回の収入をあてにしている飲食観光業者にしてみれば死活問題となることもよく解ります。

 人の移動によって感染が増えるという、かくも解りやすい論理を無視して、「経済が駄目になればその地域も駄目になるのだから経済に重きを置く」という総理の見解を読み取れば、少々感染者が増えようとも、緊急事態宣言はおろかGO TOの一時停止など出しませんよと言うことです。

 

 佐賀県の親戚からも、こんな田舎でも周りに結構感染者が増えて来て怖い、と電話がありました。

 

「正月休みが明けたら大変なことになった」などということにならなければよいが。

ヨシ!感染者より経済だ!

 

◎親鸞上人の謙虚さに惹かれます

                                                      R2/12/11

 

 親鸞上人は、法然上人の教えが正しいことの根拠を、中国の善導、釈尊、阿弥陀仏へと遡り、その上で法然上人の言葉が偽りでないなら、自分の言うことも間違ってはいないと主張されるのです。

 その上で、自分の教えは正しいのだから、それを信じるべきだと押しつけないのが、親鸞上人のやはり潔さである。

    と島田裕己氏は著書に書いておられる。

 

 自分で愚禿親鸞とおっしゃるようにどこまでも謙虚であります。

 

 それに引き換え、どうしても比較対象として出てくるのは強烈な日蓮上人であります。

 

 幼少12歳頃、「日本第一の知者とならしめたまえ」と清澄寺の虚空蔵菩薩に祈られたのであります、得度・出家する前のお話です。

 この日本で一番トップの宗教者になりたいということなのでしょう 。

 

 幼少からのすごい野望であり、自信ですね、自己主張の塊のような方です。

 命を落とすことなど当たり前に前に進んでいく、この力強さに惹かれる方も多いのだろうと思いますが、私は親鸞様を知ってしまうと逆にその謙虚さに惹かれていきます。

 

 それと基本的に仏教者は、どのお経もお釈迦様の大切な教えと思っています。

 お経を選り分けて一番を求め、法華経のみが一番優れていて「法華経だけで良い」と言い切り、その思いを持つだけなら良かったのに、その他のお経を信じる仏教者を批判・攻撃・排除していく姿勢になると、私などはドン引きしてしまいます、そりゃいくら何でも行き過ぎです。

 

 そこには宗教者としての寛容性・協調性など見当たりません。

 その圧倒的な強さに惹かれる方と、引かれる方に分かれるのだろうと思います。

 

 私は親鸞様の謙虚さの方が好きです。

鎌倉仏教の祖師方

                                                    R2/12/10
 
 三代くらい前の宗務所長老師が、御詠歌の研修会での法話で語られた。
 ご老師もバス旅行でガイドさんから聞いたとのことであった。
 
  竹下 登元首相が総理大臣になられた翌日の朝食に居合わせたアナウンサーが、「竹下総理、総理になられて初めての朝食はいかがですか?」と問いかけた。
 
 すると竹下総理は、出雲の訛りで、「そげんみゃーわね」とこたえられたが、東京育ちのそのアナウンサーは何のことやら理解できなかった。
 
 研修会の会場は爆笑に包まれました。
  所長老師は、小さい頃から身についた訛りなどは簡単になくせるものではないと締めくくられた。
 
 地方から都会に出て行く人の中には、どこの出身か見分けがつかないほどきれいな標準語を話す方もいれば、何十年いても訛りがとれない方もいます。
 
 訛りの強い方に出会うと、その地方の出身者はうれしくなってしまいます。

竹下元総理

◎出雲弁の訛り(なまり)は味わい深い

                                                          R2/12/9                              

 知り合いの寺族さん(お寺の奥さん)が笑わせてくれた。

 その方は京都から島根に嫁に来られた方で、出雲弁に慣れるまでは大変だったとのこと。

 

 ある日姑さんに言われた、「そら、ふーかー」と言われて何の事か見当が付かなくて「今お母さんが話された言葉は解りかねますので、もう一度お願いします。」と尋ねた。

 「そげんふーかーだわね、ふーかー。」

    ますます解らないので、

 「それはどういう意味ですの」と再び問うた。

 「そげんふーかーはふーかーだわね」

 よくよく尋ねれば、「昼から」ということだったので大爆笑をしたとのこと。

 これはどちらかと言えば訛りの問題でしょうね。

 

 確かに出雲弁だって知らない方には、何の事やらという表現は山ほどあります。

 「ほんなーちょっこーえんでくーけんまっちょってごしなはいよー」これだって他県の方には、はて何のことやらですよね。

 

 「ばんじまして、こーかーくらんなーとお寺はじじらにきょーとてえけませんわ」

   今晩は、これから暗くなると、お寺はずーっと怖くていけませんわ。

 そりゃ、昔からなじんでいる我々は、当たり前の言葉と思っているのですが、よその方には通訳が要ります。

方言・訛りは面白い

◎突然、親鸞様に戻ってみる

                                     R2/12/8        

 

 エ~~ッ!! そうなんですか。

 親鸞様の主著は「教行信証」なのですが、これは著作と呼ぶにはそぐわない内容なのです。

 「教行信証」は膨大な量なのですが、その中身は殆どが経典からそのまま引用した経文で成り立っているのです。

 膨大な量のお経の引用文の後にほんの少しだけ親鸞様のコメント文が載っている、「そりゃ親鸞様、現代で言えば「コピペ」で、インチキに近いのでは」と誰もが思うほどなのです。

 

 だから真宗の僧侶でも信者でも、最後までまともに読んだ方は殆どいないであろうと評されるくらいなのです。

 

 これは曹洞宗の道元禅師著「正法眼蔵」にも似ています。

 「正法眼蔵」は九十五巻もあり難解な文で綴られています。

 全て道元様が自分の文章で書かれたものです。

 親鸞様のように経典丸写しのようなトリック?ではありません。

 なのですが、やはり最後までキッチリ内容まで読破した僧も信者もいないということは同じでございます。

 

 「眼蔵家」と呼ばれる大学の教授か研究者が、眼蔵の一巻~三巻くらいまでを一日中、或いは三日間とか、時間をかけて解説講義する「眼蔵会」という勉強会がある。

 

 つまり「正法眼蔵」は道元禅師独特の意味を持つ言い回しや言葉の羅列があり、とてもスラスラ読破などできない宗教哲学書なのです。

 

 だから「眼蔵家」と呼ばれる方以外の宗門の僧侶で、全巻読破したという方は、私も含めてほとんどいないのです。

 とはいえ、殆どが経典の借り物である親鸞様よりは、正式な著作と言えるのではないかと思います。

 

曹洞宗両祖

◎仏教と神道と怨霊の深い関係

                               R2/12/7

 

 現代にあっても自然の猛威は、どんなに武力を強大にしても、国が富んでいても、人間の力では如何ともしがたいものでございます。

 

 歴史を紐解くと、国を治める天皇や武家は地震・洪水・津波・台風のほかに疫病などが流行り、その原因が、怨霊であると恐れた。

 日本の歴史は、人殺しの歴史でもあります。

 

 人を殺して良い気分になる者はいないはずでありますから、大量他殺の犠牲によって我が身が存在することを自覚いたします。

 そこへ、天変地異や疫病で世情不安に陥れば怨霊のせいだと認識し、鎮魂の儀式や、怨霊を鎮める祈祷などが盛んに行われ、仏教の力を得て、自らも出家する事で怨霊恐怖を逃れようといたしました。

 

 日本で最初に怨霊となったのは天智天皇の孫で左大臣であった長屋王であります。

 729年、国家転覆の疑いをかけられた長屋王は自害しました。

 

 しかし、その後、長屋王を陥れたとされる藤原四兄弟が相次いで死に、さらに疫病が流行ったため、祟りを恐れた聖武天皇が仏教を頼った。聖武天皇は、天皇在位中に出家した初めての天皇でもあります。

 

 怨霊でもっとも有名な人物は、菅原道真です。

 政治の中枢で力量を発揮していた道真を、藤原時平らが妬み、陰謀を企て、醍醐天皇が九州の太宰府へ左遷させ、道真はそこで亡くなります。

 

 道真没後、時平等、道真の左遷に拘わった人物が、次々と悲劇的な最後を遂げます。

 道真の怨霊の祟りだと人々が恐れ、とうとう道真は学問の神様となりますが、元々は学問の能力を駆使したその政治力が妬まれたことから始まっているのですから、受験生だけでなく政治家も菅原天満宮にお詣りすべきだと思いますけどね。(特に管総理などは直ぐにお詣りした方が良い)

 

怨霊の力思い知ったか!

◎神道の不思議

                                       R2/12/6

 仏教が日本に入ったのは538年と言われています。

 それまでは神道だったのです。

 神道は天の神、山の神、海の神、石の神、地の神等何にでも神が宿っていました。

 しかし、宗祖となる特別な神というものは見当たりませんでしたから割と柔軟な宗教だったのです。

 現在のように天照大神のような神が現れるのは、日本書紀や古事記です。

 それが書かれたのは、八世紀の初め頃です。

 それまでは、種々雑多な神がいた多神教ということです。

 

 だから神道があるからよそ者の仏教など要らぬと主張した物部氏が破れ、仏教という新しい宗教が入って来たときも、同じ多神教ですから割とすんなり受け入れることができたのです。

 

 もしその時までに、日本に一神教がはびこっていたら、蘇我氏といえども仏教を容認することはなかったのではないでしょうか。

 

 同じ親戚・多神教だからこそ神仏習合という現象もすんなりと受け入れられたのです。

神様ってこんな感じ?

◎ファイザーのワクチンに問題が発生

                                                R2/12/5                                

 

  頼みの綱であるファイザーのワクチンが、初期の原料を満たすことができなかったとして、今年の生産量予定を半分に下げたとファイザーが発表。

 

 ワクチン開発にはよくある出来事というのだけれども、これで治験が遅れ、世界に出荷できる時期もかなりおくれるということですね。

 

 先発で到着している英国などはどうなるんだろうか。

 また日本ではオリンピックが開催できるかどうかの瀬戸際で、果たしてワクチンが開催に間に合うのかが懸念される。

 

 それも日本だけが間に合っても駄目です、世界中にワクチンが供給されなければ海外の選手やお客も呼べる話にはならないのです。

 

 早く完成したことは歓迎すべきではありますが、やはり信頼性という問題は早いだけに疑問符が付きます。

 

 ファイザー社にしても、90%以上を謳っているのだけれども、原料に問題が発覚するようであれば、それはすでに90%以下という証明をしているようなものです。

 

 大丈夫かいな。

ワクチンを!

◎娑婆世界にあってこその僧

                                     R2/12/4

 

 修行中でした。

 曹洞宗の団体参拝(簡略して団参)で、大阪・京都界隈では、やはり興聖寺ということになるのでしょうか。

 

 実は興聖寺は、道元禅師様が中国での御修行を終えて日本に帰られてから初の禅修行道場なのです。

 

 永平寺に移られる前の10年間はこの興聖寺が本山でした。

 だから、興聖寺の歴代住職の中には、興聖寺こそが本山であると主張した方もいるほどです。

 

 由緒がありますから、団参も多かったのです。

 その中のある団参で参られた住職から質問を受けた。

 「どうですか、修行生活は?」

 「はい、朝は早いし、作務の場所は広いし、食事は粗末ですし、睡眠時間は短いし、やはり修行は中々大変だと思っています」と答えた。

 

 するとその老師が「修行期間は大変なように思えるけれども、それは単に決められたことをこなせば良いだけなので大したことではありません。 むしろ、修行を終えて自分のお寺に帰ってからが大変なのです。自分のお寺のお檀家様や世間の人たちの中にはいろんな方がいて、その対応をしなければなりませんよ。 毎日決まっていることをこなすなど大変のウチには入りません。本当の大変は修行が終わってからですよ。」

 

 正しくそのご老師がおっしゃる通りでした。

修行

◎三宝に帰依するは正しいのだろうか?

                 R2/12/3

 

 仏法僧の三宝に帰依せよと経典にはあるのだが、仏と法は絶対であるからよく解ります。 しかし最後の僧は、果たして妥当なのかは疑わしい。

 

 お釈迦様時代の僧は、お釈迦様の教えに従って戒律を守って修行しているから僧として尊敬されるべきでありましょう。

 

 問題は現代の僧なのです。

 明治政府の「肉食・妻帯勝手たるべし」の発布により、寺院の生態は激変する。

 信仰の力、宗教の力を恐れた政府が、実際に女性をかくまって生活をしていたり、こっそり肉食をしている寺院の実態を見て判断をしたのかもしれないが、ともかく寺院の寺院たるべき生態は変わっていったと思う。

 

 実際に日本で信仰者が一番多い浄土真宗などでは、親鸞様から今日まで妻帯が当然と考える宗派も実在していたから、明治政府も「宗教の力を弱めて堕落させれば、政府にとって都合がよくなる」と判断したのでしょう。

 

 この時点では、仏教各宗派も全て浄土真宗化したと言えるかもしれない。

  (僧形だけ保ちたいと剃髪する宗派もあります)

 各宗派はそれぞれ本山を持ち、厳しい修行道場を抱えているが、本当に修行をしたいと懇願して入る修行僧は希であります。

 

 大概はお寺の息子だから仕方なく修行せざるを得ない者や、結婚した相手が寺の娘であったので仕方なく修行道場に行った者とか、お寺を存続せんが為の短期修行なのです。

 

 勿論、生涯を修行道場で過ごす方もいるのですが、数年経つと新しい雲水が作務(掃除)や力仕事を全てやり、先輩方の行者(あんじゃ…身の回りの世話をする係)が付くので、本当の修行になっているかどうか疑わしいところです。

 

 つまりは、僧侶は「仏法僧の三宝の一つだから敬え」などという思いはもってはならぬと思います、本質は堕落僧(ダラクソ)に間違いないと自覚するべきだと思います。

 その自覚から本当の修行が始まるような気がいたします。

      (反論もあろうかとおもいますので、中には尊敬されるに足る方もおられます)と付け足しましょう。

修行

◎父が何故驚異的な快復ができたのか?

                                                                   R2/12/2

 

 鼻緒が切れたことを鑑寺老師(雲水の直接指導者)に伝えると、「それは心配でしょう。それでは一緒に拝みましょう」と天竺殿にある手習い観音像にて祈祷していただいた。

 有り難く骨身に染みた。

 

  すぐに弟からの電話、現在の状況を尋ねた。

 

  「今のところ大丈夫だ、しかし近くの病院では、手術ができないので米子の大きな病院へ移動して手術をすることになる。」

 堂長老師の許可が下り、私は暫暇(ざんか……しばしの休暇)を頂いて実家に帰ることになった。

 

 直接米子の病院に駆けつけるとこれから手術が始まるところであった。

 長時間の手術が終わり、主治医の手術成功の報告を受けた。

 次の日からの看病が大変でした。

 

 やはり頭の病はすごかった、父は尋常ではない目をして、頭に数本付いている管をはずそうとするのです。

 鼻から脳内の髄液が流れるようになり、これが止まらなければ大手術になると脅された。

 90キロ近い巨体で暴れるので始末がつかなくなり、とうとう父はベッドに縛り付けられてしまった。

 

 間もなく髄液も止まり、食欲があったことも幸いし、数ヶ月も前から入院している方を尻目に、1ヶ月で退院してしまった。

 

 父の強さもあるが、鑑寺老師の祈祷の力と母の祈りの力だったと確信しています。

 

 私は晴れて修行道場に戻ることになり、堂長老師や祈祷読経をしていただいた鑑寺老師に快復の御礼を言うことができました。

大変な手術だった

 

◎修行時代が懐かしい

                                      R2/12/1

 

 「お前みたいな中途半端で歳食ってる人間は、永平寺では勤まらないから地方僧堂へ行け」、35歳でやっと僧になる決心をした私に放った実家のお寺の住職である父の言葉だった。

 何のことやら右も左もさっぱり理解不能でしたので、全てお任せでした。

 

 修行に入る前の三ヶ月間で曹洞宗で読経するお経の殆どを暗記してしまった。

  これが修行中に非常に役立った。

 

 先輩が中々覚えきれないお経を、私は経典なしでスラスラ読経ができた。

 

 やっと修行生活になれた頃、副住職である弟から夜電話がかかってきた。

 「大変だ、父親が倒れた。 くも膜下出血で危ない状態だ。母親が不眠で看病しているが、今度は母親が倒れそうなので、堂長老師にお願いをしてみるので看病に帰ってくれないか。」

 突然の実家の急展開に戸惑いながら、まんじりともできない夜を過ごした。

 翌朝、作務(掃除)に出かけようとした時、うわ草履の緒が切れた。

                            ……続く

緒が切れた

◎医療現場はひっ迫だが政府は変わらず経済だ

                                                                                  R2/11/30

 

 西村さんの話を聞いていると、全然まだ大丈夫という余裕をかんじるのですが、実態は医療現場が本当にひっ迫した大変な状態になっています。

 

 ギリギリの線までは経済を優先せざるを得ない立場も解らないではありません。

 しかし、テレビでは医療の現場をたまにチラッと拝見できるのですが、実際の現場は、いつ自分が感染するか解らない状況での医療なので緊張が半端ではないでしょう。

 

 医療現場が本当はどういう状態であるのか、西村大臣が自ら視察してみれば一番良く解るのではないかと思います。(小池都知事は、昨日重病患者の病院を4件視察した)

 

 自らを絶対安心の場所に置いて、あたかも現場のことを解っているような発言をすると言うのが西村さんです。(第17話:西村さ~ん、それってOUTで、韓国なら殺人罪で無期懲役ですよ~ をご覧下さい)

 

 コロナをなめてはいけませんとテレビで言っておりますが、経済を後ろ盾にしておれば多少のことは許されると思っておられる姿勢が見え隠れしています。

 

 感染力の強まったコロナの勢いが全国で止まりません。

 しぶしぶ緊急事態宣言がでるのは時間の問題でしょう。

都知事&大臣

◎上り切った頂上は果たして悟りなのか

                                                 R2/11/29

 

 よくたとえに使われるのは、仏教ではどの入り口から山を登っても、登り切った頂上は一緒になるというお話。

 

 私はこれはまやかしだと思う。

 ルートは全てが同一ではないのだから険しいルートもあれば、途中から一旦下り道が続き、また上り始めることを繰り返すルートだってあります。

 

 では頂上はどうであろうか。

 頂上も一方面から見れば切り立ったてっぺんがあるように見えても、実際には台形をしていたり、頂上へ到着しても周囲は道幅狭くて突風が吹けば滑り落ちて命をなくす危険だってあります。(大山の頂上なんて道幅狭く相当危険です)

 頂上へ着いたからといって安心などできないのです、油断して足を踏み外せば真っ逆さまに転落です。

 

 これは最近の横綱も同じ事が言えます。

 横綱は安泰だと思っていたら、3場所も休めば審議委員会から引退勧告をされてしまいます。

 

 曹洞宗では、悟後の修行が大事であると言われます。

 頂上に到着すれば最後ではなくて、どうやって下りていくか、その下り方が大切です。

 

 下りきって始めて登山のその一つのルート全体を把握できます。

 そして全てのルートを登り、全てのルートを下りきって始めてその山を知り得た(悟り)となるのではないだろうか。

いろんなルートがある

◎仏教はインドで何故生まれ、何故衰退したか

                    R2/11/28

 

 

 2,500年前のインドで、何故仏教が生まれたか。

 

 それはお釈迦様が物心ついた頃、当時のインド社会は、完璧な差別社会でありました。

 生まれながらに上下の差があったのです。

 

 バラモン教で作られ、後にヒンズー教に引き継がれたカースト制度が絶対的な威力を誇っていました。

 バラモン(司祭階級)、クシャトリア(王侯・武士階級)、バイシャ(庶民階級)、シュードラ(隷属民)の4段階です。

 しかし、シュードラの下には、カーストにも組み込まれないアウトカースト(不可触民)が存在します。

 

 お釈迦様はその厳しいカースト制度の社会に、王侯階級でお生まれになりました。

 そこで、何故自分は特別恵まれているのかということを疑問視され続けておられたのだろうと思います。

 

 人間は生まれながらにして平等であると説かれたお釈迦様の命題は、このカースト制度を崩壊、つぶすことでございました。

 

 お釈迦様没後、100年後に栄えて仏教を護ったアショーカ王の時代までは何とか保持できていたようです。

 

 その後各地の土地信仰と結びついたヒンズー教が勢力を拡大し、またイスラム教の勢力が強まり、イスラム派の仏教寺院への襲撃・破壊もあったりして、仏教は衰退してしまったのです。

 

 しかし、私は人間の心の奥底に潜む、理屈では容易に消せぬ、カースト制度(ヒンズー教の)により衰退したと思っています。

現在のインド等、宗教分布

◎一県を除き、全国で感染者多発

                                           R2/11/27                                  

 

 11月25日は全国感染者マップが殆ど黄色い色がついた。

 白色は高知県一県だけだった。

 いつもは島根・鳥取はゼロで白色なのだが両県とも感染者発生、岩手も 7人の感染となった。

 

 東京は401人、大阪318人、神奈川は161人、北海道181人、愛知177人、兵庫101人、京都31人、千葉73人、埼玉99人と相変わらず関東・関西・北海道がすごい数に上っています。

 やっと政府も分科会尾身会長の緊迫感の迫った会見に押されてGO TO の見直しを諮り始めた、確かに今止めなければアメリカやブラジル並みの感染拡大に繋がりかねないところでした。

 

 ここで26日の感染者発表、相変わらず高い感染者数で、東京481人で重症者が60人に跳ね上がった。

  全国でも2,504人の感染となり、死亡者も29人となった。

 

 気の毒なのは、せっかくお客が戻りつつあったのにと嘆く、再び時短を余儀なくされた夜の飲食街です。

 

 コロナを軽視しすぎてGO TOに走った結果が、ブーメランのように帰ってきただけのようにも思います。

 

 年末・年始を控えて正月を実家で過ごそうと思い描いている方は、残念ながら諦めた方が良いと思います。

 

 フランスでは(マイナス80度)を保つコンテナができたそうだ。

 早くワクチンが欲しい!

早くワクチンを!

 

◎修羅道に思う

               R2/11/26

 

  人間が死ぬと六道に生まれ変わるという輪廻転生があります。

 天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六世界のことをいいます。

 

 修羅道がありますが、天や人間のように善道と分類されることもあれば、畜生・餓鬼・地獄とともに悪道に分類されることもあります。

 あまり注目されない道ですが、ここに落ちる方も案外多いのです。

 

 但し六道は人間の心の状態を表しているとの説もあります。

 

 修羅道とは争いの絶えない世界であります。

 昔から正義の捉え方はとても難しいのです。

 世の中には、これが正義であると一方的に思い込んでいる人が何と多いことか。

 勝手な正義の思い込みを押しつけたりするとそこに争いが生じます。

 

 正義は「その人の経験的・論理的・時代的・道義的判断によって違ってくる」という曖昧な側面を持っています。

 例えば、戦争中は人を殺すのが正義でした。

 本当はいろいろな方の考え方や意見を聞き、「自分はこれが正義だと思っているが、あなたはどう思うか」との意見交換を経てから自分なりの正義を決定する、その後でもっと素晴らしい意見に逢えばそれを正義とする、それこそ道元様のおっしゃる「柔軟心」ではないかと思います。

 正義を振りかざす方は、自分の狭義的・独善的・一方的思い込みである可能性が高いということをよくよく自覚すべきだろうと思います。

 

 狭義で勝手な正義を振りかざす人は修羅道に落ちる可能性が高くなるのではないでしょうか。

 例えば最近のコロナ禍では、マスク警察とか、食を扱う店舗に対して自分は姿をみせない自粛警察と呼ばれる方が存在したり、他県ナンバーに石を投げたり、あるいは感染者に対する過剰な差別行為や攻撃をする方がおられます。

 完全に勝手な正義による行き過ぎた行為です。 

 私はスーパーとか人が密集する場に出かけるとき、よく車にマスクを置いたままで忘れることがありますが、時々犯人を見るような険しい視線を感じる事があります。

 また、スーパーでマスクをつけていない人を見かけることもありますが、「私と同じく、車に置き忘れたのでしょう」と私は思いやることができます。

 

 誰が感染してもおかしくない現状で、感染者を攻撃することはやめましょう、明日は我が身、自分も攻撃を受ける可能性も高いことを自覚すべきです。

マスク警察

◎やめとけば良いのに他県でも話してしまった

                                                                            R2/11/25

 

 他県の東部寺族会に呼ばれてやはりそのお話をしました。

 

そして当然の如く、後の懇親会の席で、「今更そんなことはできない」との意見が圧倒的でした。

 

 そんなことは百も承知の上でお話をしたのです。

 何十年も「方丈さん」と呼んで来たのに今更様付けで呼ぶ事なんてできないと言うのです。

 そりゃそうでしょうね、今までとは全く違うことをするのは至難の業です。

 「お寺の奥さん、ちょっとおかしくなられたんかいね」」と思われそう、と仰いました。

 

  いいではないですか、そんなこと思うのは最初だけです、すぐなれます。

 今日からそう呼ぶことにしたんです、でおしまいです。

 

 何せ無料でお寺をレベルアップしようというのですから、よく考えれば安上がりで簡単な方法なのです。

 

 ただ、人間には意地というものがありますし、ウチの方丈さんを見ていると、とても様付けで呼ぶのには抵抗がある、……よく解りますけどね。

確かに容易だけど難度は高いのです。

 

 最後の一人の若い奥様の感想意見に救われました。

 「仰ったご意見はとても解りやすかったです。 私は勇気を持って今日から方丈様と呼びたいと思います。」

冷や汗の講演でした

◎無料(ただ)でお寺をよくする方法

                                               R2/11/24

 

    宗務所の役職:教化主事時代に、お寺の奥様方の会:寺族会が機関誌を発行していた。

 その機関誌に、教化主事として文章を載せてくれ、との依頼があり、このタイトルでのコーナーを受け持った。

 

 そして「住職に対する呼び方を変えるだけで、お寺は劇的に変わる」という文章を載せた。

 その内容は、お寺の住職に対して妻がどう呼ぶべきを問う内容でありました。

 

 一番多いのは「方丈さん」でありますし、電話の受け答えなら、「今方丈と変わります」

というのが標準的な呼び方でありましょう。

 

 それは一般在家の方と同じ呼び方なので、その呼び方を仏教的に少し変えるならば、お寺の雰囲気を少しでもレバルアップできるのではないでしょうか、というのが私の主張でありました。

 

 現在、寺院住職も確かに在家の方と同じ生活をしています。

 肉食妻帯も当たり前のようにしておりますが、境内に一歩足を踏み入れれば、本来は仏法の聖域なのです。

 

 寺院に居住する者はそういう認識を持つべきなのです。

 どんなにやんちゃな住職でも、お師匠様から戒を受け、修行道場で修行を終えて一山の住職という立場に立てば、それは一般の方とは違うのです。

 

 聖域に住む居住者は、在家の常識にとらわれるべきではありません。

 方丈さんという呼び方を「方丈様」と呼ぶべきだと主張しました。

    私の妻は「方丈さん」とも言わず、私の名前である裕光にさんをつけ「裕光さん」としか言ってくれませんでした。

 

 あるお寺で「方丈様」と呼んでいらっしゃるのを聞いて、何という素晴らしい響きなんだろうと驚いたことを覚えています。

 

 呼び方を変えるだけで、そのお寺が数段レベルアップすると思います、という内容の文を載せました。

 

 想定内でありましたが、真っ先に反発して文句を言ってきたのが、妻でありました。

 「こんな文章書かないでよ、私が方丈様と呼んでいると思われてしまいますがね」

 でありました、ギャフン!

 

 思っていること、願っていることと現実とは相当の乖離があると自覚した次第でありました。

呼び方で寺院が変わる?

◎勝五郎君が現代にもいた

                                 R2/11/23

 

 最近で一番の驚きでした。 

 やはり現代にも勝五郎君と同じ事を話し出した少年がいたのです。

 しかも日本なのです。(勝五郎君のお話は★ホットダイアリー総タイトル一覧の中の

10話目、《★果たして『あの世』はあるのか?あの世のことは勝五郎に聞け》)をご覧ください。)

 

 11月20日(金)19:00 爆報!「THE フライデー」を何気なく録画していた。

 

 その録画を昨日(日曜日)に何気なく見ました、金曜日に直接ご覧になった方も多いのではないかと思います。

 

 光二君という現在は8歳の少年とその母親知恵さんのお話です。

 急に光二君が、前世で自分が交通事故で亡くなったことを、5年前の3歳の時から語り始めたのです。

 そして前世のお母さんについてもです。(今のお母さんよりも前世のお母さんの方が声が可愛いと話した)

 

 光二君は前世で、交差点でのバイク事故(バイクが自分にぶつかってきた)で救急車で病院に運ばれ、手術の途中で自分は死んだんだとお母さんに告げました。

 

 お母さんは子供の言うことだからと放っておいたのですが、乳がんとなり、自分に死の影がちらつくようになってから、前のお母さんに逢いたいという光二君の願いを叶えたくなり、こういう交差点での事故を知りませんかとツイッターに書き込んだところ、沢山の情報(200件位)が舞い込んだ。

 その中で一番可能性が高い情報を目当てに、息子の前世の母親探しに出かけられました。

 

 そして情報提供者に逢い、一番確率の高い情報の交差点に到着すると、息子が書いた地図にピッタリでここに間違いないと確信されます。

 

 そして、教えられた通りに光二君の前世の家に入りお父さんと逢い、話をするも「そっとしておいてほしい」断られるところで動画は終わった。

 

 世界の情報では前世を語る子供の話は、2,500件もあるそうだ。

 現代の日本にもあることが解って良かったと思います。

前世を語る子供達
 

◎NHK特集「三島由紀夫没後50年」を見て

                                                                     R2/11/22

 

 久々に三島由紀夫の名前を思い出した。

 全ての作品を読んだ訳でもないのですが、昭和の匂いを感じる上品な文体には引き込まれていく力強さがあります。

 

 自らの幼少の肉体的劣等感から、強靱な肉体を作りあげる、その一途さ、純粋さ、そして余りにも謎めいた割腹自殺。

 

 彼の発した言葉に反感を覚えたことがあります。

 それは、テレビなどではその言葉が全然出てこないのだけど、「私はスキのある人間は嫌いだ」と彼は言いました。

 この言葉に彼の人間性や、いつも自分に課題を課して安心感、平和感を与えない、いつも緊張した自分を保てるように自分で自分を追い込んでいく姿を捉えることができます。

 自分の言葉で自分を高めていき、自らが吐いた言葉に強い責任を持つと公言し、逃げ場を無くし、ついには割腹自殺という最も衝撃的で、最後まで強い自分を演出できる方法を取らざるを得なかったのです。

 天才であるが故の悲しい性(サガ)なのかもしれません。

 そして劣等感の反動が、自分がいつも主役でなければならないという脅迫観念をもたらします。

 そのスキのある人間は嫌いだという言葉に対し、私は「スキのない人間は嫌いだ」と逆に思います。

 

 スキがない人間は、おそらく相手に対して、或いは弱者に対しての思いやりに欠けるような気がいたします。

 そんな余計なことに思考を奪われてたまるか、として余裕など感じることはできないでしょう。

 

 大作家に対し、私ごときが論評するのは恐縮ですが、あの自殺がなくてそのまま高齢となっていたら、彼はどんな柔らかい雅な文体で作品を作っていたのだろうかと想像すると、残念でたまりません。

三島由紀夫

◎コロナは天が与えた試練なのかもしれない

                                                        R2/11/21

 

 仏教の修行は六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。

 波羅蜜とはインドの古い言葉で、パーラム(向こう岸)とィター(至る)が結合した言葉でパーラミター(彼岸に至る……到彼岸)なのです。

 そのパーラミター が中国に渡った時に音写され、波羅蜜多(はらみった)となったのです。

 

 六波羅蜜とは彼岸の岸(仏の岸)に渡るための六つの修行法です。

 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を言います。

 その三番目が、忍辱行です。

 悲しいことや辛いことがあっても落ち込まず頑張り、むしろ落ち込んでいる人を勇気づけ、物事の本質を失わず、時には犠牲的精神を持って困難に耐えることです。

 

 まさに今コロナは、人類が忍辱行の為に修行の機会を与えられているのかもしれません。

 

  天は時々酷い試練を与えられます、大地震、大津波、巨大台風、洪水、落雷、たとえ宇宙科学開発が進もうとも、天(神仏)に逆らい、天変地異を克服することなど不可能だと思います。

 私も反省なのですが、愚痴や批判ばかり言い続けて時を過ごすのではなく、人類の奢(おご)りに対する試練であると、謙虚に受け取り、忍辱行と自覚することが肝要ではないでしょうか。

忍辱行ですぞ

                                                                  R2/11/20
 
 感染者:東京:534人、全国2,385人、死者21人。
 都知事が緊急会見しました。
 厳重警戒なれど営業時短もなし、GO TO 撤回もなし、ということは感染者が増えることは覚悟の上で、経済を重んじていくということなのです。
 
 どうも1,000人くらいまでは覚悟の上らしい。
 アメリカの14万人に比すれば1,000人などかわいいものだと言わんばかりです。
 世界の各社からワクチン完成の朗報が生まれつつあるのも後押ししているのでしょう。
 
 しかし、この第3波は感染力が強くなっているとの指摘があり、高齢者の感染率も高くなってきています。
 
 この状況で感染者や重症者が増えて一番困るのは、医療関係であろうと思います。
 重症者の入院ベッド数がひっ迫しているからです。
 
 今年は大雪と言われています。
 まもなく冬将軍も到来することでしょう。
 インフルと見分けがつかなくなり、医療現場も混乱が予想されます。
 
 だから、本当はこの時点で警戒を強め、GO TO など撤廃しておいた方が無難だと思うし、1,000人に達してからでは状況は遅すぎるのではないだろうか。
 
 経済最優先で、マスクを軽視した米国のようにはならないかもしれないが、それでも新型コロナが感染力を増しているいることを思えば1,000人などあっという間だと思っています。
 
 だから政府など信頼せずに、自分の行動を律することが最も大切になってきます。

コロナ感染力拡大

◎また問題作が出た……またも宗務庁はダンマリか

                                                       R2/11/19

        

 「葬式はいらない」の著者で、宗教学者の島田裕巳氏の最新作である。

本の名は「捨てられる宗教」……葬式なんてめんどくさい!です。

 

コロナで寺院がダメージを受けているのに、追い打ちをかけるかのごとき本なのです。

 九月発刊ですから、2ヶ月前の発刊ですか……私としたことがうっかりいたしました。

   宗教書のコーナーでなく、一般書の中に注目書として並べられていたものですから。

 

 「葬式はいらない」の衝撃までには及ばぬにしても、世間にかなりの影響を与えることと思います。

 「葬式はいらない」発刊後にはご本人はそこまではと思っていらっしゃらなかったと、週刊誌か何かで見かけたのですが、本人よりも、雑誌の編集者が、上手にタイトルをつけてしまったとのこと。

 タイトル一つで売れ行きは確かに全く違うのでありましょうからね。

 今日買った本には、確かになるほどと思える箇所もありますが、何故こういう本が書けるかというと、いかに宗教を研究されていても、島田氏本人には信仰が全くないからであります。

 

 それと、ご本人は東京在住でありますから、田舎の事情はそこまで詳しくご存じないという点もありますでしょうね。

 

 ただ、コロナ禍でも流行りとなってしまったのは、「家族葬」なんて当たり前で、「小さなお葬式」、「よりそうお葬式」などのキャッチフレーズが並んでいて、如何に葬儀を安くあげるか、その中で遺族が納得できるかを模索するという競争なのです。

 

 要は全くお金をかけずに究極の最低限の費用ですますのなら、直葬しかありません。

 そこには故人への感謝も、供養しようとするまごころも全く感じることができません。

 

 仏教界、そして宗務庁はまたもやダンマリでしょうか、ここで声を上げなければ仏教の自滅必至です。

 何の為に宗門の学者さん達、宗議さん方がいるんですか。

 難解な道元哲学だけを論じ合うのではなく、宗門を護る、仏教を護る為に智慧を使って頂きたい。

 傘下の末端寺院の為にも島田氏に対する強烈な仏教的反論・反撃を期待するのですが、やはり無理なのでしょうか。

成仏なし…味気ない直葬

 ◎「パンは好きです」と答えたばっかりに

                                                                         R2/11/18

 

 37歳で弘長寺に弟子・養子で入った次の日に、師匠が質問しました。

 「あんたはパンが好きか?」

 私は即座に「はい、好きです」と答えてしまったのが運の尽きでした。

 翌朝から法事のお供えで上がってくる大量のあんパンが私の朝食となりました。

(この地方はあんパンをお供えすることが一番のお供えだと思っておられる節があります)

 

 パンはトーストのことだと思い込んでいました、あんパンならあんパンと言って欲しかったのですが後の祭り、今更それは嫌いだとは言えない雰囲気でした。(菓子パンの中であんパンが一番苦手でした)

 

 お師匠様や他の家族がおいしそうに白いご飯を食べている中で、私だけが悲しそうにあんパンを食べている光景は、他の人が見れば、新しく来たお婿さんに対するいじめの光景にしか見えなかった事でしょう。

 

 お師匠様のおっしゃることがいいですよね。

 「お前な、あんパンばっかり食べていると糖尿病になるから、中のあんを取り除いて、バターをつけて食べなさい」

 余計なお世話だと思いましたが、その私が現在では糖尿病にかかっています。

 

  お師匠様は、遊び等何の趣味もない方でした、一途にボロボロだった境内を立派にすることだけに専念されたすごい方でした。

 厳しいお師匠様ということは勿論お檀家様もご存じでした、だってお檀家様にも平気で文句をおっしゃっていましたから。

 37歳にもなるいいおじさんが(私のことです)、お檀家様の前で平気で叱られました。

 お寺さん方が集まっている席でも、大声で怒鳴られました。

 

 でもそれが素晴らしい修行であったことが今頃よくわかるようになりました。

 

 血の繋がっていない、しかも厳しい師匠に仕えることができたのは最高の幸せでした。

あんパン以外は好きなのに

                                           R2/11/17
 
 お釈迦様は、苦行の行き着く先は死しかないと気づかれて苦行を捨て、七日間の坐禅で真理を悟られた後、この難解なれど素晴らしい悟りの真理内容を一番理解することができそうな人間は誰かと考えられたのです。
 
 それは最近まで自分と一緒に苦行をしていた5人の比丘(修行者)しかいないと気づかれました。
 
 だから200キロも離れた場所で未だに苦行に取り組んでいる5人の元に駆けつけて、最初の説法をされました。
 
 ここで大事なのは、説法によって真理を説かれたということです。
 これを仏教では初転法輪というのです。
 
 もしお釈迦様が坐禅こそ一番重要だと思われたなら、5人の比丘に坐禅をさせて悟りを開かせようとされたに違いありません。
 
 しかしそうではありませんでした、坐禅は単なる手段に過ぎないとして坐禅を重要視せず、論理的な説法によって5人全員を悟りに導かれたのです。
 
 お釈迦様は、自分が悟りに至る瞑想坐禅の中身は難解過ぎて、他の誰も理解して行ずる事などできない。
 私と同じ坐禅など不可能であるのだから、私が説く悟りの内容を理解してそれを実践すれば良いのだ。
  
 お釈迦様の説法を聞いた5人の比丘の内、最初に悟ったのはコンダンニャでした。
 
 お釈迦様は「コンダンニャが悟った、コンダンニャが悟った」とお歓びになりました。
 
 そして、お釈迦様の生涯は説法の旅でありました、息を引き取るまで各地を廻り、大衆(民衆)の真っ只中に我が身を置き、「友よ」「青年よ」と呼びかける説法の生涯でありました。
 
 遊行説法こそがお釈迦様の根本姿勢であり、心髄であることを、仏教者は肝に銘ずべきであろうと思います。

独自の坐禅により
悟りに至られたお釈迦様

◎今日はズームでの法要をいたしました

                                                       R2/11/16

 

 施食会以来、ズームを使うのは久しぶりです。

 

 今日の法要の主催者様(89歳)の娘さんが関東方面にいらっしゃって、ズームに詳しくていらっしゃるので、その方のご指導を仰ぎながらなんとかつなげる事ができました。

 

 その娘さんの操作のおかげで、一つの画面の中に主催者様のご兄弟、宮城県在住の高齢の方(80代)や、日本各地に住んでいらっしゃる80代の高齢者の方がズーム画面の中に5~6人それぞれ枠を作って、この法要に画面の中から喪服で参列されました。

 

 その高齢の方々のお顔を画面の中に拝顔しながら「何てすごい一族なんだ」と思いました。

 

 ご承知のように高齢の方にとって、ズーム操作はかなりハードルが高いのですが、画面の中にこれだけご高齢の方が揃うと壮観です。

 

 そこで、このホームページをご覧のお檀家の皆さまに申しあげます。

 パソコンやタブレットがなくてもスマホがあれば、遠方にお住まいのご親戚の方でも、あたかも弘長寺の本堂にいる思いで参列することができます。

 

 是非是非、住職にご相談あれ!

どんな機器でもつながります

◎大事なことを聞き忘れてしまいました

                                                                 R2/11/15

 

 鎌倉大本山建長寺様ご一行に、質問しなければならなかったことを後で思い出しました。

 

 それは、建長寺ご開山は中国人蘭渓道隆禅師なのですが、その前に道元禅師が鎌倉下向された際、時頼公より建長寺のご開山になる要請を受けられたこと、そしてそれを道元様が拒まれたことをご存じだろうかということです。

 

 それと、時頼公が、執権職を手に入れるために一族を皆殺しにしたのだが、その怨念から解放されるために出家されたと山折哲雄氏が述べておられますが、しかし例えば叔父の重時も出家していますので、時頼公の出家が慣習からなのか、怨念からなのかどちらとお思いかということです。

 

 何となく時頼公は強さと弱さが同居しておられたように見受けられが、真相はどうであろうかということです。                                                        

 

 時頼公の真相に対し、独特の見識を示されたという高橋慎一朗氏の著書を送ってくださるとの事で、楽しみにしています。

出家は強さか弱さか?

◎鎌倉・臨済宗:大本山建長寺様からのお客様が来山

 

  以前、建長寺専門調査員:鈴木 佐(たすく)先生が来山され、「出雲地方に建長寺関連の寺院が存在するとは思ってもいなかった」、と興奮冷めやらぬ口調でお話になりました。

 

 その機縁で、弘長寺護持会研修団は建長寺様への拜登を果たしました。

 鎌倉市内のガイドをしていただき、建長寺様拜登の特別配慮をしていただいたのが鈴木先生でございました。

 

 弘長寺開基、地頭:藤原満資公(成田光助)の主君は、鎌倉執権:北条時頼公でございますが、その菩提寺が大本山:建長寺様なのです。

 

 その鈴木先生が、建長寺関連のお寺様(法務部長補佐様等)や女性調査員の方を伴って本日13日弘長寺に来山拜登されました。

 

 法条時頼公側室・讃岐局が帰依された奥出雲町:横田八幡宮や時頼公が中興再建された、奥出雲町:湯野神社、安来:雲樹寺、松江月照寺等時頼公ゆかりの箇所を巡って、最後は弘長寺への拜登ということでございました。

 

 時頼公に関わる話題に花が咲き、楽しい一時を過ごしました。

建長寺参拝団(右端が鈴木先生)

◎第3波到来

                       R2/11/13

 

 東京は新規感染者393人、大阪231人など、大都市各地で過去最多の感染拡大を記録、全国で1600人を超えた。

 

 アメリカの1日14万人に比すれば、たったの1600人ではあるが、たったのという認識で、GO TO トラベルやGO TO イート、忘年会に新宴会とやりたい放題にやってしまうと、全国で1万人などあっという間に達成可能です。

 

 これから寒くなれば、インフルかコロナか見分けがつかなくなり、医療対応も困難になっていくことが予想されますので心を引き締めないといけません。

 

 早くワクチンを手に入れたいのですが、輸送するのに「マイナス70°」を維持、そしてその冷凍状態から直ぐに接種しないと効果が薄れ、普通のかかりつけの医院では対応できないという課題がありますので、実際に日本人がワクチンを受けられるまでには、相当時間がかかるようなきがいたします。

早くワクチンを!

            R2/11/12
 
 土俵の直径は4.55メートル(昭和6年までは3.94)ありますが、土俵の外は5.7メートル四方しかない。
 
 つまり、徳俵の外は51.1センチしかないのです。
 すると正代のように足をつかないようにしながら、60センチ下の土俵下にて足をつくしかなくなる。
 
 だから踏み外したようになり、靱帯損傷という結果が生まれたのです。
 
 時々もつれて、二人同時に土俵下に頭から真っ逆さまに落ちることがありますが、危険きわまりないと思います。
 自分の身体の上に相手が乗っていれば、相手の体重がプラスされて60センチ下に落ちるのですからたまりません。
 
 いくら稽古をしているからといっても首を損傷する可能性も大きいのです。
 
 何故60センチの高さがあるかと言えば、審判が足下を見やすいからとか、観客が見やすいとか、色々な理由があるようですが、相撲取りにとっては怪我の温床となっていて、かわいそうです。
 
 そんな危ない土俵で相撲を取らせなくとも、もう少し土俵を広くするとか、高さを低くするとかしてあげたくなるのは私だけでしょうか。

土俵のサイズ(高さ60㎝)

◎とうとう200話に達した

                                     R2/11/11

 

 おめでとうございます。

 とうとう200話に達しました。

 自分の中で、すごいことだと思っています

 次はいよいよ300話に向けて出発です。

 

 それはそうと、ワクチンが急に現実味を帯びてきました。

 しかし、まだ諸手を挙げて「ヤッター」という訳にはいきません。

 

 ファイザーの臨床試験の予防効果9割という数字は確率の高さでは申し分ないのですが、志願者43,000人の内のわずか94人を検査したデータだというのです。

 

 見た目で、元気そうな人だけを選んで検査した可能性もあるので、一概にあーそうですかというわけにはいきませんが、話半分にしてもすごいと思います。

 

 副作用だって時間をかけて調べなくては、本当に安心で効果があるものかどうかはまだはっきりわかりません。

 

 しかしファイザーだけでなく、全世界でこのワクチンを作っている会社があり、いずれもまもなく完成に近づく情報があるということなのである程度安心できそうです。

ワクチンさえ出来れば

◎マスクのプラス効果がわかりました

                                                              R2/11/10

 

 NHKの特集番組「AIで迫る新型コロナ:論文20万本を徹底分析」を見ました。

 

 コロナに関する医学者や科学者の論文20万本をコンピューターに入力して、その中から新型コロナ菌に有効に対処できる秀逸な論理やスキルを拾い上げたものです。

 

 例えばマスクに関する新しい情報には感動しました。

 マスクは必ず隙間があります、その隙間から少量の新型コロナ菌が入ると、そのコロナ菌に対し免疫ができるそうです。

 マスクなしで大量の菌が入り込めば感染するけれども、少量だと免疫を作って感染を阻止してくれるのです。

 

 日本人は真面目だから、殆どの方がマスクをしていますので、(私などは、買い物に行くとマスクを車に置き忘れて、他の買い物客の視線を一斉に浴びる事があります)感染者数が少ないのも納得できます。

マスク…基本中の基本です

◎落ち着けドナルド、落ち着け

                                   R2/11/9

 

 「馬鹿げている、ドナルドは怒りを抑えなければいけない、落ち着けドナルド、落ち着け。」

 

 このダイアリーでも取り上げた(第4話)が、「落ち着けグレタ、落ち着け」、環境活動家・グレタさんをからかったトランプ氏に対し、この選挙で分が悪くなり、「票を数えるのを止めろ」「インチキだ」と叫んだことに反応したグレタさんのツイッターです。

 

 そっくり同じ言葉を使ってトランプ氏に言い返した事に、世界の人は大笑いしたことでしょう。

 

  おそらくバイデン氏なら地球の将来を見据えて環境にやさしい政策に取り組むに違いない、そういう思いが、希望が、このツイッターの反応に現れている。

  

  思わず「勝負あり」」と叫んでしまった。

トランプをやりこめた

◎バイデン氏が勝利したがまだ当分は波乱含み

               R2/11/8

 

 熱烈なトランプ氏の支持者を見ているとスンナリことが収まるとは到底思えない。 

 テレビでは、不正な選挙だと絶対に負けを認めようとしない集団のエネルギーの強さを感じることができる。

 僅差で負けた悔しさを、武力に訴えてもぶつけるかの勢いなのです。

 この熱気を見ていると案外、バイデン氏の暗殺を企てる輩も出てきそうです。 

 この混乱が長引けば、いざ中国や北朝鮮が何かを仕掛けてきた時に、どちらが指揮をとるのでしょうか。

 このチャンスを見逃してなるものかという危ない国があることも年頭に置かなければなりません。

 

 バイデン氏が圧倒的な大差をつけていれば、こんな心配もなかったのですが、いかんせん僅差ですので、裁判所が郵便投票を無効と判断すれば逆転の可能性も大なのですから、トランプ支持層が強烈に訴えているのもよく解ります。

 

 しかし世界の安定のためにも早く決着をつけていただきたい。

◎両陣営の激突暴動が怖い

           R2/11/7

 

 銃社会であるアメリカで銃購入・試射が増えているといいます。

 暴動の危険性が高まっています。

 一般の市民が銃武装デモをしたりすれば大変なことになりそうです。

 

 直接の暴動とそれに乗じた略奪も怖いです。。

 ロスのデパートでは窓ガラスに木を打ち付けて暴動に備えています。

 

 どうやらバイデンさんの勝利は確実のようです。

 ただ僅差で、しかも郵便投票に確かに問題や配付ミスなどもありますので、訴訟合戦に発展していきそうです。

 

 バイデン側の祝勝ムードとは逆に、反動でトランプ側の恨み節がすんなり収まりそうな気配はありません。

 

 大統領の地位に固執するトランプさんは、4年後も出馬するだろうとテレビが言っていました。

 

 確かに4年後のトランプさんは、今のバイデンさんの歳になるのですから、トランプさんの勢いからすると当然あり得る話ですよね。

 

 でも簡単に大統領の地位を手放したくないトランプさんが、支持者を巻き込んでどんな手を打って出るのか、当分目が離せません。

デモ鎮圧

◎トランプさんが負けそう、マジですか

                                                    R2/11/6

 

 いやはや大変なことになってきましたですね。

 

 あの強烈なトランプさんが落選しそうだなんて、思ってもいませんでした。

 

 いくら経済が大事だといっても、20万人がコロナでなくなっていることを思うと、コロナ対応のまずさが際立っています。

 だって20万人といえば、ほぼ松江市の人口と同じです。

 今年の2月ごろから約半年で松江市の住人が全員死んだと思えば、人の命を何だと思っているんだ、ということにはなりますよね。

 経済は確かに助かっているかもしれないが、感染者数と死者を見れば、これは絶対異常だと皆がわかってきたのではないでしょうか。

 あんなに元気だった主人が、妻が祖父母が、親戚の誰かが、トランプさんのコロナ軽視によって死んでしまった。

 そう思う方がその20万人の親族も含めれば、数え切れない程の数になっていくのでしょう。

 その数が選挙に影響を及ぼさないはずがないと思います。

 

 まだ勝敗はつかないものの、もしトランプさんが勝てなかったら、それは自業自得だと思います。

負けそうなトランプ

◎どちらが勝つかわかりません

           R2/11/5

 

 アメリカの選挙制度はややこしくてよくわかりません。

 大接戦ということは伝わってくるのですが、今の段階ではどちらが勝つのか判断が難しいようです。

 特に郵便投票の行方によっては勝敗が左右されるようです。

 

 やはりすごいと思うのは、トランプさん、普通の74歳ならコロナ感染で即アウトなのに三日入院しただけで、カムバックして、超過密スケジュールの選挙戦をこなすのですから驚きです。 

 今後の一番の焦点は、対中国への圧力をどれだけかけられるかということです。

 中国は油断のならない国で、スキを見せればどんな手を使ってでも領土を拡げようとするし、領海侵犯など朝飯前で平気の平三です。

 

 バイデンさんも中国に対しては厳しく対応すると仰っているのですが、それは未知数ですので実際の対応を見なければ何ともいえないところがあります。

 

 品格がないとか横暴とか批判されるトランプさんですが、もっと品格がなくて横暴で非常識で露骨な覇権主義を実践する中国に対しては、今しばらくトランプさんに頑張ってもらっていたほうが安心なような気がします。 

 

   もしバイデンさんが勝てば、民主主義の勝利、民衆主義を取り戻したと浮かれている間に、中国や北朝鮮が新政権を試そうとして、激しく仕掛けてくるような気がしてなりません。

覇権主義中国を止められるのは?

◎富士山に登ったことがある

                                  R2/11/4

 

      若い頃です、登山愛好家の仲間に入っていて、名前を「狂歩会」と言いました。

 急に富士山に登ろうということになった。

 リーダーが経験者で、5合目の駐車場に車を止め、夜九時頃から登り始め、8合目の山小屋で仮眠を取って、後は頂上まで一気に登ってご来光を仰ぐんだ。

 頂上には売店があって、そこで食べるかけうどんがたまらなくうまいんだぜー。

  

 よく状況を確かめてもいないそのリーダーの口車に乗ったのが運の尽きでありました。

 かけうどんを食べてご来光を仰ぐ我が身を想像しながら、総勢5人で出かけました。

 

 登山日は9月4日でしたが、実は富士山は8月27日に閉山していて、山小屋もカギがかかっていて開かない、そして頂上の売店なんて勿論カギがかかり、かけうどんなんて夢の又夢でありました。

 富士山は不思議な山です、5合目から見ると6合目の山小屋の灯火がすぐそこに見えるので、「楽勝だ、30分もあれば6合目到着だな」と思って30分登ったら、6合目の灯りが出発した時点と全く変わらぬ位置にあったのです。

 登頂は容易ではないことを思い知らされました。

 8合目の山小屋は中に入れないので、薄着で来たことを後悔しながら、身を寄せ合って休みました。

 9合目でみぞれが降ってきました、そして……そして頂上ではなんと雪でした。

 「狂歩会」という名の通り、打ち合わせをしていた半袖・短パンでピースサインをしながら祈念写真だけ撮って早々に下山しました。

 

 勿論、一面雪が降るような雲の海ですから、ご来光など拝めるはずもありません。

 日頃の行いを考えれば当然かもしれない、とその時は変に納得しました。

 

 頂上の30メートル位手前の指標柱に、「○○○○、99歳、30回目の登頂と記してありました。」

 世の中には「つわもの」がいるものだと感心しました。

 

 かけうどんが食べられると思い込んでいましたので、荷物にもなるというので食料など有りません。

 かけうどんが食べられなかった落胆と疲れで、下りは足が自分の足ではありませんでした。

 何度か足がもつれ、つまづいて転げ落ちそうになり、車に乗り込んだ時は、皆死んだように眠りにつきました。

 

 でも日本一の霊峰に登頂した誇りだけは、今でも絶対に忘れません。

富士登山

◎来年、オリンピック開催は本当に可能ですか?

                      R2/11/3

 世界中で、新型コロナ感染している人は4,611万人(11/1)、アメリカは毎日10万づつ感染者が増えています。

 

 欧州も第二波で再度ロックダウンする国も出て来ました。

 収束などほど遠い状態です。

 

 ワクチンや治療薬も、まだまだ副作用のない安全性の高い薬は出来ていないし、出来たとしても全世界の人々に亘るまでには数年かかります。

 

 専門家は勿論、殆どの方が、オリンピックはとても来年にはできないだろうと予想していらっしゃいます。(出来ないと予想、77%)

 

 そうなると、開催国である日本はかなりのダメージを負わなくてはならない。 

  オリ・パラ準備委員会の試算では来年中止になると最大29兆円の損失だそうです、日本の年間予算の1/3に当たります。

 

 感染者が減少傾向にあるなら希望も持てるけれども、海外で益々増大している現状では、まず無理ではないでしょうか。

 

 「おもてなし」の名文句で、折角勝ち得た開催国であったが余程日本はついていない。

 あのときの日本以外の候補国は「良かった」と胸をなでおろしているんでしょうね。

 

  外国人を迎える高層ホテルなどは途方に暮れるでしょうし、一番可哀想なのは、アスリートの選手達です。

 おそらく来年のオリンピックが、年齢的に最後だと命をかけている選手もいるのでしょうが、全部芽を摘み取られてしまう可能性が高くなっています。

世界中パンデミック

◎トランプかバイデンか

                                                           R2/11/2

 

 いよいよ明日はアメリカ大統領を選ぶ投票日です。

 どちらが勝利するのでしょうか。

 

 コロナに感染したトランプさんがそのまま弱って入院生活を送っていたら、勿論バイデンさん勝利でしたが、入院したと思ったら即退院で奇跡のカムバックを果たしたトランプさんが劣勢を跳ね返し巻き返しつつあります。

 

 日本にとっては、中国の脅威を考えるとやはりトランプさんがたのもしく思えます。

 どうしてもバイデンさんではもの足りなさを感じてしまいます。

 

 元安倍総理がどの国よりも早く、この強烈なトランプ大統領の懐にポンと飛び込んで、貿易や外交をスムーズにした功績は大きいと思います。

 

 これがなかったらトランプさんから無理難題を押しつけられて、たちまち財政が苦しくなっていたと想像できます。

 

  安倍元総理はマイナス点も多いのですが、外交だけはすごかったなあと思います。

                                                    

 トランプさんが勝ったとしても、管総理が安倍さんのようにうまく対応できるのか、またバイデンさんが勝てば、未知数な人なのですが、トランプさんよりも与しやすいような気がしますがどんなもんでしょうか。

 

 明日は世界中が注目しています。

トランプがバイデンか

◎そもそも信仰集団に僧兵がいたなんて信じられない

                                                                     R2/11/1

 

 キリスト教では十字軍のようなものです。

 信仰と武力が一体となった軍隊だから強くないはずはありません。

 

 天下統一を目指した織田信長も信仰集団一向一揆衆には手を焼いたのです。

 そもそも天下を取ろうとする当時最強軍団の織田軍と争い、石山本願寺(顕如)は十年に亘り争い、争いによる決着はつかぬ程の強さを誇ったのです。

 

 信長は比叡山の僧侶や僧兵を焼き討ちし、そして難攻不落の水利を得た伊勢の長島一向宗を破ったが、石山本願寺を落とすことはできませんでした。

 

 比叡山は僧兵だけでなく、僧侶・女・子供に至るまで殺害する殲滅作戦を決行しました。

 

 長島一向宗も織田軍総力で軍艦百隻を含む二百隻以上で島を包囲、兵糧攻めにします。

 根を上げて顕忍や下間頼旦が城を明け渡す交渉をするが、信長は騙して城を出た彼らを

銃殺し始めた。

 騙されたことを知った彼らは、八百の手勢で織田軍に対し、捨て身の反撃をする。

 この不意打ちに、織田軍も信長の弟二人を含む千人の死者を出すというという、手痛い失策となりました。

 信長は残った城を焼き討ちし、老若男女を問わず火攻め攻撃を加え、残らず殲滅した。

 信長は自分に敵対する者には、見せしめのため、容赦がなかったのです。

 

 そして石山本願寺と十年間対峙するのです。

 まさに戦国時代、信仰集団でさえやらなければやられるという、争いが当たり前の時代だったと言えましょう。

 

 曹洞宗は、永平寺にしても総持寺にしても僧兵がいたという歴史はありません。

 一行一揆衆のような非僧非俗の武力信仰ではなく、純粋な出家修行集団であったからだと思います。

比叡山焼き討ち

◎親鸞は亡き父母の孝養のためとて

   一返にても念仏申したること、いまだ候はず

                                                                R2/10/31                                                               

 

   親鸞様は幼少期に両親と別れていらっしゃいます。

    本当はより一層、特に両親の為に供養をしたいと思っていらっしゃった違いありません。

    

    ところが信を極めると、人は昔、親であったり、兄弟であったりしてつながっているんだとの思想へ向かっていく。    

    念仏は仏のはからいによって念仏させて頂くのであって、特定の○○の為の念仏というのは自力の作善であるから真の念仏、真の孝養ではないとの結論に至ります。    

    この点では、他の宗派と全く違う思想を産み出しているように思われます。    

    普通は、父母が亡くなればその父母の為に供養をすると思うのですが、それは作善・自力であり、本物の供養ではないと親鸞様は言われるんです。

    ただ一般の信者が、こういう想いに至るまでには自分の思いの中に相当の葛藤が生じるのではないかと想います。    

    他力の信を突き詰める考え方に圧倒されます。

これは自力の念仏か他力の念仏か

◎浄土真宗は位牌がない

 

 曹洞宗から見ると「え、過去帳が位牌の代わり?」と妙な違和感があります。

  浄土真宗では、阿弥陀仏の働きや救いにより、亡くなった途端に浄土に行けます。

 何も改めて位牌を作ったりなど小細工をしなくとも、亡くなった本人も、残った者も、すでに成仏が叶っているのだから、何もしなくても安心だ、という思いがあるのだといいます。

 他の宗派にはない、独特の考え方です。

   他宗派から、「中有の修行をせずに、楽してズルイ」との声有り。「そんなにうらやましかったら、あなたたちも浄土真宗に入れば?」と応酬する別の声有り。  

   他宗派では四十九日は故人のためと考えられていますが、浄土真宗の場合は残されたご遺族のためにと考えられています。

 つまり、ご遺族が四十九日間の中で個人のことをしのびつつ、仏様の教え(特に念仏の教え)について深くかみしめるための期間というのが、浄土真宗にとっての四十九日(中有)の意味なんだそうです。

言い換えれば、四十九日を機に信心を深め、仏様に感謝するという意味があるといえます。

中有なんだけど
あたしゃ、何処へ行きゃいいんだい?

◎葬儀の副導師をしていて感動したこと

            R2/10/29

 

 となり町の葬儀の副導師(脇導師)を頼まれました。

 実は到着してから気がついたのですが、そのお宅は半年前にも葬儀がありました。

 その時の印象が強いのでよく覚えていました。

 

 半年前は、今回癌で亡くなった六十才定年前の方のお母さんの葬儀でした。

 半年前のその葬儀も、既に癌の病で入院されていて、病院から外出許可を得て喪主を務められていました。

 

 葬儀も滞りなく進み、喪主の会葬者への挨拶となった。

 突如喪主が、周りの会葬者など目に入らないかのように叫ばれました。

 

 「お母さーーん、僕を産んでくれてアリガトーーーーーーッ!!」

 

 会葬の方は、喪主が癌で入院中であり、病院から外出許可にて喪主を務められているのを勿論ご存じでした。

 自らの命も残りわずかと自覚しておられる喪主の叫びが、会葬者の心を打った。

 

 導師は会葬者とは反対向きなので、会葬者を見ることはできなかったが、すすり泣きが聞こえていましたから、おそらく沢山の方がハンカチを目に当てていらっしゃったことと思います。

 

 感動を受けた、まれに見る葬儀でした。

喪主挨拶で叫ぶ!

◎白衣の天使

               R2/10/28

 

 先代住職が脳梗塞で倒れ入院、数日後、母と家内と私の3人で洗濯物を取り替えに病院へ出かけた。

 ちょうど看護師さん3人で寝具の取り替え中で、廊下の長椅子で待たされていた。

 

 「終わりましたよ」との声で病室に入り寝具のシーツも寝間着も新しいものに取り替えられたばかりで、先代住職も気持ちが良さそうに見えた。

 すると3人の看護師さんの一人が、あれっと言って先代住職の股のあたりを臭っておられたが、着衣を外され出した。

 するとおむつを開いた途端に下痢状の満杯の排泄物で、せっかく新調した寝間着もシーツもドロドロになってしまった。

 全て最初からやり直しの状態になったのです。

 看護師さんたちも呆然状態であったが、その内のお一人が、私たち家族に笑顔を送りながら「あ、これ私がやります、私これ得意なんです。」と言うやいなやサッサと処理にかかられた。

 その手際の良いこと、慌てて他の二人の看護師さんたちも手伝いを始められた。

 感動でした。

 患者も含め、家族が申し訳なさでいっぱいになっている時に、すかさず何事もなかったように笑顔と、家族を安心させる言葉を送られる。

  心、ポカポカ温まりました。

 まさしくプロの行動に違いありません。

 観音様を見る思いで、思わず手を合わせたことでありました。

シーツ取り替え

◎念ずれば花開く

                      R2/10/27

 

 仏教詩人、坂村真民さんの言葉です。

 

 但しその念じ方、念じる対象物によって結果が全く違ってくることも頭に入れて置かなければなりません。

 

 だから「念ずれば花開くこともある」というのが正解だろうと思います。

 

  これは真民さんのお母さんの口癖だったことばを、真民さんも何時の間にか自分も口癖にしてしまっていて、失明寸前、絶望のどん底の時もその言葉を信じて念じられた。

 

 そして念ずることで失明を回避することができた時、一寸先は光だと思った、と回想されています。

 

 仏教詩人ですから念ずる後ろ盾には、必ず仏様がいらっしゃいます。

 だから、仏様の教えにかなった念じ方が必要です。

 

 例えば、欲望の思いを念じる、宝くじが当たって大金が入りますように、こんな念じ方は、煩悩の虜になってはならぬという仏教の教えに反しておりますし、あいつが気に食わぬからあいつを死に至らしめたい、などと念ずるのは、不殺生戒という仏教の教えに反することですから、念じ方としては最悪ということになります。

 

 だから仏教の教えに適う念じ方は、案外難しいのです。

念ずれば花ひらく

◎仏教宗派も完璧な宗派はありません

                                                  R2/10/26  

  島根県は今日から予防接種開始です。

 朝から並び、トップで注射をうけました、結構痛かったですね。

 道元禅師様が永平寺を建立、禅の道場として曹洞宗を開かれた。

 そして正伝の仏法として禅を説かれた。

 その理論は見事なものであるけれども、私には宗教としては欠けているものがあるような気がしてならない。

 

 つまり、あの世やあの世に逝った者(ホトケ)に対する供養としての理論構築が何もないのです。

 坐禅こそが修行であり、修行しているそのままが悟りであると説かれたのだが、そこで教えは止まっているのです。

この世で修行をしていればあの世のことなど考える必要などない、そういう風に取れます。

  出家者に対してはそれでいいかもしれませんが、在家には不足です。

 

 それは先日も書いたのだが、曹洞宗には道元様の教えの中にあの世感が全くない点だと思います。

 

 そのくせちゃんとお葬式を上げ、ご法事を勤め、あの世にいらっしゃる先祖代々の仏様を供養したりして、その仏事で宗派が拡大した訳です。

 

 宗祖の坐禅理論だけでは、ここまでの巨大組織にはなっていないはずです。

 しかしその先祖代々の仏にたいする位置付けは確たるものがなく、漠然とした思いしかない。

   勿論宗教としては成り立っているのだが、その点をつかれると全く返答に困ってしまうことがある。

 

 浄土宗・浄土真宗が布教した浄土感・あの世感は曹洞宗にも大きな影響をあたえました。

 

 私がこの弘長寺に入った時も、近くに阿弥陀講という念仏講があり(お檀家様の中に)、曹洞宗の梅花講とは違うご詠歌講もありました。

 それほど身近に浄土系の影響が及んでいたということです。

 

葬 儀

◎何と半年分180の文章を超えたんですね

                                                         R2/10/25                                                 

    ホットダイアリーの回数が180を超えています。

 

 殆ど毎日、日記のように書き始めて半年が過ぎたと言うことです。

 

 絶対直ぐに万歳を宣言しなくてはいけないだろうと思っていたのですが、半年も続いたのは驚きで奇跡に近いと思います。 

 タイトル一覧を見れば、あっちへ飛び、こっちに飛びで、まとまりがなく、本当に気まぐれ的なダイアリーだなあと反省しきりでございます。

 ただ、ない頭をひねって文字にする、うん、これならと納得のいける文が出来上がったときの喜びを感じたり、何度読み返しても駄作だーと投げやりになったり、才能のなさを痛感させられてきたりしました。

 ただ言えることは、私にとってものすごい勉強になると言うことだけは確かです。

 このダイアリー(ブログ)を書くことによって、自分を見つめることができ、考えも深まり、何よりも自分が成長していくのを感じることができます。

 最初は乗り気ではなかった私の背を押して下さった方には感謝の思いしかありませんが、もう止めろといわれても、おそらく止められないと思います。

 お檀家様から、毎日楽しみに見てますよ、と声をかけられると最高にうれしくなって、頑張らねばと思っています。

 300までは何としても続けてみたい。

毎日書くことの楽しさと苦痛

◎地獄は一定すみかぞかし

                                         R2/10/24

 

 門弟が日蓮信徒に無間地獄に落ちると批判され、必死の思いで京都に出かけて親鸞上人に尋ねる、「念仏すると地獄に落ちるのか、それとも浄土に行けるのか」。

 その問いかけに「そんなことワシは知らん」と答えたその先がありました。

「地獄は一定すみかぞかし」(地獄行きの身なんだ俺は)…強烈な言葉です。

 哲学者の梅原 猛さんが高校時代にこの言葉に救われたといいます。

 「念仏を信じて歩もうとも、捨ててほかの道を歩もうとも、みなさん自分で勝手に決めて行ってください」「私は法然様の道を行きます、たとえ法然様にだまされて地獄に落ちても後悔しません」

 この答えを聞いた門弟信者たちは躍り上がって喜んだに違いないと思うのです。

 親鸞様の揺るぎない念仏への誓いと、信念を受け止めることができたのだと思います。

 

 「地獄は一定すみかぞかし」とてつもなくすごい言葉ですね。

親鸞様の説法

◎なるほどなるほどの連続です

                                    R2/10/23               

 

 衝撃的な文章が次々と目に飛び込んできます。

 「仏の目から見たら、人間は全て悪人だ」

 

 確かにそうかもしれない、厳密に第三者の目で見れば、動物を直接手にかけないにしても肉食はする、道を歩いていてどれだけアリを踏み潰してきたか。

 

 夜道を車で走っていてカエルを踏み潰すこともあり、昼間に避けきれなくて蛇を轢いてしまったこともある、その蛇がのたうちまわっているのをバックミラーで見ていやな気分になった事もあります。

 

 ハエや蚊は勿論、ゴキブリやムカデもたまたま私と出くわしたものだから、命をなくした生き物は計り知れなく存在しました。

 

 スズメバチが屋根裏に巣を作ったら、アブハチジェットで全滅させた。

 どれだけ生き物の命を奪ってきたことか。

 

 多分キリスト教で言えば原罪と呼ぶものでありましょう。

 人さえ殺さなければ善人と思い込んでいる私どもは、『仏の目から見たら、人間は全て悪人だ』という言葉に、改めて偽善者であることに気がつきます。

 

 自分は一体何者なのか、深く考えざるをえません。

アレーッ、轢イチャウー!

◎かゆいところに手が届く本を得た

                                              R2/10/22              

 

 本日10月21日、田和山の今井書店に行き、宗教コーナーで親鸞上人か歎異抄に関する本を探していたら、私が参考書にしている「釈 徹宗師の新書」が目にとまった。

 

 「歎異抄 救いのことば」で、2020年10月20日発行となっている。

 つまり昨日発行の新書だった。

 仏様のお導きなのだろうか、真宗の僧侶方でもこの本の存在を、まだおそらくご存じないのだと思います。

 それを曹洞宗侶の私が真っ先に手に取ることができようとは。

 まだパラパラッとしか読んでいないのだが、私の疑問に対する答えの一部を読むことができた。

 

 そうなんです、私は偽善者と悪人の差を追求しようとしていたのですが、釈師が、結局どちらも救われるんですと書いておられました。

 

 そうです、どちらも救われるんなら細かいことは良いではありませんか。

 

 確かにそうです、法蔵菩薩の四十八願の第十八願は、全ての人が救われなければ如来にならぬとの誓いですからそうです、納得です。

 

 私の疑問にやはり釈師が即刻答えて下さった、ありがたさの極みです、

 「ナムアミダブツ」

 

 

あった!

◎もう一つ親鸞上人に尋ねて見たい

                                              R2/10/21

 

 肝心なことをお伺いするのをわすれていました。

 それは偽善と真善はどういう風に見分けてどういう風に行動すれば良いのですか、ということです。

 

 偽善者は、自分は偽善という意識はないでしょう。

 気づいていない者に対して、いくら殺人よりも思い罪だと指摘しても、何の事やらで終わってしまいます。

 

 本人に指摘して、本人がもしそれをなるほどと自覚したとします。

 その上で、どうすればそれを真善に変えることができるのかを示すべきです。

 

 医者の診断で、病だと告げます、しかし病を告げただけではその病は治すことができないではありませんか。

 

 必ず直すための治療方法を示して治癒させることが必要だと思います。

 

 蓮如上人は、その治癒方法、解決方法が見えない、というよりも解決方法がないと判断されたからこそ歎異抄を封印されたのではないでしょうか。

 

 悪人正機説はセンセーショナルだけれども、それでは偽善ではなく真の善を為すということはどういうことであるか、またどうすれば良いかを、親鸞上人は示されていないのです。

 

 つまり病名の結果だけを先走って告げ、治療方法が示されていないのが問題です。

 それも殺人罪よりも偽善の方が重い罪だという根拠と、どうすれば真善に生きることができるのかをはっきりと示すべきでした。

 

 門外漢なれど、モヤモヤしている私の疑問に、どなたか答えて頂けませんでしょうか。

善と悪、
心の中にはどちらもありそうだ

◎そこで親鸞上人様に伺いたいのです

                                               R2/1020

 

 他力本願には門外漢である私のような人間が、恐れ多くも浄土真宗の開祖に疑問を抱くなどということは、許されざることにちがいなのですが、しかし私は尋ねて見たい。

 

 確かに偽善は悪よりも悪であるというのは衝撃的な思考なんですが、それは本当に正しいのだろうか?

 

 それはつまり親鸞様のお話の中にあるように、千人もの殺人を犯した殺人者よりも偽善者の方が悪人というのは、私にはどうしても納得がいかないのです。

 

 悪の深度比較論というのは真宗ではどうなっているのでしょうか?

 

 千人の殺人者が、自分が悪人であるとの意識を持ったら、偽善者よりも本当に先にお浄土に行けるのでしょうか?

 

 偽善が好ましくないというのは解るのですが、それが大悪人よりも悪であるとはとても思えないのです。

 

 偽善が好ましからずということを強調するために大げさに申されたのでしょうか。

 ここのところが良く理解できないのです。

 

 日蓮宗からの圧迫を受けた信者が、関東から京都の親鸞邸に真実を確認をする為に訪れた。

 「お上人様、日蓮宗から念仏地獄と批判されているのですが、私どもは念仏すれば本当に地獄に落ちることもなくお浄土に行けるのでしょうか?」

 

 必死の問いかけに上人は、「そんなことワシは知らん」と信者の期待に反する答えをされた。

 

    何故そう答えられたのかも、私は良くわかりません。 

 これを真宗の方にこのホームページの投稿欄を使って教えて頂きたいと思っています。

悪人正機のお陰でやりたい放題さ

                  R2/10/19
 
道元禅寺様も修証義の中で、「大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、毫釐もたがわざるなり、惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず」とお示しです。
 
 まさしく伝統的な善悪の考え方です。
 
 ところが、法然様も以前仰ったとのことですから原説は法然様かもしれないのですが、
実際には親鸞様の言葉として有名です。
 
 数ある仏教の中で善悪の捉え方を、これほどひっくり返したのは真宗の考え方です。
 それだけに誤解を受けやすいのです。
 
 「善人が救われるのであるなら悪人こそ救われる。」
 
 善の名を借りる偽善こそ救いようのない悪であるということ、しかも我々は普段それに全く気づかないという嘆かわしさをあらわにした言葉です。
 
 すごいと思います、だってお釈迦様も 「七仏通戒偈」で「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」良いことをせよ、悪いことをするな、心を清浄に保つ、これが諸仏の教えである、とお示しです。
 
 その善悪に対し、こんなにも踏み込んだのは悪人正機説でしょう。
 当時この賞があれば間違いなく、ノーベル賞・宗教部門でしょう。

悪人ですけど、実は善人?

◎母は偉大だった

                 R2/10/18 

 

  私の修行が2年で終わり、この弘長寺へ弟子養子として入って間もなく、安養寺の実父の声が出なくなった。

 

 原因は、腹部動脈瘤で、その瘤が声帯の神経を圧迫したため、声が出なくなったのです。

 しかも場所が悪くて、心臓に隣接し血管が集中している箇所で、手術で失敗する可能性が高かったのです。

 そっとしておけば当分命に別状はないとのことで、手術を諦める事になりました。

 

 その代わり、大事な声を失いました。

 お坊さんにとって声が出ないというのは致命的なのです。

 読経しようにも、それが有声音として相手に届かないのだから、読経にならないのです。

 

 私の弟夫婦は(当時副住職)函館の大きなお寺に役僧として出稼ぎに出ていて、函館で一区域の責任を任されており、又子供三人も学校の関係で急には島根に帰れないということだった。 

 さて窮地に陥り、私も弘長寺という別の寺院の弟子になっており(車で一時間かかる)、どうしようかという時に、葬儀は近隣のお寺さんに頼むとしても、法事は私がやると手を上げたのは、母哲子だった。

 

 何かの都合で住職がその任を果たせなくなった場合、曹洞宗はその妻が代務者として数年間、住職代行を務めることができる救済処置があります。(その点浄土真宗は違和感なく女性が住職になれます)

 

 時々母の導師で、法事のお手伝いをしたのですが、堂々と般若心経とご詠歌で法事をこなしてていた。

 

 大した度胸だと思いました。

 もともと寺付きで、地元の事には滅法詳しいのです。

 村の婦人会長や民生委員を務め、日本舞踊・お茶・お花の教授何でもござれのスーパーウーマンだった、特に筆を持ったらお手本よりも美麗な文字を書いた。

 法事のあとのお説教も堂に入っていた、ここのお婆さんはどんな人だったとか、ここのお爺さんはどんな人で、こんなことを話されたとか、誠に詳しくて聴聞している人は感心してうなずいておられた。

 

 「あんたはあんなことができるか」と亡くなった妻に問うてみたけど、「死んでもイヤだ」という答えが返ってきた。

 

 安養寺を救った母は、心底偉大だと思いました。

場合によっては男僧より有り難いかも

◎お坊さんは隠れ喫煙家が多い③

                                             R2/10/17

 

 最近は電子タバコなるものが出てきて、売れているみたいだ。

 その中にはニコチンを含むものや、全く無しの只の水蒸気を吸い込むものまで色々のようだ。 

 私は実際に試したことがないので、よく解らないが、ニコチンがない水蒸気など物足りなくてタバコを吸っている気分にはなれないのではないだろうか。

 今は、禁煙しやすい薬も沢山でているようだから、早めに止めた方が賢明です。 

 私の知り合いの先輩のお坊さんは出会うと、「今、タバコを止めている」と言われるが次に会うときには、ちゃんとプカプカ吸っておられた、何十回もの繰り返しであります。

 お酒の大好きなその方は、飲む機会がある度に、「今、調子悪くて禁酒をしている」と最初は必ずそうおっしゃるのだが、「まあ、そう言わずにどうぞ」と差し出すと「ほんなら」と言って一盃口にしたらもう止まらない、最後は意識が飛ぶまで飲んでしまうという面白い方がいらっしゃった。 

 あ、勿論県外のお坊さんです。

だんだん居場所がなくなる

◎お坊さんは隠れ喫煙家が多い②

                                                     R2/10/16

 

 私も知りませんでした。

 ネットで調べると、タバコの煙には4,000種類の化学物質が含まれているそうです。

 その中には、何と200種類以上の有害物質が含まれ、発がん性物質は50種類以上にのぼります!

 

 有害物質のなかでも、よく知られているのは、ニコチン、タール、一酸化炭素です。

 そのほかにも、ペンキ除去剤に使われるアセトンや、アリの駆除剤に含まれているヒ素、車のバッテリーに使われているカドミウムなど、体に大変有害な物質がタバコの煙に含まれています。

 いろんな理由をつけて喫煙が正当化されることがありますが、訳のわからん毒を目一杯吸い込んでいるのですから、どんな理由をもってしても、絶対身体にいいわけありません。

  ニコチンは依存性の強い物質です。

 私たちの周りには、お酒やコーヒーなどの嗜好品があり、それぞれアルコール、カフェインといった依存性物質が含まれていますが、適量であれば健康に問題はありません。

 ところが、ニコチンは危険薬物のヘロインやコカインよりも依存の危険が高く、しかもニコチン依存症になってしまうと、使用を中止するのは非常に難しくなります。

    いつでもタバコをやめられると思っていたのに、なかなかやめられないのは、このニコチン依存症が原因なのです。(すみません、ネットコピペです)

 私がもし禁煙できなかったとすると、おそらく30代後半か40代半ばまでには命を失っていたと断言できます。 

 仏教の四弘誓願文で、煩悩を断ちきれと言われているお坊さんに、実はやめられない喫煙家が非常に多いのも、この依存性の高さです。   

 長くなりそうなので今日はここまで。 つづく

百害あって一利無し

◎お坊さんは隠れ喫煙家が多い

                                               R2/10/15

 

 やめたいと思っていても、中々やめられないのが喫煙だ。

 その気持ちは解りすぎるほどよく解ります。

 

 私も18才から始めて29才まで10年間、最後は極度のヘビースモーカーだった。

 一日100本(5箱)では足りず、紙製手提げ袋の中に火ばさみとナイロンの買い物袋を入れて町中を散策する、昔はポイ捨てたばこが沢山落ちていた。

 それを環境美化の善人のようなふりして、シケモクをあつめてパイプに差して吸っていた。 

 吸いかけのたばこは、色々な種類のたばこであったから、そういう面ではずいぶん楽しめた、但し尻から煙が出る思いをしていた。

 セブンスターから始まり、ロンピー、カンピー(チョコの匂い)、最後はマイルドセブンになっていた。

 しかし、ただでさえ貧乏だったのに、お小遣いの大半をたばこに費やすのは懐がかなり痛みました。 

 口の中はヤニだらけで、食事も味が落ちるし、吸っているときは人の迷惑なんて考えたこともなかった。

 しかし、結局のところ経済的理由からやめざるを得なくなった。

 徐々に減らしていくなんて芸当はできなかったので、一気にスパッとやめるしかなかった 。

 その時に幸運にも、私はやめることができたのです、しかも禁断症状にも耐えることができた。

 たばこをやめてから40年に以上になりますから、多分肺もきれいでしょう。

 

 現在はタバコを吸える場所は限られ、殆ど人のいる場所では吸えなくなった。

 建物の中では、吸える場所は全くといっていいほどありませんし、歩きながらのくわえタバコなども禁止されている。

 したがってシケモク集めなどもできません。

 外での喫煙場所で吸っていても、まるで罪人扱いの眼差しで見られます。

 

 よく考えれば、かわいそうです、国がたばこ産業でもうけて大量の喫煙者を育てておきながら、環境問題・健康問題で喫煙が加害者的罪人のようになると、今度はやめましょうですものね、「そりゃ殺生やでー」と言いたくなるのもよく解ります。 つづく

禁煙すると禁断症状が

◎一般信者の方が一番誤解するのはここだと、

                        唯円さんと蓮如さんが叫んでいます

                                                              R2/10/14                                                                                      

  こんな誤解するようなものを絶対見せてはならぬと封印した一番誤解する箇所は、ここなんです。

 

 「ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を称えれば、死んだら間違いなく極楽へ往けると教えたのが親鸞であり、浄土真宗である」

 ここです、ここが誤解する箇所なんです。

 

 闇雲に南無阿弥陀仏と唱えたって極楽へは絶対に行けない、というのが唯円さんや蓮如さんなのです。

 南無阿弥陀仏は安っぽいおまじないの言葉ではない、弥陀(法蔵菩薩)の誓願を本当に心の底から信ずることができるのなら、極楽往生ができようが、ただいたずらにナンマンダブを唱えてさえいれば極楽往生間違いなしと簡単に思っていることが、誤解そのものなのだと叫んでおられるのです。

 考えてみれば、法蔵菩薩様の誓願を、心底信ずることがで本当にできましょうか。

 上っ面で「信じてる」というだけなら誰でも言うことができるが、心底涙を流さんばかりに信ずることができる様になるには、疑問を持ち葛藤しながらあがいてあがいて、そのモヤが突如パッと開けるような体験がなければならないのだ。

 単なる他力でなく、心底お任せできる絶対他力を説かれたが、その境地に至るまでには自力が必要と言うことだと思います。

 一度でもナンマンダブを唱えたら、極楽往生間違いなしと説かれた法然上人にも実は問題ありと、喉元まで言葉が出ているのではなかろうか。

 そうしてみると、やはり法然上人のナンマンダブを進化、そして深化させたのが親鸞上人であると、やはり言えるということではなかろうか。

 私はあくまでも門外漢ですので、それは違うというご意見があれば教えて下さい。

ナンマンダブ一回唱えれば極楽?

 

◎運命をもたらす人との出会いが、

                 人生をそして信仰を決めるのです

                                                                           R2/10/13

 

 今日は少し歎異抄を離れます。

 

 親鸞聖人は悩むことの天才だ、「親鸞」の小説を山陰中央新報に書き上げた五木寛之氏の言葉です。

 

 比叡山で学んだだけでは、信心も行も確信するにいたらず悩み続け、たまたま六角堂で観音様の夢告により、法然上人に邂逅されます。

 

 まさにこの「人との出会い」により自らの信心を確定し、極めていかれる。

 そして六角堂の観音様の夢告通り恵心尼との出会いにより、それまでの常識を打ち破り、確たる信心を妻帯しながら妻とともに生き抜くこととなります。

 

 大切なのは勝れた人との出会いだと思います。

 それも親鸞上人は観音様という仏様の導きによってでありますから、自信を持って突き進むことができたのでしょう。

 

  道元禅師様は中国で如浄禅師様に出会い、弘法大師様は中国で恵果阿闍梨様に出会い、それぞれの信心を確定し、仏道を極められました。

 

 私ごとで恥ずかしいのですが、お寺の後を継いでくれていた弟の進言により、35歳で仏門に入ることができました。

 

 私にとっては弟が、親鸞様の夢告に現れた観音様と全く同じなのです。

 

 勝れた人との邂逅で、信仰が定まるということを、私自身も体験から確信しています。

法然上人様との邂逅

◎歎異抄はどういう構成でしょうか

                                              R2/10/12

 

 歎異抄を知りたいと思ったら、この本に勝る本はない。

 それは釈徹宗師著の「親鸞の教えと歎異抄」です

 

 私のような読解力のないものにはうってつけの図解入りで、何とも解りやすいのです。

 でも中々書店では見かけることがありません。

 常時おいてあれば必ず売れると思うのにもったいないことだと思います。

 

 さてこの本を参考にさせて頂きながら歎異抄の構成を見ていきましょう。

 

 ●序(はじめに)……で始まり

 ●第1条~第10条までが……親鸞上人語録編

 ●中序……異を嘆く趣旨

 ●第11条~第18条までが……本編   八つの異義を取り上げ、間違いを戒める

   ●後序(おわりに)……著者:唯円の思いの文をしたためる、 かなり面白いとのこと

 

   本日、ただこれだけで終わるとつまらないので、親鸞聖人が親子の縁を切った話をつけましょう。

 

 関東で布教していた親鸞上人は、突如京都に上洛いたします。

 親鸞上人のいなくなった関東では、勝手な解釈が起こり、混乱します。

 そこで親鸞上人は、息子の善鸞を関東に送るのですが、 善鸞は人々の歓心を集めるために勝手な解釈で別の教団を作ったりしたので、「浄土仏教の教えをゆがめた」 として義絶したのです。

親子断絶はいつの世でも

                                                                         R2/10/11
 
 歎異抄に入る前に、中興の祖となった蓮如上人の扱われ方を見れば、どうしても同じ中興の祖である曹洞宗の瑩山禅師を比べてしまう。
 
 瑩山禅師の場合は、中興の祖として扱われなかった。
 大本山永平寺ご開山の道元禅師と肩を並べて、横浜鶴見の大本山総持寺の禅寺様なのです。
 室町時代には、どちらが本山か解らぬほど、永平寺は落ちぶれていました。
 江戸時代も永平寺様よりも総持寺様の方が勢いが勝っていたのでしょう。
 
 そもそも中興の祖がご開山と肩を並べるということがあるのか(第三者的に見れば、ご開山の価値を下げることになりはしないか)と思うのだが、歴史的な展開があって曹洞宗はそうなっているのです。
 
 あまり詳しく書くと、思わしくないことが沢山出て参りますので、やめておきます。
 
 1615年徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで総持寺も大本山となり、結果的に両大本山となりました。
 
 大本山が二つあることで、各寺院にとっては負担が倍となり、法要身体作法も二種類あったり、遠忌も二祖様まで含めると普通の宗派の二倍になり、「また来たか」という思いになります。
 
 どちらの本山も今までは修行僧(雲水)がそれなりにいたのだが、これからは少子化で両本山も雲水不足に悩まされそうです。

曹洞宗は二つの本山

◎歎異抄の世界に入ってみる

                                  R2/10/10

 

 浄土真宗にとってなくてはならない著書でありますが、ともすると誤解しやすい書として、中興の祖、八代蓮如上人は発見した途端に歎異抄を封印されました。

 

 歎異抄が日の目をみるのは明治になってからの事です。

 「カミソリ聖教」と名付けられていますが、蓮如様は極めて大切な聖教であるが、機縁が熟していないものには安易にこの書を見せてはならない。

 それは幼な子に刃物を与えるようなものだ。

 

 余談ですけど、たけしさんの番組だったと思うが、意見を申す外国人が「世の中に刃物があるから殺人事件がおきたりするので、刃物を世の中からなくせばよい」と主張した。

 

 すかさずたけしさんが「危険なので、台所から包丁をなくせという論理だな、どうやって料理作るんだい?」

 

 確かそんな内容だったと思うが、要は危険な刃物も使いようだということです。

 

 蓮如上人は「誤解を与える箇所が多すぎる、むしろ世間に出さぬ方が良い」と確信、発禁されたのです。

 

 すると、私の様な門外漢は見ない方がよいということになるのだが、見るなと言われれば見たくなるのが人情ですから、おそるおそるページを開いてみたい。

もし包丁がなかったら

◎所詮、人間は生まれながらにして選択権を持ち合わせていない

                                                          R2/10/9

 

 大金持ちの家に生まれれば良かったのにとか、田園調布に生まれたかったとか、あそこの親の子供であったならなあ、とか生まれた後でいくら我が身を嘆いても、選ぶことはできないのです。

 

 芸能人の様な顔で生まれたかったとか、あんな声なら良かったのにとか、いくら後で思ったとて叶わないのです。

 

 それは宗教でもそうです。

 先祖代々あの宗派なら良かったのに、あの宗教なら良かったのに。

 「たられば」の話をしても、ならぬものはならないのです。

                                                                            

 しかし、商才があれば、大金持ちになることも可能です。

 

 また宗教は「信仰の自由」ですから、どうしても気にくわないならば、変えることができます。

 それから声を変えることはできませんが、美容整形で顔は変えることができます。

 

 不足を言えばキリがありませんし、何処で、どんな家庭で、どんな環境で生まれるかは選択できません。

 

 さてそこでお聞きいたします、世の中で一番幸せな人とはどんな人なんでしょう。

 

 大金持ちで、スター並の顔を持ち、贅沢ができることが幸せでしょうか。

 

 私が思う世の中で一番幸せな人とは…現在の自分の境遇に感謝し、さらにどんな目に遭っても、「ありがた~い」と思える人ではないかと思っています。

家族

◎弥陀の本願(誓願)とは何でしょうか?

                                                     R2/10/8

 

 それは「無量寿経」というお経の中にあります。

 

 阿弥陀如来様が如来になる前は法蔵菩薩であった。

  法蔵菩薩様は48の願を立て、全て成就しなければ如来にならぬと決意された。

 

 特に18番の願は、「一人残さず救いとらない限りは、私は成仏(如来)しない」ということです。

 

 その法蔵菩薩は現在すでに阿弥陀如来という如来様になっていらっしゃる。

 

 ということは、法蔵菩薩の願は全て成就されていて、私共はすでに救われているということなんだ、という解釈です。

 

 ここを腹落ちさせておかないと、浄土系の教えは解らないのではないかと思います。

 つまり、浄土三部経の世界、法蔵菩薩や阿弥陀如来を理解しておかないと法然様や親鸞様の世界には入れません。

  ここから、「ナンマンダブ」を唱えるだけで、浄土へ行けるとつながります。

 (私自身は、この論理からすると念仏しなくとも、何もしなくとも既に救われているのではないかと思うのですが…私の勝手な推量です、ゴメンナサイ) 

 

 板橋興宗禅師様が、曹洞宗大本山の禅寺様でありながら、私の信仰だとしして「ナンマンダブ」を唱えられた、チマチマした我が宗派こそではなく、全ての仏教は同じ仏教だという世界です。

極楽浄土

                                                    R2/10/7
 
 日本史の教科書ではそうなっています。
 
 法然様は「念仏そのものによって救われる、つまり念仏の行が大事だ」と説かれましたが、親鸞様は「信心を持っての念仏でなければ救われない」と説かれました。
 
 その真意を確かめるため、親鸞様が法然様に尋ねられました。
 一体念仏は「行」が大事か「信」が大事か?
 
 そこで門弟全員に、行が大事と思う者と信が大事と思うものを両座に分ける試行をされたのです。
 
 勿論親鸞様は「信」の座へ、「行」の座へも数名、そして最後に法然様も「信」の座につかれたそうです。
 
 つまりお二人とも信に基づく行が大事であるとの視点では完全に一致しているのです。
                                                                                                                               続く

親鸞様

◎ コロナ打撃の困窮寺院に対して各宗派の宗務庁の対処は

                                                                                                                   R2/10/6

  「月刊住職」という雑誌があります、本日届きました。

 

   おそらくかなりの寺院がこの本を読んでいる事でありましょう。

 一般檀家の方でも購読をされている方がいらっしゃいます。

 住職実務誌として全国の種々雑多な事件や法的対処法とか便利で為になる情報が満載なのです。

 

 本日届いた雑誌のトップ記事が、タイトル通りの記事でした。

 

 本当にピンからキリまであるんです。(どれがどの宗派とは言いません)

 ピンは宗費を25%減額。

 キリは、各行事が軒並み中止になっているのに、宗費の納入期限を12月30日まで延長するだけ。

 

 中には、宗費後期分を4割減額するという宗派もあります。

 

 ピントキリではものすごい開きがあるものです。

 

 コロナという緊急(困窮)事態に、自派寺院の為スパッと25%減額するのと、12月まで支払い延長はしてやるけどその代わりしっかり全額徴収させるぞとの差です。

 

 自派寺院に対する思い入れの差が明確です。

 自派寺院が、この宗派で良かった、とも思える瞬間でしょう。

 

  はて、我が宗派は?

コロナで宅法事殆どなし

◎トランプさんはやはり並の人間ではない

                                                                       R2/10/5

 

 最高度の医療の成果もあるだろうが、トランプさんの回復力はすごい。

 五日には退院だといいます。

 

 一時は危ない状態もあったそうだが、それを漏らした側近を叱ったそうだ。

 

 トランプさんの演出かと最初は疑ってみたのだが、ホワイトハウスクラスターで家族や側近が感染しているわけだから、感染したことは間違いないだろうが、回復すればそれをプラスに利用し、選挙戦を格段と優位に展開できるでしょう。

 

 回復すれば、共和党支持者はもちろん、民主党の中でもバイデン氏に不安をおぼえる方も、回復の勢いでトランプさんに投票するかもしれない。

 

 トランプ入院で万歳し、おそらく祝宴をあげていたキムジョンウンや習近平は落胆しているでありましょう。

 

 勿論まだまだ解りませんが、(選挙の直前に重症になることだってあり得ます)回復すればトランプ人気が増幅することだけは間違いなさそうです。

奇跡的な回復力

◎浄土真宗の教えは解りやすかった

                                                                                              R2/10/4

 

 人間は必ず死にます。

 ところが死んでからどうなるのかは、誰にも解らない不安を持っているのも確かです。

 

 その浄土感を解りやすく説いたのが浄土真宗です。

 「なんまんだぶ」」と唱えればどんな悪人でも救われて極楽浄土に行けると説かれたら、スネに傷持つ方でも安心して死ぬことができます。

 

 そして善悪の捉え方も独自の解釈をして、善人づらをしているものこそ悪人だ、その自分は善人だと思い込んでいる者でも救われるんだから、自分で悪人と思い込んでいる者が救われるのは当然だ、という解釈は世間の常識を打ち破りました。

 

 20年くらい前だったと思うけれども、中国管区の研修会で、「曹洞宗の浄土感は何か?」と講師に質問したことがあった。

 

 しどろもどろの答えだったので更に質問した。

「病院のベッドの上で死が間近である患者の前で、講師先生ならどんな浄土感を説法されますか?」と問いかけた。

 

 すると講師先生は、「現代の風潮ではお坊さんが衣を着て病院の中へは入れず、従って患者のところに到着できない」と答えられたものだから、更に質問した。

 

 「患者のところへ到着できたとして、その患者にどういう浄土感を説かれるのか」

 

 講師先生はさすがに動揺して、答えにならない答えで逃げられた。

 

 そうです、曹洞宗には浄土感がないのです。

 そこへいくと浄土真宗は簡単です、「なんまんだぶ」と唱えるだけでいいんですよ。

 それだけで患者は救われます。

 

 死の直前にある方に、浄土そのものを解き明かし、ナンマンダブだけでよいとする浄土真宗には、浄土感が無く、こ難しい坐禅の論理などを説く曹洞宗は歯が立たないとその時思いました。

さて、病院の患者にどう説くか

                                            R2/10/3
 
 世界最大のニュースが飛び込んで来た。
 
 世界最大の感染国の中、そりゃマスクをつけずに移動してればいつかは感染するに決まっています。
  自業自得の最たるものです。
 
 最初このニュースを聞いたときは、トランプさんの演出ではないか、いわゆるフェイクニュースを自分で作って即刻治ってカムバックしてみせる自作自演ではないかと勘ぐったのだが、どうもそうではないようだ。
 
 何しろ選挙直前です、今後軽傷のまま推移するのか、重症化するのかで情勢は大きく変わっていくと思います。
 
 現在は軽い症状だと言われ、世界最高の医学技術によって治療されるのだろうが、トランプさんだって74歳の高齢で肥満体だから、重症化する危険も高いはずです。
 
 でも高齢者だって重症化する例もあれば、ほんの軽傷で治ってしまう場合もあります。 
   何故、人によって違うのかをまだ医学が突き止めていない。
 
 今後、その症状によって、世界の未来が変わってきます。

コロナも蹴散らすのか?

◎仏教には戒律の中で、時々語句が違うことがある

        (一般の方ゴメンナサイ、今日は宗侶に少し理屈っぽく迫ります)

        

 それは五戒でも、十戒(十善戒・十重禁戒)でもそうなのだが、第三に不邪淫戒があります。

  殆ど不邪淫戒なのだが一部に不貪淫戒となっている事があります。

(どうも葬儀の時には、曹洞宗は不貪淫戒を使う伝承のようなものがあります

 

 不貪淫戒はどうやら道元禅師の正法眼蔵が出典である可能性が高い。

 しかし、いくら眼蔵でもちょっとおかしい気がいたします。 

 

 親鸞様は、半僧半俗だと仰って、七人も子供を作られました。

 でも人の道は冒して(外して)いらっしゃらないのです。(浮気や不倫などではなく、正式に結婚しておられます)

 逆に私どもは出家者とはいえ、半僧半俗どころか殆ど在家の方と変わらぬ生活をしております。

 その後ろめたさが、貪という文字を好んで使わせしめるのでは、とも考えたりします。

  (相手が没後作僧であれば、なおさら「貪」はおかしいと私は思うのですが)                                                                 

  淫とは、性欲、色欲、淫らであることと辞書には載っている。

 性欲が無ければ人類は滅びてしまいます。

 

 ①邪……よこしま、道から外れること。 ②貪……むさぼること

 

  ①邪 と ②貪 では、意味が全く違うのではないか。

 

  ① 道を外れた淫を冒してはならない ② 度の過ぎた淫を貪るな 両方を比べてみよう。

  ① 道から外れた淫を冒すなというのは、道から外れていなければ、淫は貪っても良いことになる。

  ② 度の過ぎた淫を貪るなというのは、度を超しているかどうかは個々人の判断によっ  て違ってくるから判断が極めて難しいのではないか。

      その上、人の道を外れた淫が含まれているかどうかも不明確です。

 

  経典には貪・瞋・癡の三毒である貪欲を抑制せよ、との教えがあるから、淫を貪るなという教えは何となく理解はできても、それでは度を超さぬという具体的な「度」の判断がつきかねるという曖昧な教えになる。

 

 ですから曖昧な「貪」と言う文字を使わず、はっきりと不邪淫戒と唱えるのが、本当の五戒(十戒)であると私は確信しています。

 特に僧侶が戒を授けるときに、又は受けるときに(得度式など)、曖昧な不貪淫戒などと授けたり、受けたりしてはならぬと私は思っています。

葬儀

                     R2/10/1
 
 そもそも仏教が伝わって以来、鎌倉時代、当時の常識として僧侶が妻帯をするなどということは考えられないことであった。
 
 そんなに女犯を冒したければ、還俗してからにしろというのが当たり前の考えであったのだが、親鸞様は世間の常識を打ち破り、半僧反俗であると妻帯を実践されたのです。
 
 それは比叡山を下り、聖徳太子を祀る京都の六角堂に100日籠もる修行に入られた95日目のこと、救世観音が現れ告げたのです。
 
 色々な夢告を受けられました。
 
 一つは、近くに法然という念仏者がいる、そこへ行けでした。
 
 もう一つは、厳しい出家者の戒律に縛られ、色欲から離れ切れない苦悩を抱え、悶え苦しんでいられた親鸞聖人に対して観音様が、「もしあなたが、女性と交わりを結ぶ時は、私(観音)が玉女という女になってあげましょう」
 
 男女が結婚して人生を荘厳できる、そこには出家者であろうとも、阿弥陀如来の絶対の救済があることを告げられたのです。
 
 親鸞様の最初の結婚相手は玉日という方です、その方が亡くなって喪が明けてから、生涯の妻となる恵心尼様と再婚されるのです。
 
 ちょうど越後に流罪となられた頃の事です。
 恵心尼様も親鸞様が観音様の化身であるとかたく信じていらっしゃいました。
 
「何たるていたらく、とんでもない堕落坊主」とばかりに、おそらく一般の方から石つぶてを受けられたりしたこともおありだったろうと思います。
 
 しかし世間の仕打ちに対し、仏様からお恕しを頂いた信仰の深さで、それを夫婦で乗り切られたのです。

信仰の力、念仏の力

◎仏教の祖師方の中で一番惹かれる方は親鸞様です

                                                          R2/9/30

 

 浄土真宗の開祖に祭り上げられているのですが、それは、ご本人が亡くなった後の出来事です。

 

 ご自分は、今でも法然上人様の弟子だと思っていらっしゃいます。

 それなのに師匠である法然様の浄土宗を遙かに抜き去り、浄土真宗は日本で最大の宗派になってしまったのです。

 

 でもそのことをご本人はご存じないという、珍しいパターンの宗派であると思います。

 

 珍しいと言えば、空海様の真言宗も珍しい宗派です。

 余りにも空海様が完璧で突出していた者ですから、空海様が指名する後を継げる弟子がいなかったのです。

 

 それを言えば浄土真宗も、親鸞様は自分でも開祖という意識は全くなかったのですから、二世様のことなんて全く考えてもおられなかったのです。

 

 でも浄土真宗は妻帯可能で、親鸞様は先妻が亡くなり二度結婚されており、7人の子供がおり、世代を継ぐのはその子供の中から選択すれば良かったのです。

 もちろん親鸞様御遷化の後のこと、親鸞様は夢にも思っていらっしゃらなかったことでございます。

日本最大の宗派祖師

◎何気なく吸っている空気だって

                                        R2/9/29                               

 

 何気なく吸っている空気だって有り難いことが解ります。

 外から帰り、マスクを外し、手洗い・うがいを済ませ、「ここなら大丈夫」と思い切り空気を吸える幸せを感じませんか。

 

 こういうことが書けるのも、全国の感染者マップを毎日みていても、感染者数の少ない田舎だからかもしれません。

 

 東京では、100人以上の感染者が毎日発表されています。

 そもそも100人ってすごい数だと思いませんか。

 何処へ行っても、マスクをしていても疑心暗鬼の連続でしょうね。

 

 逃げようのない電車内で、くしゃみをしたり、コンコン咳をしたりする人が近くにいれば、キッと身構えたりするでしょうね。

 

 家族だって疑わしい目で見なくてはなりません。

 

 これから寒くなれば、ただの風邪であっても、疑いの眼、そんな咳をしていて外に出かけてくるなと敵視される視線を感じなければならなくなります。

 

 レストランなど飲食店に入れば、どうしてもマスクをはずさなくてはならないのですから、そんな中で近くに咳き込んでいる人がいたら、食事そっちのけで外へ出たくなりますよね。

 

 その上GO TO トラベルで、危険地帯から沢山の方がおいでになります。

 たとえPCR検査を受けて陰性であってもコロナ保菌者かもしれません。

 コロナ感染とインフルエンザとただの風邪とゴチャゴチャになって訳がわかりません。

 

 こうなると、コロナ感染なんて交通事故と同じだと思います。

  いくらマスクをして消毒をしていても、かかる時にはかかるのです。

 外出を控えるといってもスーパーへ食料買いだしには行かざるを得ませんし、自分は家の中にいても、家族がもらってくるかもしれない。

 

 そうなるとやはり、ケセラセラで参りましょうよ。

 

レストラン…マスクを着けては
食べられない

◎本当の生き仏がおられます

                                    R2/9/28

 

 現在、法要の後の法話で、この方を紹介しています。

 誰も真似ができないすごい方です。

 

 それは大分県の尾畠春夫さん、スーパーボランティアで信じられない超人です。

 確か山口県でしたか、2歳の坊やが不明になったとき、到着してすぐ坊やを山頂付近で発見されたのがこの尾畠さんでした。

 年齢が80歳です。

 普通の80歳ならこたつに潜って相撲観戦、野球観戦、暖かくなればグランドゴルフに出かけるくらいでしょうが、尾畠さんはちがうのです。

 

 在宅時は、いつでもボランティアに出かけられるように、畳の上では寝ない、筵か寝袋で寝るのです。

 食べ物もサバイバルの如く、野草を集めて食べたりされるのですが、ドクダミが一番うまいと仰っています。

 奥様が亡くなられてから、ボランティア一筋なのです。

 

 軽のバンでボランティアに出かけている時は、ご飯のパックに即席ラーメンだそうです。

 そのご飯のパックは、普通はレンジで2~3分暖めるのが普通ですが、現地ではそんな贅沢はできないからと、冷たいパックのままのご飯を食べるんだそうです。

 確認しておりませんが、ラーメンは水を入れて柔らかくしてから食べられるのでしょう。

 そしてボランティアの現場では、若い人顔負けでテキパキと動き、指示も出される。

 スーパーボランティアと呼ばれる由縁です。

 

 とてもついて行けるお話ではありません。

 

 幼少時代から不遇な環境で過ごしてこられた尾畠さんは、その不遇な環境に対しても感謝で生きてこられました。

 

 私どもとは根本の心構えが全然違う、本当の生き仏様なのです。

 

 私は仏教の「四弘誓願文」(四つの誓いの文句)を法要の最後にお唱えをするのですが、それは、尾畠さんのような生き方は逆立ちしてもできないけれども、せめてその精神だけは忘れない自分へ戒めとしてお唱えをしております。

ボランティアは肉体労働

◎浮かれ始めるとコロナのガツーンです

                                                   R2/9/27

   本日26日、東京都感染者数270人です。

 東京では、油断をするとたちまちガツーンと感染者数が増大します。

 

 10月1日から「GO TO トラベル」が東京も含めて実施されます。

 

 全国の感染者マップを見ていますと、四国と山陰両県が殆ど白色なので、全国の方が行き先のターゲットにはここら辺が狙い所になるのは一目瞭然であろうと確信します。

 

 先日の彼岸連休も玉造温泉旅館は満員で、当日申し込み者はキャンセルされたとのこと。

 トラベルの本格的な実施は、10月半ば以降となりますが、来客も多くて喜ばしいのですが、コロナの感染率も高くなるのではと喜び半分、心配半分です。

 

 ひとたび旅館でクラスター発生などということになれば、再び全旅館が閑古鳥が鳴く状態に戻ること確実です。

 

 景気を優先するとどうなるかは、アメリカ・ブラジルが証明していますもの。

 

 これから寒くなると、インフルエンザの対策も必要ですし、医療対応も複雑化します。

 

 油断大敵です、感染した方の苦しむ様子や、たとえ退院しても後遺症に苦しむ方のテレビ映像をいつも思い出して、日々、特に高齢で持病持ちの自らの対策を怠らないようにしたいと思います。

そりゃ、楽しいけど…

◎もしもという仮定の空想を考えるのは無意味なのだろうか

 

 現実と仮想(仮定の空想)とは相反するものです。

 完璧な現実主義者にとって仮想などというものは、無意味なことであると思うに違いありません。

 

 でも、空想は物語の発想ということであり、小説家などは空想から始まり、物語を展開していくことによって小説が完結し、その小説に我々が感動して涙を流したりするのですから、あながち空しいという字が使ってあっても、無意味ということは絶対ありません。

 

 宗教評論家の島田裕巳氏が面白い仮想をたてておられます。

 仏教が日本に入ってきた時、蘇我氏と物部氏が争って結局は仏教が受け入れられたのですが、もしあくまでも仏教を拒絶していたらどうなっていたか。

 

 その仮説の元で島田氏は、恐らく日本の国教は「キリスト教」になっていたに違いない、との仮説を立てておられます。

 

 面白い仮説ですが、それは諸説があろうと思います。

 

 神道が勢力を拡大し、神道が日本人の信仰心を深めるような教えを展開していったかもしれないし、日本独自の新たな宗教が生まれていたかもしれないのです。

 

 島田氏はおそらく、中世にキリスト教が入り、キリシタンの取り締まりで、磔(はりつけ)の刑になろうとも喜んで死を選ぶ程の強烈な信仰心を生むのだから、その確率は高いと確信していらっしゃるのでしょう。

 でも一神教ですから、教えの中では隣人愛を説いていても、信仰上は「他の宗教(信仰)を許すまじ」との根本信仰があるような気がして、私は仏教で良かったなあ、と思っています。

小説の始まりは空想です

◎弘法大師様はここだけが惜しいと、個人的には思っている

                     R2/9/25

 

 天台宗を開いた最澄様と高野山を開いた空海様、平安時代を代表する僧侶であり、ともに一宗を開いた偉大な宗祖であります。

 

 最澄様はコツコツ修行を重ねていく努力家タイプ、空海様は天才タイプです。

 真反対のタイプなのです。

 

 偉大な宗祖の方々でありますから軽率な事は言えませんが、タイプは違うけれども良いライバルであったような気がいたします。

 

 一緒に中国へ渡られるのですが、空海様はいきなり密教のメッカ長安青竜寺の恵果大和尚の元へ行き密教の奥義を伝授されます。

 

 一方最澄様は中国で学んだ中で、密教習得の不足を認識していました。

 そのため、空海様の弟子になって教えを請うたほどです。

 更に理趣分釈経の閲覧要求に対し「経を読んだだけでは会得不能、実際の修法によらねばならぬ」との厳しい答えに、最澄様は自分の信頼する弟子を空海様に預けたのです。

 

 その弟子が、密教に魅せられ、もう最澄様のところへは帰らぬとの意志を示したので、空海様もそれを了承したのであります。

 

 もしこれが事実であれば、最澄様の弟子であるならば、一旦、最澄様にお返しをすべきではなかろうか。

 

 いかに最澄様も自分の弟子であるとの思いがあったにせよ、一旦はお返しして、再度空海様の元へ再弟子入りをするのが、人の道ではないだろうか。

 

 人はどうあるべきかを説くのが仏法であるとするならば、これだけは空海様の失点であるような気がしてなりません。

 

最澄様と空海様

◎本日葬儀の104歳のおばあちゃまとの思い出

                                                                   R2/9/24

 

 平成17年に弘長寺の阿弥陀堂(位牌堂)を改築いたしました。

 工事が始まる際、仏像を名古屋の修理業者に送った。

 その時に仏像胎内からまれに見る良好な状態の経筒と夥しい数の文字が発見された。

 

  一躍宍道町有形文化財に指定された。(現在は松江市有形文化財)

 

 この10年くらい前に、先住(前の住職)が位牌堂が倒れそうだから改築せねばならん、と訴えておられた。

 

 しかし、護持会も蓄えが無く、中々機運が高まらなかった。

 

 そこで私は、位牌堂(阿弥陀堂)改築の為の浄罪集め、托鉢を始めた。

 あじろ笠をかぶり、正体が解らないように真剣な托鉢をした。

 

  今日の葬儀のおばあちゃまの地区へ伺い、おばあちゃまの家で托鉢の読経をしたが、誰も出てこられなくて、留守だと思い、次のお宅へ向かって100メートルほど歩いていたところ、後から「ハアハア」息を荒げながら追いついて来たのが、このおばあちゃまでした。

 「イヤー、必死で追いかけてきたわー、あれー、あんたウチのお寺の和尚さんかいね」このときほど有り難いご喜捨を頂いたことはなかった。

 

 菩提寺の副住職とは解らずに、邪険に追い払われることも結構あった托鉢だけに、絶対忘れられない、有り難く尊い喜捨をいただいたこのおばあちゃまは、間違いなく「お浄土行き」決定です。

托鉢の懐かしい想い出

                                                     R2/9/23
 
 例えば殺人裁判で死刑を逃れた罪人は、無期懲役だからといって安穏な獄中生活を送れる訳がありません。
 おそらく死ぬまで獄中で、闇夜の恐怖にさいなまれるに違いありません。
 
 必ず殺された霊が毎晩襲ってくるはずです。
 
 大罪を犯した人は、警察に捕まらなくとも、毎晩自分が殺した霊に襲われます。
 やっと死が訪れても、今度は地獄が待っています。 
 どうあがいて逃げ切ったと思っても、未来永劫逃げ切れる事はなく、因果応報という罰は必ずあり得ると思っています。
 
 曹洞宗を開いた道元様が、善果や悪果は来世でも、再来世でも、その次の世でも必ず現れると示されています。
 
 私が35歳で出家を思い立ち、しばらく実家にいた頃、民生委員をしていた母について見回りに出かけたことがある。
近くに自分の実家はあるのに、人目を避けて河原の木小屋に顔中髭伸び放題で、一人住んでいる方を訪ねた。
 
 近くに家族はいるのだから、食事も運んで貰えているのだけれども、社会と人との交流を断ち切り、一人ぽっちを楽しむ方がいた。
 
 母には心を許しているようだが、それでも話す言葉は「はい」と「えんや」(いいえ)だけであった。
 
 その木小屋を離れるといつも母が言った、あんなところに一人でいて何が楽しいんだろうね。
 
 でも楽しんでいると思うのは、こちらの勝手な判断であって、じつは何かから逃れようと怯えているのかもしれないし、人の心は解らないのです。
 
 私たちはどこにいても、夜になれば平等に闇がやってきます。
 
 曹洞宗を開いた道元様も、坐禅中も全く闇にしてはいけないと示された。
 全く闇になれば、寝てしまう事もあるし、精神に異常を来す可能性も出てきそうだし、道元禅の「覚醒して何も考えない」という、その覚醒の部分に悪影響が出るからだと推測できます。
 

許してくれー!

                                                                    R2/9/22
 
 そりゃ、お寺は夜怖い場所の極地ではありますが、一般のご家庭だって夜暗くなれば怖いのは一緒ではないかと思います。
 
 特に昔は、電気は薄暗い裸電球でしたし、街灯なんてありゃしませんでした。
 だから外はいつも真っ暗ですし、テレビのある家なんて殆どありませんでしたから、家の中だって薄暗い感じでした。
 
  そしてトイレ・風呂は母屋から少し離れた別棟になっていたお宅が多かったような気がします。
 月夜だと月明かりで移動が可能ですが、雲に覆われていたりするとローソクを頼りに移動です。
 
  すると、お寺だけが怖いとはいえないなと、薄らと解ってきたのです。
 
 今でもウチの男の子の孫は、昼間でも怖いからトイレについて行ってくれといいます。
 まだ明るいではないかと言うけど怖いというんです。
 
  怖がりですので、悪さをしたときには、「本堂に今夜一晩閉じ込めるぞ」の一言で途端によい子に変身します。
 
 孫達が怖がるのはお寺の周りにある墓地です、夕方までは墓地の中も走り回っていますけど、日が落ちると「帰りたい」と騒ぎ始めます。
 
 子供の頃は全て土葬でしたから、お墓から火の玉が飛んでた、という話も沢山聞きました。
 今では、燐が燃えるということが科学的に解るのですが、当時は霊魂が飛んでいるというのが常識だったのです。
 
 「お寺はイヤだ」という思いは、この少年時代の恐怖心の増幅によるものだったのです。

火の玉とは霊魂でおじゃるぞ!

◎お寺は怖いということがイヤというほど身にしみた

                                                            R2/9/21

 

 とうとうその夜が来た。

 

 布部村に一軒だけ映画館があった。

 一ヶ月に一度位の頻度で映画が放映された。

 時代劇が多かったように思います。

 月形半平太とか中村錦之助、市川歌右衛門の早乙女主水之助とか熱中して観ていました。

 映画を見た後は、自分も強くなったような気がしていました。

 

 時々時代劇に続いてアダルト映画もその日の内に放映され、途中で「子供は帰れよ」と帰された。

 

 大体夜の放映だったから、帰りは真っ暗です。

 ある日、怪談の放映がありました。

 やめとけば良かったのに、怖いもの見たさの興味も半分ありましたので、近所のお姉さんに頼んで、一緒に観にいくことになりました。

 

 怖くて途中からまともに映像を見ておりません。(牡丹灯籠だったかな)

 

 その帰り道、お姉さんと一緒に帰ったのだが、「我が家の玄関まで送ってもらえないか」とは沽券に関わるような気がして頼まなかった。

 

 しかし、それは後ですさまじい後悔を体験する人生最大のミスでございました。

 安養寺は弘長寺と違い、平地ではなく石段を30段上り切ったところに庭があり、

  そこから玄関まで13メートルを走らねばならない。

   いやいや、石段を登るその前に30メートルほどの参道もある。

 

 玄関に薄暗い昔の裸電球の灯りがついていたが、その日はホヤが切れる直前で点いたり消えたりしていた。

 2,3日前に聞いた祖父の怪談、石段を登った本堂の縁側にある釣り鐘の下に、足がない女性の上半身の幽霊の話を聞いたばかりだったし、今日の「牡丹灯籠」の強烈な幽霊で頭の中は一杯だった。

 

 参道から玄関まで脇目も振らず、猛然とダッシュした、あの早さだと運動会でも一等がもらえたかもしれない。

 石段から玄関までは大声をあげて駆け抜けた、こんな怖い思いをしたのは短い少年の人生で初めてだった、やっと母の顔を目にしたら涙が出てきた。

 

 そして、二度と映画を見に行かないと決意したのだった。

 

 

あーーー怖いよーーー!!

今日のホットダイアリー  8

           

◎小さい頃からお寺は怖いところでした

             R2/9/20

 

 勿論、今はお寺に住んでいて怖いと思うことは全くありませんが、小さい頃は怖くてしかたがなかった。

 昼は何とも思わなかったが、夜が来ると早く寝たかった。

 聞きたくもないのに祖父が、お化けの話をしてくれた。

 祖父は亀嵩の真宗のお寺から食いぶちを減らすため、布部の安養寺にあずけられたのです。

 大方丈様が泊まりがけで法事に出かけたその夜、女中さんと二人でこたつに潜り込んでいた。

 その時、本堂正面の戸がガラガラッと開いた音がした。

 その後続けて、本堂の西序室中(左奥)にある位牌堂の重い扉がまたギギギーッと開く音がした。

 女中さんは、こたつに更に潜り込んで耳に指を突っ込んでガタガタふるえている。

 祖父は十才くらいだったそうです、大方丈さんに「後は頼んだよ」と任されていたので、勇気を振り絞って棒を持ってロウソクに火を灯し、女中さんを伴って本堂の鍵を開けて、「誰だー!」と大声で叫んだが、返事はない。

 怖かったけど、本堂内を点検した。

 すると本堂の正面の戸が、心張り棒が外れて20㎝ほど開いていたそうだ。

 しっかり閉めて奥の位牌堂にいくと、重い扉がやはり20㎝ほど開いている。

 それを思い切り開けて「誰かいますかー」と見渡しても誰もいなかったが、一つだけ位牌が倒れていた。

 それを直して庫裡へ戻り、再びこたつにあたっていたら、今度は庫裡の正面の表戸をドンドンとたたく音。

 「どなたですか」と尋ねたら、何と位牌が倒れていた家の若い方だった。

 祖父は私が怖がるのを楽しむかのように度々その話をしてくれた。

 お陰でお化け恐怖症になってしまった。

 そしてその晩がやって来たのです。.………つづく

 

 

 

 

                               

お待たせー!

◎となりの家に蔵が建つと わしゃ腹が立つ

                                                                             R2/9/19

 

   似たような言葉に、となりの芝生は青く見えるというのもあります。

 

 となりの家に蔵が建った?

 いいじゃないですか、何を気にすることがありましょうや。

 

 となりの家で不幸が起きた。

 

 他人の不幸は蜜の味と言わんばかりに、内心微笑んだりする。

 なにかさもしいですね。(品性が卑しい)

 

 となりの家の好事には一緒に喜び、不幸の時には共に悲しむ、そんな人間になるべきです。

 

 家屋敷が裕福そうで立派であっても、住んでいる人がそれに相応する幸福を感じているかどうかはまた別物なのです。

 

 見栄を張って借金まみれで建てたのかもしれないし、家族の反対を押し切って建ったのかもしれない。

    家は立派でも、家族皆仲が悪く、いつも諍いが絶えないのかも知れませんし、ジャパンライフの山口元会長のように、詐欺で他人を地獄におとしめておいて、その犠牲のお陰で立派な家を建てているかもしれないのです。

 

 今は良いにしても、となりの家の仕事や商売が将来ずっと良好とは限らない。

 一寸先は闇なのです。

 

 立派な家を建てたことによる税も、次の代には重くのしかかる可能性だってあります。

 

 お寺もそうです、先代夫婦がいて私共夫婦がいて、子供が二人いたりするまでは良かった。

 先代夫婦が亡くなって、その代わりに子供夫婦に二人の子供(私にとっては孫)がいた頃までは良かったが、妻が亡くなり、娘夫婦がとなり町に引っ越してからは、息子と二人だけの寂しい生活です。

 良いときもあれば、悪い時もあります、やはり「ケセラセラ」ですね。

 

 

 

立派な蔵ですが

◎仏壇がある日本は世界でも希です

                                             R2/9/18

 

 核家族化している都会はいざ知らず、田舎には必ず仏壇があります。

 何気なく朝ご飯とお茶をお供えして手を合わす、賞状でも頂いたら必ず仏壇にお供えする。

 

 他人から頂戴物をした時や、珍しい者が手に入った時にもまず仏壇にお供えして手を合わせてから頂く。

 

 仏壇にはお釈迦様や阿弥陀様、そしてご先祖様や代々の仏様の位牌が安置してあります。

 我が家の中に仏様の世界があり、その仏様の小さな館が存在するのは世界宗教の中でも日本だけではないでしょうか。

 

 海外から見れば、ミニチャーチ(小さな教会)として映り、素晴らしい考え方として絶賛する外国人の方もおられます。

 

 仏壇文化というものが日本人の心にしみ込んで、いつでも仏様や先祖代々の仏様に護られているという、謙虚で有り難いと思える生活を送れるのは日本独特の文化ではないでしょうか。

 

 しかし冒頭にも書いたように、都会で核家族化が進むと若い人には仏壇文化が受け継がれない現象が生じていますので、親の葬式でも罪悪感もなく、読経なし・お坊さん抜きでも平気で焼き場へ直葬したりします。

 

 こういう現象は仏教の衰退につながり、日本人の豊かな心の衰退につながり、助け合いの精神など薄れて、自分さえ良ければ良い、簡単で安ければ良い、面倒見たくなくても親がいる、という心貧しい、感謝を忘れた文化を作りあげていくような気がしてならない。

 

 「ストップ ザ・直葬」から声を上げて阻止していかなければなりません。

この姿に日本人の暖かい心が宿ります

◎もう一回だけ父の名誉挽回に戻ります ②

                                                                             R2/9/17

 そもそも十七条憲法が満足に読めないのです。

 

  1条:和……やわらぎ、  忤ふる……さかうる、 党有り……たむらあり、

        達れる……さとれる、事を論うに諧う……ことをあげつらうにかなう

      1条だけでもこんなにあるけど読めません。

 

  3条:天……あめ、 地……つち、  下靡く……しもなびく

        

  4条: 群卿百寮……ぐんけいひゃくりょう

 

  5条: 餮……あじわい

 

    ※一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。

 

   このように日本書紀に載っているのは全て漢文による文章です。

   私は恥ずかしながら全く読めません。

 読もうともしなかったし、まして覚えようなどとは、これっぽっちも思ったことはございません。

 

 出題した先生もよくこんな問題を出したものですし、それを小学校5年生で全文スラスラっと書けたというのですからあきれたものです。

見てるだけで頭が痛くなってくる

◎もう一回だけ父の名誉挽回に戻ります

 

 私が昭和61年に宍道町へ弟子・養子として入ったのですが、右も左もわからない状態でした。

 

 そしたら隣の地区の神社の宮司さんが私のところへやってきて、「君は米田恵吉の倅だそうだね」

 「え、父をご存じなんでしょうか」

 「私らの学生の頃、彼を知らない者はいなかったよ」

 

    驚きです、父の本名は「米田恵吉」、広瀬町布部の安養寺へ弟子・養子で入った時に僧名となり「村上光隆」となったのです。

    

    まさか何も知らぬ土地で、いきなり父の旧姓と旧名で語りかけられるとは思ってもいませんでした。

    

    当時、超有名人だったようです。

    

    父は最初小学校5年生から6年生を飛び越して中学生になったのだが、その5年生の時の「飛び級」の問題はどんな問題だったかというと、一問だけ問題が出て、「聖徳太子の十七条の憲法を全て書け」という問題だったそうです。

    

    たまたま覚えていたから書けたそうですが、普通十七条の憲法って覚えていますでしょうか。

    

    有名な「和をもって貴しと為す」くらいは出ても、十七条全部覚えている方はよっぽど聖徳太子に思い入れでもない限りは普通は絶対覚えてないと思いますから、それが書けるなんてやっぱりすごいと思います。 

十七条憲法全て書けるかな?

◎精進料理は仏教の教えだろうか?

                                                                                             R2/9/15

 

 出家した僧侶は、本来は精進料理を食べるのが当たり前と思っている日本人は多い。

精進とは一心に修行するという意味です。

 明治5年に政府通達「肉食・妻帯・蓄髪勝手たるべし」によって仏教界は大混乱に陥りました。

 この時期は神仏分離により、廃仏毀釈が発生した時期と一致しており、政府の仏教を堕落せしめんとする意図がうかがい知れます。

 

 そして現在では、僧侶の肉食・妻帯は当然という寺院文化となっているわけです。

 

 しかし、仏教の源であるお釈迦様は、精進料理なんて食しておられなかったのです。

 

 お釈迦様の時代、一般民衆の食文化は結構豊富な食材でした。

 野菜もあれば肉もあったのです。

 

 お釈迦様は動物を殺す場面に遭遇したその肉や、自分をもてなす為に出された肉は決して食されなかった。

 

 但し、出家者僧団は托鉢により食していたのです。(一日一回の食事)

 托鉢によって、その一般宅で残った食物を頂いて持ち帰り、それを大きな器にいれてかき混ぜ、分配したのです。

 肉が入っていれば拒否するなどという托鉢はしておられません。

 

 だから自分の器に何が入っているか解らなかったのです、肉もあれば野菜もある。

 全ての食材に感謝していただいたのです 。

 

 精進料理は中国での発想です。

 不殺生戒の戒律から生じた考え方です。

 よく考えれば、動物だけでなく植物や野菜にも命があるのですけどもね。

 

 托鉢という食材収集方法によるという限定ではありますが、この条件の範疇では肉食は許されていたのです。

 

 ですから自己弁護ではなく、一概に僧侶は、本来は肉を食べるべきではないという思い込みだけは、再考の余地があるのではないでしょうか。

精進料理

◎着実に老いている実感

                                 R2/9/14            

 

 最近は、以前には考えられなかった失敗をするようになった。

 いつまでも自分は若いのだと錯覚していても、その「若さと老いの区切り」なんてのはない。

 

 日本の民法としての老人は規定できるが、自らの意識の中では、いつからこれは老いだ、この時点で若さを終えたなどと規定できないのです。

 

 つまりは、この生きている現実の中で、いつでも若さと老いが同居しているのだと思うようになった。

 

 年齢が若い時でも、例えば病に取り付かれれば、すぐに老いと死の思考に脳内が占領されるし、年齢が80歳を超えても「何だ、まだまだ能力は衰えていないし、輝かしい明日を感じることができる」こともあり得るのだと思います。

 

 だから100歳を超えたって、いつまでも若々しい思考の方がいらっしゃるし、20歳の若い方でも、すでに人生が終わったようなことを仰る方だっているのです。

 

 ただどんな方でも脳細胞の衰えは、年齢とともに感じるのでは無いだろうか。

 ちょっと前までは考えられなっかった失敗をして、「何だこれは」と愕然とする時が多くなってくるからです。

 

 ひろさちや先生は「生まれたついでに生きているんだ」とおっしゃったが、何故人間に生まれて来たのかその目的なんて解りゃあしないし、死ぬ時期だって、何故死ぬのかだって解らないのです。

 つまりは解らない人生の中で、死について納得しようがしまいが、いつのまにか死んでいくのです。

 そうすると、やはり「ケセラセラ」…なるようになるさで解らないまま仏様にお任せの人生を送るのが、最上の生き方だと思います。

 

こんな人生…イヤだ

◎膝を曲げると急にいたくなり

        正座が出来なくなったことがある                                                                                      R2/9/13

 

 お年寄りでも膝に悩みを抱えている人は沢山いらっしゃると思います。

 

 そもそも私は正座が大の苦手でした。

 お寺がイヤで飛び出したのもそれが一因でもありました。

 15分も正座していると、痛くてしびれてすぐに立てない状態でした。

 2年間の修行生活を終えた時、痛みやしびれがやってくるまでの時間は少し延びたが、

やはりやがて痛みやしびれがやってくるのは同じであった。

 

 体重をうんと減らせばもっと楽になるのは解っているのだが、なかなかそう簡単にはいかないのです。

 

 それでも50半ばを過ぎた頃から、極端に正座が楽になってきた。

 ところが安心をしておりましたら、65歳ころ急に正座の際、激痛が走り正座が出来なくなり、整形外科でレントゲンを撮ってもらったら、薄いけどまだ軟骨は無くなっていないと診断された。

 その時痛み止めの注射を打ってもらったが、痛みは消えなかった。

 

 そのことを境内の清掃手伝いをおねがいしている大工さんにお話ししたら、「私は、通信販売で手に入れた『イタドリ』で治った」とおっしゃったので、即購入、即試したら、一発で治った。

 

 何でも試してみるものだなあ、と感心した。

 

 但し薬が効くかどうかは人によって違うそうですが、痛みのあるかたは試す価値は充分にあると思います。

 

他人にはわからない

◎ここらでちょっと一休み

                                    R2/9/12

 

 父親の名誉挽回にひたすら走ってきましたので、ちょっと一休みしましょう。

 

 皆さんのお宅でも飼い猫がいらっしゃるご家庭もおありでしょう。

 

 今日はその飼い猫のお話をいたします。

 

 うちのなくなった久美子お婆さん(養母)が捨て猫をかわいがっていました。

 その猫、(ミーコ)も自分が一番かわいがってくれるのがお婆さんなので、いつもお婆さんにすり寄って、ノドをゴロゴロ鳴らしていました。 

 

  自分のご主人はお婆さんであることをしっかり認識しておりました。

 お婆さんは60歳過ぎてから免許を取って運転していましたが、いつもお婆さんの車の屋根に登って昼寝をしたりしていました。

 

 お婆さんは、夜寝るときもミーコを自分の布団の中に入れて一緒に寝ておりました。

 ある夜、ふと胸のあたりがゴソゴソするので、起き上がって電気をつけ寝間着の胸からゴソゴソの物体を出してみて、「ギャーーーーッ!」と異様な声で叫んだのです。

 

 それは頭を思い切り噛みつぶされて半殺しになった、血だらけのシマヘビでした。

 その横でミーコが「どんなもんだい」てな顔をしてふんぞり返って座っていました。

 

 多分ミーコは、褒めてもらおうと思って戦利品をご主人様に持って行ったのです。

 その夜からお婆さんはショックでしばらく不眠症になってしまいました。

 

 ミーコはそんなこととは露知らず、お婆さんが「ギャーーーーッ」といってあんなに喜んでくれたから、今度はネズミにしようか、大カエルにしようかを布団の中で考えていたことでしょう。

 

 猫をかわいがってる方はくれぐれも油断めさらぬように!!

次は何をご所望ですか?
トカゲ?ネズミ?

◎父の語学力が戦犯の命を救う一助となる ⑥

                                                  R2/9/11                                  ここで私の疑問の一つでありました古瀬少将のその後について、ある程度想像は出来ていたのですが、納得できる答えを頂きました。

 

 あれだけの覚悟ができていて、莞蕾氏に減刑嘆願などするなと言い置いて、後の可能性も断ち切ったつもりでおられた古瀬少将は、最終的に助命されたのです。

 

 それは莞蕾氏の嘆願がやはり効を奏したということですが、しかしそれはあれほど

「減刑嘆願は止めてくれ」と念を押して頼んだはずなのに、それを莞蕾氏が裏切った結果になってしまったのです。

 

 助命という結果を得て、両人ともに何とも後味の悪い思いを味わうことになってしまIいました

 

 多くの若者の命を奪った軍の最高幹部としての責任の取り方で、喜んで銃殺刑執行の覚悟を決めていた古瀬少将は愕然とされたはずです。

 

 自殺では駄目なのです、銃殺刑こそが自分を自分たらしめるこの上ない責任の取り方であるし、究極の美学でありました……武士道では切腹があるけれども、自分の中ではそれを良しとはされなかったのでしょう。

 

 だから莞蕾氏に対しては、助命されてうれしいどころか、恨めしい思いを持たれたに違いありません。

 多分魂の抜け殻のようになられた古瀬少将を見て、莞蕾氏は「しまった」と思われたでしょう。

 ここで初めて、やみくもに助命嘆願運動すればよいというものではない、立派に銃殺刑にしてさしあげることこそ、彼を救う唯一の道だったと懺悔の念をもたれたに違いないと思います。

 

 そして古瀬氏は、おめおめと生き恥をさらしに故郷へなど戻れるかという思いと、莞蕾氏にも二度と逢おうともされなかったでしょう。

                                      

 安来市出身の女性と、東京でひっそり、申し訳ない思いで生きられたとのことです。

 

 私もこの件に関して深入りし過ぎて、余計な事を書いたことを後悔しています。

 

私の祖父…加納画伯作
今にも絵から飛び出しそうです

◎父の語学力が戦犯の命を救う一助となる ⑤

                                                           R2/9/10

 

     ということで、疑問がわくと早く解決したいので、早速名誉館長である佳世子女史に逢いに加納美術館に出かけました。

 

 お忙しくていらっしゃったのですが、突然の面会にも快く応じて下さった。

 

 思い出せば昨年、故キリノ大統領の親族の方を日本に招待され、そのレセプションに弟の代わりに私がホテル一畑に招待されました。

 

 私は初代館長の奥様が亡くなられて以来、加納家とは疎遠になっていたのです。

 そして佳世子女史の顔も子供の頃からもちろん知ってはいたのですが、余り深く話したこともありませんでした。

 

 私が招かれるのは気が引けるような思いで、そのレセプションに出席しておりました。

 そしたら佳世子女史が、思い切り最高の笑顔で話しかけて下さったのです。

 

 破顔という言葉がありますが、これ以上ないという顔をクシャクシャに崩しての人なつっこい思い切りの笑顔でです。 

 安心してお話ができる方だと思いました。

 

 世間には、初対面から相手の懐にポンと飛び込む術を心得ていらっしゃる方が時々おられますが、まさにそのタイプなんでしょうね。 

 

 今日は美術館の食堂で、2時間たっぷり、思い切りお互いの父親について話しました。

 

 私は今日、女史の会議中、美術館のビデオで涙を流し済みだったのですが、莞蕾氏は平和嘆願に熱を入れすぎて家族の生活などお構いなしだったのです。

 女史は子供時代の生活を思い出し、ぽろぽろ涙をこぼされました。

 

 そして私の話も聞かれながら、「莞蕾と光隆先生は強い絆でタッグを組み、この手紙を明日の朝までに翻訳せよ、など無理難題なわがままを押しつけられたりしていた、その使いを子供の頃にしていて、待たされている間お菓子などを頂くのがうれしかった」

 

 お互いだからこそ深くわかり合える時を過ごし、女史ともやっと深いところで理解し得たような気がいたしました。

 

特攻隊…帰りの燃料はない

◎父の語学力が戦犯の命を救う一助となる ④

                                                                                                                               R2/9/9

    加納莞蕾氏が何故平和運動、特に戦犯赦免嘆願活動を始めたきっかけは、一人の軍人の影響を受けたからです。

 

 それは島根県木次町出身の海軍少将、古瀬貴季氏と出会ったことだった。

 フィリピンから復員した彼と出会い、2ヶ月後に裁判の呼び出しで東京へ向かう古瀬氏を荒島駅で見送る。

 

 特攻隊の命令を下し、将来ある若者の命を奪った罪は深い、自分の裁判結果が出ても、減刑嘆願などするな、という彼の責任の取り方と揺らがぬ覚悟に圧倒され、感動した莞蕾氏は、こういう方を死なせてはならないと思ったのです。

 

 そして5歳の佳世子さんを連れ東京へ、死刑宣告となった古瀬氏の助命嘆願に走るのが平和運動へのきっかけとなったのです。

 

 ただこの古瀬少将が死刑執行となったのか、或いは助命となったのかは、ネットで調べるも定かではないので、佳世子女史に今後伺ってみたいと思っています。

 

戦争…殺し合いです

◎父の語学力が戦犯の命を救う一助となる ③

                                                              R2/9/8                    さて、ここで初代館長の父である加納莞蕾従軍画家に話を移しましょう。

  加納莞蕾氏はフィリピンのキリノ大統領に108名の戦犯赦免を嘆願し、200通以上の手紙を送り、遂にキリノ大統領の心を動かし、105名の恩赦を得たのです。

 

  マッカーサー元帥やローマ法王への手紙もあり、総計300通にもなる。

    キリノ大統領は、日本兵に目の前で妻や子、家族5人をころされて殺されているのです。

 その憎き日本兵を赦せと200通もの嘆願書を受け取ったのです。

 

 その嘆願書や手紙を英文に訳す作業を依頼したのが、菩提寺の住職であり、中学校の英語教師をしていた、父であった。

 

 父は加納氏の意に賛同し、全ての和文を英文に翻訳した。

 

 私が高校生の時、父からの翻訳文書を、当時日立記念病院に入院しておられた加納氏に届けていた。 

 中身の件は全く知るよしがなかった。

 その病室は画材でいっぱいだったが、その中でニコニコしながら応対してくださった。

 加納氏もこの若いボンボンに詳しく話してもまだ解らんだろうという感じで、雑談のみで嘆願の件は何も話されなかった。

 

 まさかそんな大切な書簡の受け渡しをしていたなんて、後で聞いてびっくりです。

 

 キリノ大統領の心に届く文章を英文に翻訳するのは、稚拙な翻訳では駄目であったろうし、おそらく父にも大変な勉強になったに違いない。

 

戦争…殺し合いです

◎父の語学力が戦犯の命を救う一助となる ②

 

 薄基氏は、備前焼き収集に力を入れられたが、ご法事の席で小さな香炉を持ってこられて、「この小さな焼き物1個で、立派な家が一軒建ちます」と仰っていた。

 そう言われても、私には価値も何もわかりませんでしたが。

 

 その内、収集だけでは飽き足らず、自分でも釜を作り、自分で造った陶器をご法事の席で披露された。

 

 もし欲しければ一つ差し上げます、言われたので私は迷わず自作雅号の「如水」の文字入り薄茶茶碗を選んで頂戴した。

 箱も箱書きもないのですが、実際に初代館長さんの雅号入り作品に間違いなく私の数少ない宝物の一つです。

 箱書きはなくても、茶碗にその文字が入っていればそれが何よりの証明です。

 

 「如水」はすぐに黒田如水を連想しますが、素晴らしい名前ですね。

 水はその器に合わせてどんな形にも収まります。

 そういう人生を歩んできたという初代館長さんの思いが詰まっているような気がします。

 

 本当は宝物は箱でもつくって大事にしまっておくべきなのでしょうが、私は正月元旦の家族の年頭挨拶のお茶の時間には、この茶碗で頂くことにしていましたが、家内が亡くなってからは使うことがなくなりました。

 

 初代館長さんの自作茶碗を持っていらっしゃる方はそうそうないのではないかと思います。

 

 その後、加納美術館初代館長、薄基氏も亡くなり、後を追うように奥様もお亡くなりになった。

 

 私が寺報を作るようになってから、加納家に必ず送っていましたが、初代館長さんがお亡くなりになってから、奥様からわざわざお電話をちょうだいして、寺報の内容を褒められた思い出があります。

 

 やさしいご夫婦でありました。

 

宝物の茶碗です

◎父の語学力が戦犯の命を救う一助となる

                                                       R2/9/6

 

 安来市には、二つの大きな美術館がある。

 一つは横山大観の作品収集で世界的に有名な足立美術館であり、もう一つは広瀬町布部にある加納美術館です。

 足立美術館は説明することは不要でしょうから、加納美術館を少し紹介しましょう。

 

 加納美術館は、旧能義郡広瀬町布部村の元村長で、従軍画家だった加納莞蕾先生の長男、薄基氏が私費を投じて開いたのです。

 

  薄基氏は父の教え子で、極めて優秀な方でした。

 広島大学の入学試験に万年筆で解答した方です。

 つまり、学力に絶対の自信があり、消しゴムなど要らないという訳です。

 

 卒業後、起業されました、それは空から航空写真を撮影する会社でした。

 恐ろしいほど儲かって、岡山の古備前や人間国宝と呼ばれる名陶たちの備前焼きを買い集めたのでした。

 

 私がお坊さんに成り立ての頃、父の運転手をしながらお坊さんをしておりましたから、岡山の薄基氏の邸宅に一人娘さんの悲しいお通夜・葬儀にお邪魔したことを覚えています。

 

 その娘さんは、美しい方でしたが、小さい頃からのご病気でお亡くなりになりました。

 

 薄基氏が、涙を浮かべて「とうとう男を知らずに逝ってしまいました」とおっしゃった言葉を鮮明に覚えています。

 

悲しい葬儀でした

◎かなりの方がこのホームページをご覧になってるようだ

                                                                      R2/9/5              先般ある寺族さん(お寺の奥さん)がお亡くなりになり、葬祭会館で葬儀があり、コロナ禍による外出を控える対策により宗門の寺院様方とも接触の機会が奪われてきたが、久々に懐かしい顔ぶれ(ご寺院)にまみえることができた。

 

 特に寺報に対する評価を「格調高い」とたくさん頂いたし、ホームページに対しても「面白い、いっぺんに全部読ませてもらった」などと高評価をいただきました。

 

 お盆の棚経の際も、「ホームページ見てますよ」の声を何人かからいただいた。

 

  私のホームページはあきばれホームページを使っています。

 手順を覚えてしまえば、そして原稿さえ出来ていれば、60分から90分で公開できます。

 良いホームページ業者に出会えたと思っています。

 

 ただ現在は訪問者数の解析アプリが親元で故障をしておりまして、実際どれくらいの訪問数があるのかは全く解りません。

 

 

 台風10号が明後日近づきます。

 特別警報が台風が来る前に何度も警告されるほど曾てないほど猛烈な台風のようです。

 九州の球磨川で先般被害を受けた旅館などでは、女性が涙を流して嘆いていました。

 気の毒でたまりません。

 

 当山も土砂崩れの箇所が心配です。

 何も被害がないことを祈りますが、こればかりは天のみぞ知るのでしょう。

特別警報級です

                                                                             R2/9/4
 
 日本に帰還した父は、田舎に留まる決意をしたようだ。
 
 政府から、ドイツ大使館の事務官としての就任以頼がきても断った。
 戦勝国への就任なら考えても良さそうであったが、敗戦国の大使館だから、満州の引き上げ体験も手伝って、外国へは行きたくないと断ったそうだ。
 その気持ちはよく解ります。
 
 弟の話では、何故七ヶ国語をしゃべれたかというと、建国大学の寮で、フランスやドイツなど欧米各国から来ていたエリート同寮者に日本語を教えてやると言って、日本語の授業を独自に開いたので、そこで各国の言葉も覚えていったとのこと。
 
 一度聞いたら忘れない超記憶力の持ち主でもあったようです。
 
  父は長男ではなかったので、安来から広瀬町布部の安養寺に弟子・養子として入って来た。
 お坊さんになるためには修行が必要なので、永平寺で一年間修行した。
 
 帰って来たときには、永平寺の習慣だと言って、真夜中の朝3時から勤行(読経お勤め)をして家族から「やめてくれ」とのブーイングを受けたそうだ。
 
 お坊さんとともに、中学教師の委任状を受け、布部中学校の英語教師となったのです。
 
                                                                          続く

お坊さん教師です

◎ごめんなさい、若干訂正です ③

                                                    R2/9/3

 

  実家の安養寺住職(弟)から訂正した方が良いと忠告がはいりました。

 正確を期したつもりでも、記憶違いがありました。

 二点だけ謹んで訂正をさせていただきます。

 

 父親は9人兄弟の4番目と書いたのだが、3番目の間違いであった。

 

 もう一つは一ヶ月酔いの後、一旦日本に帰ったというのは間違いで、そのまま満州にいて悪酔いの収まるのをじっと耐えて待っていたのです。

 

 日本に帰ったのは建大4年生、20歳の時、終戦直前で政府の財政も底をつき、日本の敗戦が濃くなり、満州の維持や建大運営が出来なくなってきた時です。

 

 建大生を全員日本に帰し、すぐに今度は改めて彼らを満州に兵士として出兵を命じたのです。

 

 それは、まもなく終戦であることがわかっていながら出兵の命を出したのです。

 

 そのとき少尉の位をもって、兵士として13人の部下を連れて満州に渡りました。

 

 その時に終戦となったのですが、終戦だと知らずに満州に滞在したのです。

 それは敗戦兵となり、捕らえられる身となったことを意味し、命の危険さえありました。

 

 政府は、終戦がほぼ決定していたのにも拘わらず、帰りの燃料のない特攻隊と同じような戦略……つまり「死んでこい」と命じたのだろうと容易に推測できます。

 人の命を軽んじていた証拠ですね。

 

 敵地でかなり遅れて終戦を知った父は、前回書き込んだように、夜行軍で命からがら日本に帰ってきたのです。

 

 記憶違いとは言え、間違った文をお載せして申し訳ありませんでした。

                                続く

 

満州からの引き上げ兵

 ◎大酒飲みの源流はここだった ②

                                            R2/9/2                                       

 

 建国大学では、満州の現地で各村の村長のところに政治見習いとして住み込みの経験をさせられたとのこと。

 

 その村の祝宴に参加した父は、若造として馬鹿にされないようにチャンチュウ(50度以上の焼酎)を一気飲みして倒れた。

 

 二日酔いが普通であるが、彼は一ヶ月酔いを体験している。

 

 一旦日本に帰り、すぐ満州に行き、体調を整えてから仕送りのお金で、チャンチュウを購入して飲酒を鍛えた。

 おかげでチャンチュウを平気で飲める様になった。

 

 「チャンチュウと比べたら日本酒なんてジュースみたいなもんだ」

 田舎で中学教師になっても一生酒をペロリと飲んでいたのも、このチャンチュウ修行のおかげだと豪語していた。

 母を悩ませた大酒飲みの源流はここだったのです。

 

 建国大学の寮には、日本人はもちろん中国人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人と色々な国からスーパーエリートが集まっていた。

 おかげで七ヶ国語を自在に操ることが出来たそうだ。

 

 彼が大学4年生の時、終戦となった、おかげで卒業証書を手にすることはできなかった。

 満州国は解体し、建国大学も解体、運が悪い建大生は捕まり、シベリア送りに処された者も沢山いた。

 彼はすでに20歳ながら少尉の位を得て、部下を13人引き連れて、夜陰に乗じ、語学をうまく使い、国からの仕送り金を賄賂などの逃走資金として使いながら何とか全員日本に帰国できた。

 

 戦争に翻弄され、生死に直面するすごい人生だったと思います。

                            続く                                

満州からの引き上げは想像を絶するものがあった

◎ここで父の名誉挽回をしておかねばなりません  ①

                                                                      R2/9/1                                                                          

先日、私の父のことを大酒飲みのお坊さんとこきおろしたのだが、父の名誉のためにもここで名誉挽回をしておかなければなりません。

 

  父は安来市早田町(宇賀荘は間違い)の農家出身で、9人兄弟の4番目、大正14年生まれ、幼少時から秀才中の秀才でありました。(もちろん私にその血は殆ど流れていないような気がします)

 

  昔は成績優秀者が学年を飛び越える、「飛び級」があったのです。

  父は小学校5年生から6年生を飛び越えて松江中学に編入、そして中学3年から満州の建国大学の2年生に編入した。

  松江中学では竹下 登 元総理と同級生となり、「竹下に数学を教えてやっていた」とのこと。

 

 当時、建国大学は東大より難しいと言われていた。

  その建国大学に2年編入だから、我が親ながら大したものである。

 

 父は経済的に東大は無理だったので、授業料無料で勉強しながら国からお金五圓(給料)をいただけるエリート軍人最高幹部候補生を育成する建国大学に進んだ、今でいう防衛大学みたいなものだが、当時建国大学は東大以上に最難関であった。

 

 それを証明するのに、東大合格者は新聞に名前だけ載ったが、建国大学合格者は新聞に写真付きで名前が載ったそうです。

 現代で言えば、日本人がハーバード大学へ現役首席で合格したようなものでしょう。

    建国大学はスーパーエリートを集めた大学だったのです。

 

 私が曹洞宗宗務庁の布教師養成所に入所したとき、主任講師であった北海道の島崎光雄老師が、自分も建国大学に進みたかったが行けなかったと話された。

 

 だから大変な秀才だったということが良く解ったのです。

 

 惜しむらくは、その頭脳を何故長男の私が受け継げなかったのでしょうか。                  明日へ続く

建国大学生…こんな感じでしょうか

◎板橋興宗禅師を偲ぶ ③

                                   R2/8/31                   

 

 それから2・3年後だったと思う。

  第二教区護持会が一泊の研修会で、御誕生寺に拝登することになった。

 

 板橋禅師が永平寺と並び両大本山の一方の雄である總持寺の貫首を辞して、福井県武生市(現在は越前市)にある瑩山禅師様の御誕生寺を再興して、修行道場として雲水の育成に当たられることとなったが、宗門僧侶は驚いたはずです。

 

 何故なら、大本山總持寺の貫首といえば、宗門のトップに君臨し、それ以上求むることは何もないはずだ、と誰もが思っていたのにあっさりとその地位を投げ出し、地方僧堂に下野するという前代未聞の行動に皆あ然としたものです。

 

 雲水の育成の道場ですが、何故か猫寺と呼ばれる程の野良猫を飼って、山内至る所猫だらけでありました。

 拝登行事が終了し、帰路のバスに乗車直前、お見送りに出られた禅師様に私は近づき、「先般、島根県第二宗務所の禅を聞く会で司会をした教化主事です」とお話申し上げたら、「オー、あの時のあんたか」と覚えてくださっていました。

 ツーショットを希望すると「ウン、いいよ」と快く受けてくださったのがこの写真なのです。

 恐れ多く誰も近寄れないお方とツーショットができた方はそんなにいらっしゃらないと思います。

 

 この写真は、私の一番の宝物になりました。

 

覚えてくださっていました
宝物の一枚

 
  翌日、県民会館、檀信徒研修会「禅を聞く会」当日、教化主事の私が司会だった。
 
 開始10分前に禅師様が司会者を呼んでおられるとのことで、禅師様の控え室へ急いでお邪魔した。
 すると、とんでもないことをおっしゃったのです。
 
 「私の講演は1時間半となっているが、今日は50分くらいで終わるつもりだ、その後は質問を受け付けてそれに答えていくスタイルにしよう。 
 その会場の質問が途切れたら司会者さん、あなたが質問をしてください。
 そのあなたの質問の内容によって、残りの30分が盛り上がるか、そこでプツンと終わってしまうかが決まります。
 すべてはあなたの質問の内容次第です。」
 
 何ということでしょう。
 さらっと司会をして終わりだと思っていた私は、目の前が真っ暗になった。
 ものすごいプレッシャーを背負う羽目になったのです。
 
 そして仰っていたように、講演は50分で終わり、質問の時間が始まったのだが、会場から二人の方が簡単な質問をされて、5分くらいで終わってしまった。
 
 とうとう35分を残して私が質問する番となってしまった。
 
 私は本尊称名について質問いたしました、「曹洞宗は南無釈迦牟尼仏とお唱えするのですが、禅師様はどなたかとの会談の中で、『ナンマンダブ』の方が日本人の心の奥底に染みついているのだと仰いました」
 
 その質問が終わるか終わらないうちに、怒濤のごとく禅師様がしゃべり続けられました。  そして35分を超えても延々と語り続けられ、帰りの列車の時間に間に合わなくなりそうになったので、催促しなければ終わらないほど盛り上がっていただいた。
最後は、「ナンマンダブ」は私個人の信仰である、と締められた。

私の宝物写真です

◎板橋興宗禅師を偲ぶ

                           R2/8/29

 

 本年7月5日、大本山総持寺元貫首、越前市(武生市)お誕生寺 住職、板橋興宗禅師が遷化された。

 

 この禅師様には、参った事件がありました。

 私が宗務所の教化主事をしていたとき、檀信徒研修会で講師として板橋禅師様をお呼びいたしました。

 

 切符と宿の手配を済ませ、いよいよご到着が迫り、宗務所長老師と松江駅の降車ホームで待っていました。

 ところが、その指定した列車から降りてこられなかったのです。

 翌日は県民会館で、研修会の講師をしていただかなくてはならないのに、本人が指定の列車に乗っておられないという事態に、所長老師と蒼くなって探すことになった。

 お誕生寺に連絡したらとっくにお出かけになりましたとのこと。

 列車を間違えられたかもしれないと、駅近くのホテルに電話をかけまくったら、やはり駅前のビジネスホテルにいらっしゃいました。

 しかもすでに無料夕食のカレーライスも食べておいでになりました。

 

 急いでお宿を変更、予定していた皆美館の特別室に移っていただいた。

 所長老師と胸をなで下ろした次第でした。

 

 後で聞いたら、方々で同じような悪戯をやっていらっしゃったことが解りました。

 人の慌てぶりを喜ぶという茶目っ気では済まないような、困った禅寺様ではありました。 

禅師様とツーショット
御誕生寺にて

                                 R2/8/28                 
 
  以前、宍道町仏教会の研修会で、仏像専門講師の先生に対して質問をしたことがある。
 
 それは全国的に数例あるのですが、阿弥陀様の仏像の中に歯を強調した「歯吹き阿弥陀如来」という存在であります。
 それは教区寺院の中にもあります。
 
 私は不思議でならなかった。
 その阿弥陀像を造った信仰深い作者が、歯を見せているからと言って歯を強調したくて造ったとは到底思えなかった。
 
 そこで質問した、「阿弥陀像が、信仰に全く関係ない口を開けているからと言って歯に焦点を当て、それが作者の思いと一致するのだろうか?
その解釈って間違っていないだろうか?」
  
 阿弥陀如来様は確かに仏頂面と言われる容顔が一般的でそのように思い込みがちですが、阿弥陀如来様の働き、特に現在のお働きは何かといえば、それはお浄土での説法なのです。
 つまり口を開けた阿弥陀様というのは、現在お浄土で説法されている説法阿弥陀如来様のことではないだろうか。
 
 お浄土での阿弥陀様は、私のレベルに併せて、私だけのために有り難く説法して下さっている……そこを意識し、強調して造られたものではないだろうか。
 
 その仏像を造った作者は、ヤレヤレ信仰とは全く関係ない、何故「歯吹き」なんだよと、あの世で残念に思って憤慨しておられるのではないかと、私は想像しています。
 
 その講師さんは「それは検証してみないとわからない」とおっしゃったのですが、果たしてどんな検証方法があるのやら。
 

仏頂面の阿弥陀様

 ◎北条時頼の地獄

                            R2/8/27

 

 37年前に発刊された山折哲雄氏の「神と仏」……日本人の宗教観を読んだ。 

 弘長寺開基(弘長寺院殿満資道圓大居士)は、8年前、島大名誉教授の井上先生(中世史)に同行を依頼、出雲地区地頭の成田氏の菩提寺(埼玉県熊谷市龍淵寺)を訪れた時、先生の慧眼で満資(みつすけ)は出雲に来るまでは「成田光助」であることが解った。

 その光助が藤原満資と名前を変えて地頭としてこの出雲の地へ赴任、弘長寺を建てる時、主君:北条時頼の菩提を弔うためにこの弘長寺を建てたと自筆文書に記している。

 

 その北条時頼は、20歳にて執権職を得たのだが、同族の名越氏、三浦氏、千葉氏を撃ったのです。

 若くして執権を手にする代償として余多の同族を殺戮した、その怨念に怯え続け、30歳で出家し全国行脚をしている。

 

 建長寺を建立し、開山を、たまたま鎌倉下向していた曹洞宗の道元禅師に依頼するも断られる。

 道元様を呼んだのも、建長寺建立も、それは全て祟りを鎮めるためでありました。

 

 時頼の菩提寺、鎌倉建長寺を先年拝登したが、建長寺境内には時頼の墓が不明であり、末寺の明月院(あじさい寺で有名)に墓所が存在した。

 弘長寺報に、その時耳にした建長寺境内のある場所を、墓所の可能性として推測で記したら、明月院のご住職にきつく叱責を受けた。

 「まだ学術的に明確になっていないことを軽々に書いてもらっては困る。」

 

 山折氏の著書により、当山開基様の主君の怨霊を鎮める生涯が解り、想像とは全く違う時頼公の意外な思いがひしひしと伝わってまいりました。

鎌倉建長寺様拝登

◎大酒飲みのお坊さんの話

                                   R2/8/26 

 

 実は私の父親の話です。

 中学校の英語教師をしながらお坊さんをするという、典型的な二足のワラジでした。

 無類のお酒好きで、毎晩の様に泥酔しての帰宅である。                           

 母はいつも泣いていた。

 「あなたはあんな大酒飲みになったら駄目だよ」が口癖だった。

 だから父親が反面教師であったのです。

 

 田舎の村だから、飲み屋が沢山あるわけではないから、中学校の宿直室が酒盛りの場だったのです。

 そこで麻雀しながら大酒を食らっていたのです。

 多分その宿直室は昼間でも酒の匂いがプンプンしていたと思います

 

 日曜日は、大体大酒が待っています。

 大酒が飲めるご法事があるのです。

 父は般若心経と舎利礼文という超短いお経でご法事を終了したそうだ、全部で15分足らずです。

 必ず聞かれたそうだ、「もう終わりましたか?」「終わったよ」

 「何でそんなに早いのですか?」

という問いに{早く飲みたいから}

 村の役場が夕方5時にサイレンが鳴る、それまでは絶対に腰を上げない困ったお坊さんだった。

 

 それで通ったのですから、スゴイ時代だったんですね。

もっと飲ませろー!

◎安倍首相が連続政権歴代1位

                                         R2/8/25

 

  これだけ嘘つき・言い訳内閣で長期政権となったのは、民主党政権の悪政ダメージが、国民の脳裏に焼き付いているからだと思います。

  

  つまり今の政権に変わる政党勢力が見当たらないので、仕方なしの政権なのです。

  「まあ、民主党政権よりはマシか」と思えて、その周りの運のよさで最長政権が実現したのであって、「素晴らしい首相」だったからではないのです。

  

  色々な組織でも政権が長いと、何を言っても、何をしても許されるというという誤った観念に支配されるものだということが最近よく解りました。  

 

   ある組織の名誉職会長に「長すぎる」と会員は思いつつも、声の大きさと顔の迫力で誰も猫の首に鈴を付けるものがいない。

 あの迫力で恫喝されれば、何も言えなくなるのでしょう。

 その会長が変わられたそうで、会員さんは胸をなでおろしたとの声が伝わってきた。

 

 そういう方は「引き際の美学」という言葉は知っていても、自分には関係ないと思っていらっしゃるのかもしれない、私も気をつけなくては。

何とか逃れきれたぞ

◎やはり、お不動様の法力はすごかったのです

              R2/8/24

 

  今年7月15日の江の川氾濫洪水災害の日、遠く離れた我が弘長寺境内の駐車場の山側が崩れました。 

 お盆中忙しかったので、中々調査をする気にもならなかったのですが、崩れた土砂の下に弘法大師様八十八ヶ所の尊像数体が埋まっている可能性が高かったのです。

 

 本日意を決して、調査いたしましたら、崩れ落ちた左側が八十四番、崩れ落ちた右側が八十三番でした。

 つまり八十八ヶ所のお大師様の尊像には全く損傷が無かったのです。

 思わず手を合わせました。

  これは昨年、お不動様を再建立させていただいた功徳ではあるまいかと思いました。

 

 82番と83番は隣り合わせで存在しているのに、83番と84番は12メートルも離れています。

 その10メートルの幅の分だけ、83番と84番の間に、ギリギリで土砂崩れです。

 奇跡もいいところです、お不動様の法力をまざまざと見せていただきました。

我が法力を見たか!

                                              R2/8/23
 
  今に始まったことではありませんが、仏教界って極めて世間に対する発言に乏しいと思います。
 如何に正しく生きるかを、お釈迦様が八正道で示されています。
 社会世相・政治・経済等に対して、正しい言動・姿勢に対する仏教的発言など殆ど見当たりません。
 
 曹洞宗でいえば、年初に管長禅師様のご挨拶が大型ポスターで送られてきますので、掲示板に貼り付けています。
 これを見る人は最初は結構いたと思うのですが、マンネリ内容で、最近はチラ見程度ではないでしょうか。
 
 時宜を得たタイミングで、直葬に対する見解などをポスターにすべきです。
 何にも発信しないから、都会では5軒に1軒が直葬となっていますが、「そんなことは人間のすることではない」と何故発信できないのだろうか。
 
 曹洞宗には広報官(報道官)という役割を持つ方はいないのでしょうか。
 発信力が弱いので、世間から注目も全く集めていないと思います。
 
 仏教の側面から世間に対する発信内容は沢山あります、人権・平和・環境をスローガンに掲げているなら、何故北朝鮮や中国の人権、コロナ感染に関する人権に対して発言がないのでしょうか。
 また核戦争が身近に迫っている北朝鮮や米・中に対して、或いは尖閣を含めた中国の覇権主義に対して発信する言葉がないのでしょうか。
 
 あるいは地球の温度が上昇して、世界で異常気象による洪水・河川の氾濫等、環境問題を過小評価したトランプ大統領に対して、発信する言葉はないのでしょうか。
 
 オーム真理教の麻原に、当時優秀な学生たちが何故心酔し信仰したかというと、いつ疑問をぶつけても、麻原が納得できる回答を即答したからだと言われている。
 
 新聞の一面を使ってもよいではありませんか、時宜を得て社会に発信できる組織になっていただきたい。

直葬

◎ワクチンに過大な期待はしない方がいいって

                           本当ですか?

                                                               R2/8/22

 

 ワクチンさえ出来ればと思っていたのだが、これを聞いてガクッときた。

 医療従事者や老人から先に打つというのは有り難いのだが、ワクチンを打っても、重症化になるのは防ぐのだが、それも特に若い人に対してです。

 ワクチンを売ったからコロナに感染しないわけではなく、コロナにかかるのは今まで通りだというのです。

 

 すると老人は、ワクチンが出来ようが出来まいが、どちらにせよ未来は暗いということなのだろうか。(元々未来は非常に短いのではあるが)

 政府の尾見医師は、第二波のピークは過ぎたと言うが、これから第三波、第四派とやって来た時には、ワクチンができていても、若者には有効でも年寄りは今まで通りの三密とマスクの注意が必要な訳だ。

 年寄りは旅行にも行けないし、かかったら最後、覚悟を決めなければならない。

 とすると、頼りになるのは、治療薬の開発を待つだけ、ということになるのだろうか。

 しかしそれも年寄りにはあまり効果無しとなれば、現在のように感染を避ける日常生活を続けるしかないのかも知れない。

 

 治療薬を開発しているという話も聞かないし、やはり我々老人にはお先真っ暗なことだけなのかもしれない。

 

 

老人にも有効なワクチンを!

◎本日は72回目の誕生日です

                                       R2/8/21               

 

  私のような親不孝者で至らぬ人間は、おそらく50歳くらいで死ぬであろうと思っていたが、72歳まで来てしまった。 

 何故親不孝者かですって?

 

 それは、長男でありながらお寺がイヤで飛び出し、弟が実家のお寺を継ぎ、私は36歳でやっとこの弘長寺へ養子・弟子で入ったことからも安易に想像がつきますでしょう 

 72歳というのは、実父の遷化した歳と同じなのです。

 

 孔子が述べています。

  「40歳で 心に惑いがなくなった。 50歳で 天の使命を知った。 60歳では 耳にどんな話が聞こえても動揺したり 腹が立つことは なくなった。70歳になると 自分のすべての行動は 道徳の規範 きはん から 外れることはなくなった」

 大聖人と比較など出来ないことは解っていますが、道徳規範から外れっぱなしであまりの違いにため息がでます。

 

  しかし、本日夕方子供や孫が焼き肉パーティを開いてくれるそうで、楽しみです。

  何とか、いいおじいちゃんでいられて幸せです。

孔子です

 

◎私も熱中症重篤体験者です

            R2/8/20

 10年以上前だったと思います。

 暑い夏でした、丁度お施食会の8月7日、当日でなければできない作業があり、前日の作業で疲れ気味なのに輪をかけて朝の準備と、施食会儀式の導師を致しましたので、疲れはピークになりました。

 まだ、副住職もいない頃で、家内もまだ亡くなっていませんでした。

 

 式後、13人の宗侶の相手と、大田市からお願いした説教師さんの相手をしている時異変が起きたのです。

 身体が思うように動かせなくなりました。

 そして身体があちこちでけいれんを起こしはじめました。

 それも体験したことのない、内蔵や筋肉のけいれんでした。

 説教師さんとお話している最中に、けいれんの痛みに堪える「ウーン」と唸る声を発していました。 

 慌てて、家内と娘がやってきました。

 娘が「お父さんそれは熱中症だよ」

 急いで娘が水と梅干しを持ってきました。

 それを飲んだ途端、2分後には何も無かったかのようにケロリと直ってしまいました。

 その時は、今ほど熱中症という病が知れ渡っていませんでした。

 もちろん私も解りませんでした。

 熱射病という言葉は知っていましたが、当然外で太陽の熱射を浴びることで、屋内には関係ないことと思っていましたから、まさかの出来事でした。

 知識を知ると知らないとでは、死ぬか生きるかの大変な差があることを自覚致しました。

 

 

   

熱中症は怖い

◎棚経、角付けは早いけど暑さは地獄です

                R12/8/14

 

 ハガキで前もって連絡をしていたので、お檀家様の対応は誠にスムーズで良かったのですが、中に入れない分とにかく暑い、コウモリ傘を日傘代わりにさしていたのですがとにかく暑い。

 午前中は初盆のお宅へ伺ったので、祭壇まで上がって、フェイスシールドで読経、クーラー扇風機バッチリで快適でしたが、午後からは再び門付けを致しました。

 丁度2時からの読経は、頭がボーッとして倒れそうになりました。

 体調も崩れ、夕方帰ってからも何もする気になれない、勿論ホームページなどタッチできない状態になりました。 そこで暫くお休みします。

 

立ったまま外から祭壇に向かって読経

 
           R2/8/13
 
 さて、13日お盆の一大行事である棚経が始まりました。
 
 事前にハガキで案内していましたので、お檀家様の対応もスムーズでした。
 
  昨年までのように宅に上がって、ご丁寧な挨拶を受け、読経が終わって飲み物がセットしてあったりすると、一軒当たりかなりの時間を消耗するのですが、何と早い、早い!
 
 当山では、県外遠方を除いておよそ300軒を八日間、住職と副住職二人で 廻り切ろうとしておりますが、この分ではそんなにかからずに廻れそうです。
 
 和名佐・玉湯町・松江市や東出雲町を廻ったのですが、ナビがありますので本当に助かります。
 新しいお宅で記憶が曖昧でも、住所か電話番号を打ち込めば、ナビが正確にそのお宅まで連れて行ってくれます。
 
 便利な世の中です。

いつものようにはできませんが

◎秋葉三尺棒大権現供養祭厳修

                                                R2/8/10

 

    今日、本来は弘長寺地区自治会と合同で夏祭りを開催予定だったのですが、コロナ禍で中止となりました。

 

 その夏祭りのイベントとして、いつもは8月31日に供養祭を行っている秋葉三尺棒大権現供養祭を夏祭りに合わせ、期日を本日に移動させたのだが、夏祭りが中止となったため、秋葉供養だけを修行することとなった。

 

 炎天下を避け、夕方5時から開始という設定でしたけれども、真っ昼間よりはましでしたが、やはり暑いことには変わりがありませんでした。

 10人ほどが集まられて、準備片付け等、お手伝いをしていただきました。

  

   是非来年は、お祭りに合わせて盛大な供養祭が出来ることを望んでいます。

実はその正体、
カラス天狗だったのです

                                                              R2/8/11
 
  やはり、コロナの威力は強烈です。
 
 山陰中央紙面トップで大々的に発表された。
 
 いっぺんに全国規模で有名になってしまいました。
 
 8月8日着のハガキで、「今年の棚経は宅の中へ入らずに、祭壇に向かって外から門付けで読経します」と案内を出したのがドンピシャで当たりました。
 
 棚経対策では宗務所内でも、色々なやり方があります。
 
 勿論、棚経なんてしたこともない寺院や、お盆にお檀家様を一度に招集し、本堂で一回読経して終わりの寺院もあります。(簡単でいいのですが、それは棚経とは言えないと思います。)
 
 やはり、一年に一度はお檀家様の仏壇・精霊棚に手を合わせて読経するのが本来の棚経でございます。
 
 炎天下を歩き、僧侶が修行する姿をお見せするのが、僧侶とお檀家様両方にとっても本来の功徳が生まれるものと信じています。
 
 今年は宅へ上がり込むことはできませんが、最低限の修行をしたいと思っています。

サッカーの名門校だったが…

 
  今日は昨日厳修した施食会にて供養したお塔婆を取りに、お檀家様がお寺に参ってこられました。
 
 コロナ対策で、個別に、密にならないように上手にお詣りいただきました。
 塔婆を取りに来る期間は三日間なので、お檀家様もゆとりをもってお見えになりました。
 
 施食(餓鬼)の仕組みも素晴らしいと思います。
 
 餓鬼道に落ちたりしている恵まれない精霊たちに食を施して、その功徳を我が家の先祖 代々の精霊に回向して功徳を授かる仕組みです。
 
 施食棚に餓鬼飯を置き、普通の法要には無い供え物や雰囲気を醸し出し、教区の僧侶が集まって行ずる施食会は、僧侶の目から見ても迫力あり、圧巻です。
 
 今年はコロナでこのような対策をしましたが、昨年まで37年間毎年、150人近く修行されます。
 
 だから当山のお檀家様は本当に信仰深い方たちが多いと思っています。

これが餓鬼だ

◎無事に施食会を厳修

 本日コロナ対策での施食会を厳修できました。

 お檀家様なしでの施食会は初めての事です。

 野球の観客無しの試合と変わらないのではないかと思います。

 お檀家様には、明日から3日間、朝8時から夕方6時まで、個別にお塔婆を取りに来ていただきます。

 今年は、準備が中々はかどらずに苦労しました。

 当日の朝8時ごろ、何とか整った時にはホッとしました。

 今回はビデオを撮影し、式を見たいとおっしゃる方のために、DVD化してさしあげることと、テレビ会議で有名

 な「ZOOM」を使って初試行をして、直前まで音響設定ができずヒヤヒヤしましたが、何とか成功致しました。

 

お詣りのお檀家様0は初めてです

◎悟りについて

         R2/8/6

お釈迦様は35歳の時、一週間の坐禅でお悟りを得られたが,その悟る方法や内容は明らかにされていない。

 悟りは真理を明らかにすることであるが、誰もが悟らねばならぬというものではない、私(釈迦)の悟りの方法など、私にしか出来ない超難解な技術であった。

 その私が人類の代表として悟り、真理を得て、その真理に従って法を説いているのだから私の説く教えに従いさえすれば良いのに、そして絶対不可能なのに、何故私が悟った様に再び悟り(真理)の瞬間を求めようとするのか 。

 私の説いた法そのものがさとりであり、真理なのだ。

 悟りへの道程も解らず、もし悟ったなどという者がいたら、絶対に私と同じ悟りではないはずだ。

 つまりいくら坐禅しても、ただの悟り真似坐禅にすぎないのだ。

 坐禅によって、自分を見つめ、心を落ち着かせたり、物事を深く考える坐禅を否定するものではないが、坐禅によって悟りを得ようなどということは考えない方が良い。

 

 私と同じように坐禅によって悟ろうとするのは、100%無理なことであるし、必要のないことだ。

 すでに真理を私が説法で表しているのに、それでは不満ということなのか。

 お釈迦様はそんな想いで見つめていらっしゃることでしょう。

ウ~ン、悟りはまだか

◎久々のビッグニュースでした

                                          R2/8/5                         

 

 昼テレビを見ていたら、大阪府の吉村知事が「ウソのようなホントの話」としてうがい薬(ポピドンヨード)がコロナ重症化を止める効果があるとの衝撃発表がありました。

 

 コロナウィルスは唾液に菌が増殖する、したがってうがい液のポピドンヨード液のヨードが殺菌力が強いので、舌廻りと喉をうがいすれば重症化を防げるとのこと。

 つまり外出から帰宅してすぐポピドンヨードでうがいをすれば、感染しづらいのではないかという訳だ。

 予防効果は解らないが、それも充分考えられるとのこと。

 強い味方が現れた。

 これはすぐに買いに行かないと無くなると思ったのですが、興味津々だったので、ついついテレビを見続けていた。

 ハッと我に返り、2、30分 遅れて出発、松江と出雲はおそらく完売だと思ったので、斐川に向けて出かけた。

 

 すると一軒目と二軒目ドラッグストアーはすでに完売でいつ入荷出来るか解らないとのこと。

 諦め気分で3軒めに入ったら、大瓶のうがい薬が一個だけ残っていた。

 本当にラッキーでした、何か宝物を拾ったような気になりました。

 子供や孫に分けてやります。

 

 やっぱり諦めてはいけないと思いました。

 私は良かったのですが、おそらく全国のうがい薬が店頭から消えていると思います。

ヨードのうがいが大切だった

                                                                      R2/8/4
 
 
      インドは、日本とは環境も、当時の風習も違えば、国民性も違います。
 
 インドでは小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教に分かれました。
 小乗仏教は自分が瞑想により、自分で悟ることを目指した仏教です。
 自分が悟るまでは他を救うことはしませんでした。
 
 ただお釈迦様は、瞑想の仕方、瞑想の中身、悟り方・悟りの内容(何が悟りか)については何も語っておられませんのに、どうして悟りや悟る方法が解ったんでしょうね。
 全て自己満足の世界ではないでしょうか。
 
 それは、中国から日本に渡っても、悟りへの憧れは無くなりませんでした。
 悟り至上主義から禅宗も生まれています。
 
 お釈迦様の教えの真意はそうではないと、それに対抗して出て来た仏教が大乗仏教です。
 そしてそれが中国に伝わると、中国人独自の解釈で大きく変化し、大乗仏教の中でいくつかの宗派に分かれていくのです。
 
 だから日本の仏教は中国仏教の影響を沢山受けています。
 
 中国では廃仏毀釈もありました、仏教が受難した時期も何回かあります。
 仏教も種々の変化・体験を経ながら日本に入り、日本でも時代背景によりまた変化をしていったのです。  続く
 

仏教伝来

                                                                   R2/8/3
 
 コロナ感染拡大は目を見張るほど強烈だ。
 特に東京を中心とした関東エリアは酷いもので、特に東京は病床ホテルも満室、自宅療養も増え、同時に家族クラスターも増えています。
 
 家族が感染した家の対応をテレビで見た。
 
 家族がバラバラで家族崩壊が起きている、隣近所の目も怖い、子供たちは学校で「ばい菌」呼ばわりされされるのが怖くて家にいるしかない。
    でも同じ家の中で、いつ感染するか分からない。
 
 悲惨な状況だ。
 
 若い人でも、健康な人ばかりではないので重症者はいます、高熱で呼吸がしづらく、まさに死線をさまようような画像も見ました。
 
 全国でも毎日感染者数が激増しています。
 
 これだけの感染力を持つコロナに対して、政府は「お年寄りへの感染は気がかりだが、安全対策に留意し、慎重に気をつければ、お盆の帰省も家族旅行も大丈夫です」という。
 なんという無責任さであろうか。 
 
  沖縄では医療体制ひっ迫とのことで、県独自の「非常用事態宣言」を出した。
 
 国の施策に惑わされず、県独自の対応をどんどん進めるべきだし、個人も非常事態宣言が出ていると思って行動することが大切です。

こうはなりたくない

◎芥川賞作家、立原正秋氏の随筆集から

                                                R2/8/2                                              

  故立原正秋氏の文は読みやすく美麗です、真似をしようにも文章能力が追っつかないので諦めました。

   立原氏が永平寺の拝観をした文が載っていたのを思い出しました。

 

 突然、雲水が怒鳴りつけてきた、「山内は坐禅修行中なので静かにしろ」

 そんなに大声ではないのに、永平寺の警察官の如き態度です。

    参拝客を怒鳴る自分の声の大きさはさておきである。

 

 立原氏は、「本当に修行の為の静寂が必要なら、参拝客を全てシャットアウトすべきだ。」

 拝観料を取っていながら、参拝客を怒鳴りつける法はないのではないか。

 

 怒鳴りつけるより、最初に受付でよくよく言い聞かせるべきである、そんな文だったように思う。

 

 神聖な場所であるが故に、その神聖さを壊すような仕組み・態度に一喝でありました。

永平寺の修行僧

◎そりゃ、自明の理ですよ

                                  R2/8/1

 

 一日の感染者は全国で1,500人、コロナ感染拡大は留まることをしらない。

 感染が収まりきっていないのに、GO TO トラベルで県をまたいで往来可とした政府の責任は重い。

 

 政府直属の専門家は政府に対して緊急対策を提言しているのに、政府は「自治体の仕事」と言わんばかりに国会も開かず、未だに知らん顔だ。

 アメリカ・ブラジルを見よ、それに比すれば何てことはない、と言いたいんでしょうね。

 つまり、経済効果の代償で、多少の感染拡大はしようがないと踏んでいるのです。

 

 地方だって一時は久しぶりの観光客で賑わいはあっても、結局は感染拡大で、自分の首を絞める結果で、窮地に追い込まれています。

 

 別の意味で、岩手でも遂に感染者が出たことに安堵しています。

 島根・鳥取でもちらほら感染者出現、ウカウカしていられません。

 

 業界から攻められての緩和策だったのは理解できますが、政府の中に、「まだ早い」と諫める声はなかったのでしょうか。

 

 今回の第2波は政府の無策によって、まだまだ拡大すること必至です。

 

 政府が頼りにならないとなれば、自治体がどんどん緊急事態宣言を出して、自らを守る手立てをするしかありません。

 

改めて基本に帰ろう

◎時には鏡を覗いてみる

                               R2/7/31              

 

 昔、ある本で読みました。

 確か博物館ではなかったかと思います。

 

 箱が置かれた机の説明文には、「世界で一番残酷で、凶暴な生物」と書かれていました。 

 箱の蓋をおそるおそる開けてみると、鏡が一つ入っている。

 なるほど、「世界で一番残酷で、凶暴な生物」というのは、「人間さん、あなただよ」という訳なのです。

 

 そりゃスーパーでは、お肉がパックで売られているけど、牛が、豚が、鶏が殺されているということです。

 

 お魚だって、お刺身や、焼き魚となって食べるのには、何とも思いませんが、主婦たちが、自分で開いて、内臓を取りだした調理の後では魚の味が落ちると聞きます。

 

 私たちの身体を保つ為には、お肉や魚ははぜったい必要です。

 お肉を食べる時に、動物が殺される場面などを思い浮かべる方はいないと思うのですが、でも、せめて、「いただきます」と手を合わせる位はしてもバチは当たらないと思います。

 

おいしい肉・魚ではあるが

◎この人は本当に視線を国民に向けているのだろうか

                                                                 R2/7/30                   

 

 不人気マスクの象徴であった、国民に2枚づつ配布した安倍総理のマスク。

 もう忘れかけていたんだけど、二度目の配布ときいて、開いた口がふさがらなかった。

 

 鼻と顎を同時に覆い隠すことのできない小ささと、虫が入っていたりする不良品の多さで、このマスクが不人気ということは、総理自身もよく解っているのだろうが、配布せざるを得ない理由が総理には存在するのだろう。

 

 そこにはマスク業者との癒着や、袖の下裏取引の匂いがプンプンする。

 

 だから国民がどう思おうが、どうしてもこの事業を完璧に遂行しなければならなかったのだろう。

 

 安心できるマスクが店舗に充分ある現在、送り先の介護者や保育者が、たとえ政府から送られてもその小さいマスクは絶対使わないと答えているのに、政府は有意義な政策だと無理矢理展開するつもりです。

 同じ税金を使うのであれば、何故医療従事者に対して、不足している防護服や特殊マスクの方に使わないのか、不思議でならない。

 

 支持率は落ちるし、コロナに加えて災害も多発、先行きは不透明だし、総理もやぶれかぶれなのでしょう。

 最近、顔が見えなくなったので、西村さんが総理かと勘違いしてしまいます。

                                                         R2/7/29
 
 コロナ対策で、窮地に陥っている劇団四季の現状が映された。
 浅利慶太氏を亡くし、その意志を受け継いで、コロナのため公演が出来ずとも、絶対潰さないぞとの強い思いで、赤字経営で苦悩する現況を知りました。
 
    若い頃劇団四季にハマったことがある。
    シェークスピア「ベニスの商人」で浅利マジックの虜になってしまった。
 
 シャイロックという金貸しがアントニオにお金を貸したが、船の難破によって返せなくなってしまった。(後で実は難破せず無事と言うことが判明)
 
 お金を貸すときの契約は、「返せないときは肉1ポンドを切り取ることができる」という契約でした。
 
 金貸しシャイロックは提訴し、裁判官は「肉を切り取っても良いが、血は一滴も流してはならぬ」と判決を下す。
 
 つまり物語では、肉を切るなどという残酷な金貸しに対し、大岡越前の守ならぬ名裁判官が金貸しを困らせ、痛めつける設定なのだ。
 
 それを浅利慶太氏は、「金貸しが、金を返せ、出来ぬなら肉1ポンドをよこせというのは、キチンと契約を交わしているのならそれはそれで極めて正当だ」という視点での衝撃的な演出でありました。
 
 その演出を見たとたん、観劇マニアにハマりこんでしまいました。

ベニスの商人

◎お経には、亡くなった人への説法は一つもない

                                                               R2/7/28

 「今年は父の・・回忌の法事ですので読経をお願いします」お檀家様からはこういう具合に頼まれます。

 お釈迦様の説法がお経になっています。

 しかし考えて見れば、お釈迦様が、亡くなった人に対して説法された事は一度もありません。

 全ての生きている人に対して、「この世の中はこうなっているのだから、こういう風に逆に考えたら、悲しい事もそんなに悲しく思うことでもないんだよ」とか、「人生苦しいことがいっぱいあるけど、苦しさの中で人格を磨くために、仏様がわざと苦しさを用意されているんだよ」

 と、対象は死者ではなく、生者に向けての説法が経典の中身となっているのです。

 すると、私たちの亡くなった人(ホトケ)のためのお経ではなく、生者(今、生きている私)がその教えを納得できるように、読経の後で、本来はお坊さんが解りやすく説かなければならないのです。

 私ども僧侶は、「お経拝み屋さん」になってはいけないのです。

 

 すると、僧侶も、法事を頼む方も、一番肝心なことをパスして「読経してもらったから、これで父も成仏できるだろう」とそれだけを納得し、全く勘違いして法要を行っている事になります。

 本当は法要を通して、自らに対して、お経が叫んでいる内容(命をもらっている私の生き方)を理解・納得し、教えの如く生きようと誓うのが、本来の法要の意義なのです。

 だから僧侶の側が、意識革命をして、もっと法話に力を入れなければなりません。

一体誰のための法要?

                                  R2/7/27          
 
 今日のダイアリーが100話という一つの区切りに到達しました。
 自分の中で「おめでとう」と祝いたいと思います。
 
 ほんまにこんなこと出来るんだろうかと、おっかなびっくりで始めたのですが、振り返ればもう100話ですか。
 
 そりゃ100も連日書けば、「オッ」と目を見張るような文もあれば、「何じゃこれ」とガッカリするような文もたくさんあります。
 
 あっという間に仕上がることもあれば、一晩中考えても文がまとまらないこともしばしばです。
 
 でも文を書くという技術が思っていたよりも難しいと思い知らされました。
 
 ただダラダラ書くのはできるんですが、なるべく短い文章で最後にピシッと締めなくてはならない、と思うと、ここでこの言葉を使うことが果たして的確なのか、とか、その言葉がじゃまをして締められないということも起きてきます。
 
 締め(落語で言えばオチ)がないと、当然ながら文は締まりません。
 
 読んでいる方が、簡単に締めを想像出来るよりも、含みを加えて数秒後に「なるほど」と思えるような締めを理想としているのですが、なかなか思った通りにはいかず、考えているうちに睡魔の誘惑にオチてしまうのがオチなのです。

ウ~ン、次の文が出てこない

◎やはり中国でも、ものすごい洪水

                                                     R2/7/26

 

  日本だけかと思っていたら、中国でも大洪水が発生していた。

 

 危険水位に達して、ダムが放流された、日本とおなじように下流域の村が幾つも水没していた。

 

 ついこの間、文章を書いた桂林も例外ではなかった。

 水墨画どころではない、濁流暴れる川に変貌していた。

 

 当山も、水の犠牲になって駐車場が崩落で土砂災害となった。

 

 悲しい現実ではありますが、家を流されたり、家の中が土砂で充満して絶望の境地でおられる方のことを想えばまだましかもしれない。

 

 今年は台風が来ないのが不思議だけれども、八月頃まとめて、強烈な風速80メートルなんてのが毎週来たりしないですよね。

 

 今更ながらこの気象状況を作り出したのは一体誰なのかを思い起こそう。

中国でもダム放流が

                                                 R2/7/25                                          
 
  国会で主張された、東大・児玉教授のご意見は、驚くべきものだった。
 すぐに50万人の新宿区民全員をPCR検査しないと、八月は目を覆うばかりの光景になるとのこと。
 
 現在の感染拡大を見ていると可能性は高いように思える。
 
 小池知事は1日1万人を目指しているのだが、それでは間に合わないので、政府が主導すべきだと教授が主張された。
 
 ウィルスが進化して変化すれば、いくら現在ワクチン開発が進んでいようとも、せっかく完成したワクチンが効かないということも考えられるとか。
 
 武漢型から西欧型、東京型から埼玉型と変化しているらしいです。
  今日の中央新報「こだま欄」にも、全国で感染拡大しているのに、何故今、GO TOキャンペーンを推進するのかと、政府の姿勢を疑問視する声が載っていた。
 もっともなご意見です。

PCR検査

◎継続は力なり

                                  R2/7/24                                       

 

 お坊さんになってから、朝のお勤めをほぼ毎日続けて来た。

 若い頃は毎朝5時起きでしたが、いつの頃からか6時になり現在までその時間が定着している。 

 おかしなもので、たまに寝過ごして朝のお勤めが出来なかった時は、一日中なんとなく調子が悪いのです。

 そういう時には7時になろうが8時になろうが、ご本尊様に礼拝だけはするのだけれどなんとなく身体の動きが鈍く、運もついて来ないような気がするのです。

 

 朝のお勤めをする一番の御利益は、仏様に護られている想いと、お坊さんであるという自覚を保たれることと、お経を忘れないというこの三点だと思っています。

 お経は一度覚えたら絶対に忘れないというものではなく、読経の頻度が少なくなればやはり忘れて行くのです。

 

 読経はリズムで覚えこませてお唱えをするのですから、読経の頻度が少なくなれば、そのリズムを忘れて行くのだと思います。

 

 勉強だって、一夜漬けなんてその時だけで、一定期間過ぎればすぐに忘れてしまいますが、一日の中で、一番頭にスンナリ入って、覚えた事柄に持続力がつき、脳が活発に動くのはやはり早朝です。

 

 早朝の空気を吸い、目覚めの新鮮な脳をふんだんに使いこなすのが、身体にとってもリズムを刻み込むのにも最適なのだろうと思っています。

力がみなぎるし,
     リズムにも乗ってるぞ~!

 
  いよいよキャンペーンが始まった。
 めったにない四連休でしかも政府からお得な補助が出る。
 全国的に第二波の感染が広まっていることを思うと、うかうか旅行を満喫する気分にはなれないと思うのだが、破格にお得な補助をもらえるならば、少々の危険は覚悟の上で贅沢気分を味わいたいのかもしれない。
 
 例え当日、少々熱があり、気分が良くなく、味覚も臭覚も無くなろうとも、家族の喜んでいる姿をみれば、「今日は止めようか」なんて絶対に言えない。
 
  しかしよくよく考えればこのお得な補助は全て国民の税金なのだ。
 うがった見方をすれば、感染拡大の為に税金を使っていると思えるのは、うがった見方が過ぎるのであろうか。
 
  そりゃあ観光業、特に旅館経営には久しぶりの収入の機会で、これを見逃す手はありません。
 
 しかし、2週間後に果たしてどんな結果が現れているのやら、心配です。

行きは良い良い、帰りは……

◎昔の葬儀は必ず自宅でありました

                                           R2/7/22                            

 

 今は、JAや民間葬祭会館で行われる葬儀が殆どですが、昔は必ず自宅でありました。

 

 今は、仕上げはお弁当が殆どですが、昔は必ず仕上げの席に着きました。

 

 死場組のご婦人方の腕のふるいどころで、仕上げの料理は精進料理で、豆腐の入ったすまし汁に煮物、特に大きな油揚げが必ず入っていました。

 その油揚げの塩加減が地区によって皆違いました。

 

 悔やみを受ける場所が、違う家に設けてあればよいのですが、大抵が遺体が置いてある部屋と隣り合わせの次の部屋が当てられました。

 すると内諷経読経の最中に、悔やみ受けの挨拶とか全部聞こえてきます。

 

 台所のご婦人方も久しぶりに隣保が寄り合ったので、和気あいあいとなり、内諷経の葬儀中でも悲しい場であることをすっかり忘れ、かなり大きな笑い声が聞こえてくることもありました。

 あまりひどい時は注意をさせていただくこともしばしばでした。

 

 また、寄り方さんも少し離れた場所で集まり、葬儀中でも世間話がはじまり、どっと大笑いする声が聞こえたりしました。

 

 ついウッカリ葬儀という場を忘れて世間話に興じる気持ちも分からないのではないのですが、よく注意させていただきました。

 

 困るのは、役僧で呼んだ他寺の住職さんが、悲しい場なのに面白話をされ、悲しい場なのに悲しい顔を作れない、むしろその話を思い出し、微笑んでしまうこともよくありました。

 誠に申し訳ないことでありました。

 

ここで思い出し笑いをしてはいけない

◎葬儀も変わり、墓事情も変わりました

                                               R2/7/21

 

 

  昔のお葬式は土葬なので大変でした。

 

 つまり遺体のままお墓に入れるので、結構穴掘りの1人当たりの遺体墓面積は大きかった。

 現在のようにドライアイスなどない時代は、日を置くほど匂いがすごかった。

 

 当時は隣保で死場組を作り、穴掘り役が当番で当たると、穴を掘るのも大変だったと思う。(私は体験していませんが)

  雨が続いて、湿った泥なら掘りやすかっただろうし、逆に天気が続いてカチンカチンに乾燥した泥など、 穴掘りも労力が半端ではなかったのではないでしょうか。

 夫婦墓なら二人分が入る相当深い穴を掘らねばならなかった。

 

 葬儀が終わると、即行列を作り、棺桶を担いでお墓に直行しなければならない。

 現在のように遺体を焼いて、即遺骨にするのであれば、49日まで、あるいはそれ以上遺骨を祭壇に飾っておくことも可能だけれど、昔はそうはいかなかったのです。

 

 土砂降りで雷雨の中でも、台風が来ていても、大雪で猛吹雪でも行列をやめる訳にはいかなかったのです。。

 特に長いくねくね道の急斜面で、大雪で滑り易い、危険な道をどうやって行列で登られたのでしょうか。

 多分滑落事故もあったのではないでしょうか。

 

 平成の初め頃まではまだ土葬が残っていました。

  私が体験したその最後の土葬が、普通に登るだけでも30分はかかる急なくねくね山道を、雪が10㎝ほど積もっていた中をどうやってのぼられたのでしょうか。

 

 そのお宅も、現在は家の近くで総廟です。

重労働でした

◎思い起こせば命拾いはまだまだある

                                               R2/7/20

 

 20代の頃でした、スキューバダイビングをしていました。

 

 式根島や真鶴の海岸へ仲間とよく出かけました。

 魚貝を捕りその場で調理、火をおこしてその場で食べる、アツアツの食材をフーフーしながら頂く、潮の匂いと味を満喫していました。

 

 海に潜ると別世界が拡がります。

 ゆらゆら海中を漂うと、まるで空を飛んでいるような錯覚に陥ります。

 岩穴に潜むタコや魚、特にウツボは初めてたべましたが、淡泊な味で美味しかったことを覚えています。

 

  確か真鶴だったと思いますが、ウェットスーツと肌の間にはほんの少量の水を入れていますのでそれが体温で暖まり、海水の温度には関係なく長時間潜ることができるのです。

 

  それはお風呂の中で長時間つかっているのと一緒で、確か1時間の酸素ボンベで40分を過ぎた頃だったのですが、突然身体に力が入らなくなったのです。

 入浴の際の「のぼせ」状態と同じです。

 

 頭がボーッとしてきてそのままでは、死へ一直線に向かうところでした。

  たまたま仲間の1人が目撃して、急いで海岸に戻り漁協に連絡、すぐに救助の船が来て助かったのです。

 

  意識を失いつつある中で、このまま死んだとしても、苦しくなくて、楽にいけそうだな、

 老衰で死ぬのはこれかなと思いました。

海の中は別世界

   船内での食事は食べられなかった
             R2/7/19
 
 桂林の川下りは、まるで水墨画の絵の中を歩くが如くで情緒たっぷりなのですが、11月だけはいけません。
  11月の桂林の川は乾期で少雨期なので、川に水がありません。
 
 その時期に10人のお坊さんの団体が川下りの船に乗りました。
 川の水が極端に浅いので、川底に船底がついて、なかなか脱出出来ない船もあったほどです。
 
 この時期でも一日数十隻の船が出ているとのことでした。 
 
 私もでしゃばりですから、聞かなくても良いことを、通訳さんに、つい質問してしまいました。
 
  川の水が少ないので、川の透明度は全くありません。
 
 「船のトイレの排水はどうなっていますか?」
 「はい、そのまま川に放流です」
 それは川の水が濃厚であることを意味しています。
 
  そして衝撃の一言。
  
  「料理の水などは川からくみ上げています。」
  
   考え込んでしまいました、そして遂に見てしまったのです。
   船尾で料理が作られていましたが、確かに川の水をくんで料理しているのです。
 熱処理だから何も心配いらないと言わんばかりに料理ができあがって行くのだが。
  
   そして料理が運ばれた食事に、皆さんはおいしそうに食していらっしゃったのですが、卵スープの黄色い黄身のヒラヒラを見た途端、私は全く食欲が失せました。
 

船が数十隻、数珠つなぎ状態です

◎怒ったらどうなるかわからぬ中国人

 

  平成初めの頃ですが、道元禅師が修行をされた中国の天童寺へ10人ほどのお坊さんの研修旅行に参加しました。 

  文化ショックというか、文明ショックというか、大変な衝撃を受けた。

 

 まず上海、交通の主体は自転車だった。

 朝の通勤ラッシュ、自転車の海の中を、車が警笛を鳴らしっぱなしにして、申し訳なさそうに自転車の間を進んでいる。

 信号があっても何の効果もない。

 

  さて、帰国の日、空港へ向かう時間が少し遅れて、通訳がバンの運転手さんに遅れている事情を話し、「少し急いでくれないか」と頼んだ。

 

 運転手さんは「ヨッシャー」とばかりに速度を上げたのだが、運悪く、すぐにスピード取り締まりに捕まってしまった。

 

 その後の運転手さんは、顔が閻魔大王のようになり、ちょっとしたカーブで横転しそうなほどの暴走を始めた。

 

 対向車の激しいクラクションに目を向けると、わたしどもの車がカーブで前の車を追い越して反対車線に入って、対向車の運転手の驚きと悲鳴が聞こえてきそうな顔がすれ違った。

 皆が、思わず「あーっ、ぶつかるっ」と顔を何度も覆ったほどの乱暴運転だった。

 

 まるでパトカーに追われている人質誘拐凶悪犯人の運転で、そりゃあめったに体験できるものではございません。

 貴重な体験といえばそうかもしれませんが、できれば絶対体験したくない体験でございました。

 

 空港では、呆然自失状態であったが、お陰で飛行機には余裕で間に合った。

  人間は、何でもないことで突然、命拾いをするものだと思いました。

オリャー、どかんかい!

◎「またコロナか」と言われそうだけど、

                                       やはりコロナです

                                                       R2/7/17                        

 

      先般、米子で感染者が出たのに、今度は出雲で発生。

 またよりによって発生源が、新宿の劇場クラスターでした。

 

  批判を恐れずに申し上げれば、この感染県立女子大生は決して悪くありません。

 県をまたいでの移動を許した政府の責任です。

 感染拡大のリスクを解っていながら、経済復興のため我慢出来ずに、コロナ感染自粛を         緩和した政府の責任だと思います。(もちろん政府の気持ちはよく解るのですが)

 

 感染したいと思ってその劇場に入った方などいません。

 たまたま運悪く政府の施策の犠牲になったのです。

  

 アメリカやブラジルを見れば解るように、コロナを軽視して経済復興に突き進む国がど     うなっているかというと、アメリカでは 一日の感染者数が約6万人という目も当てら    れない状態です。

 

 全国で6百人なんて、アメリカの6万人に比すれば0に等しいような数に思えますが、  そのまま米国方式で、経済復興だけを意識し過ぎて邁進すれば、あっ という間に膨な  感染者数になるでしょう。

 

 「GO to キャンペーン」は東京を除くことで決着したようです。

 昼間は一緒に仕事をしているのに、東京と生活圏を共にする近隣県はセ

 ーフで、東京だけを排除するなんておかしな話です。

 7/22からのキャンペーンは、後で「しまった」と後悔する確率がか

 なり高いと思えるのですが、皆さんはどう思われますか?

 

表面はあくまでも強きだが

◎隣国同士のイスラム教の信心深い王様同士がけんかとなり、戦争に発展した。
                       R2/7/15
 
  さて、ここで問題です。
 A国とB国、どちらの王様も信仰深いイスラム教徒ですので、どちらも同じアラーの神に祈った。
 「アラーの神よ、今回の争いは絶対に向こうが悪いのです。どうか我が国が勝利出来ますようにお願いをいたします。」
 両方の王様が同じようにアラーの神に祈った。
 もし皆さまがアラーの神であったら、AとBのどちらに勝たせられますでしょうか。
 
    私? 私でしたら知らんぷりという解決方法をとります。
 そしてソレがベストだと思います。
  なぜなら、イスラム教の信者は祈るときに「インシュ アッラー」とお唱えします。
 仏教で言えば「ナンマンダブ」のお唱えごとと同じです。
  「インシュ アッラー」は、「神がお望みなら」という意味です。
 つまり戦争に勝っても負けても「神がお望みなら」と、どんな結果になろうがそれぞれが納得するのです。
 
 随分聞き分けの良い信者ですが、その点神様は楽ですよね、何もしなくても信者が勝手に納得してくれるのですから。
 
 お酒には厳しいイスラム教ですが、戦争に負けた時だけは、やけ酒を飲んでも許されます。
 
 「飲酒、アッラー」             冗談ですよ~!

インシュ アッラー

◎第三墓地の駐車場を挟んで東側の山斜面が崩落しました

所のこととばかりと思っていたら、当山でも被害が出ました。

高さ7~8メートル、幅6~7メートルにわたって山の斜面が崩落しました。

 弘長寺も平地ではありますが、結構急斜面の山に囲まれていて、崩落の危険個所が多数あって心配です。

 役場支所に連絡をして、災害補償がもらえるかどうか担当者においでいただき、写真撮影後、帰って検討するとの返事を頂きました。

 土砂撤去は檀家の業者にお願いすることに依頼致しました。

 一番危険個所はお風呂場の上の崖ですから、副住職にも夜中の入浴は控えるようにと告げておりましたが、まさか墓地の前が土砂崩れするとは。

 

 まさに青天の霹靂でした。

 

 

          R2/7/14
 ★少し一休みしましょう(休んでばかりですが)
 
    知恵一つでまあるく収まるお話です。
 ネットからの全くのコピペです。(ゴメンナサイ) 
 
   頭の体操です。
 
  ラクダを17頭所有していた老人が,遺言を残して亡くなりました。
 その遺言には,「長男に2分の1,次男に3分の1,三男に9分の1となるように分けよ」とありました。
 
 ところが,17は2でも,3でも,9でも割り切れません。ラクダの身体を刃物で切り取って分けることもできず,兄弟たちは困り果てていました。
 
 そのとき,村を通りかかったお坊さんが,「私のラクダを1頭貸そう,18頭になるから分けられるだろう」と言ってラクダを1頭貸してくれました。
 
 18頭を長男が2分の1の9頭,次男が3分の1の6頭,三男が9分の1の2頭を受け取ると,1頭余りましたので,お坊さんにも返すことができました。
 
 皆が納得できて、しかもお坊さんも損することなく,まさに,メデタシメデタシということですね。
 
 皆がお坊さんの知恵に感心するとともの,お坊さんの名声も国中に広まることとなりました。
 

◎パロディー 「雨ニモアテズ 」

                               どこかの校長先生 作

                R2/7/13

 

   雨ニモアテズ 風ニモアテズ

 雪ニモ夏ノ暑サニモアテズ

   ブヨブヨノ体ニタクサン着コミ

 意欲モナク 体力モナク

 イツモブツブツ 不満ヲイッテイル

 毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ遊バズ

 朝カラアクビヲシ 集会ガアレバ貧血ヲオコシ

 アレユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ

 作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ

 リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ

 東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ

 西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ

 南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ

 北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ

 日照リノトキハ 冷房ヲツケ

 ミンナニ 勉強勉強トイワレ

 叱ラレモセズ コワイモノシラズ

 コンナ現代ッ子に ダレガシタ 

                                 産経新聞より

 

  実はこんな一昔前の現代っ子が、今親になり

 「モンスターペアレント」になっているのです。

 

先生タジタジ

                                     R2/7/12
  「今まで経験したことがないような大雨」最近は数年、続けてこの言葉を聞いているような気がします。
 建てたばかりの家だってあったでしょう、それが2階まで濁流が来て、家電製品は泥まみれ、使い物になりません。
 中には流された家もあります。
 
 電化製品や畳やふすま、障子などを満載したトラックが、ゴミ置き場で渋滞して数時間待たせられる状況が生まれています。
 
 おまけにコロナ対策でボランティアも呼べないので人手不足。
 そして次の氾濫の危険性も迫っている。
 水道が出ないから泥を流し出すのも困難です。
 そしてそのまま乾いたら、今度は乾燥した泥の粉塵ですごいことになります。
 
 まさに泣きっ面にハチです……他人事ではなく、明日は我が身です。 
 
 「ここにはもう住めないかもしれない」インタビューに答えた方がポツリとつぶやかれた。
 でも、じゃあどこへいけばいいんだ、ということになります。
 
 川の傍にいれば氾濫に遭う、山の下に住めば山崩れに遭う、海の傍に住めば高潮・津波が、高台に住んでも台風・落雷・たつ巻が、どんな所に住んでも震度9クラスの大地震が来たらおしまいです。
 
 大自然ばかりではありません。
 米中対立で、もしその間にある日本が火の粉を浴びることもあり得ますし、その間隙を縫って北朝鮮から核弾頭が飛んできたら、それこそ日本列島全てアウトです。
 
 住民の皆さまの嘆きを見ていると、よそよそしく頑張れなどとも言えません。
 静かに神仏に祈るしかありません。

この橋もあぶない!

◎同じ南無阿弥陀仏なのに、師匠の法然様より

               弟子の親鸞様への信者が多いのはなぜか

                     R2/7/11

 

  確かに浄土宗よりも、東西本願寺を合わせたら日本で最大の宗派となるのが親鸞様の浄土真宗です。

 

 だから本心を覗くと、浄土宗の信者の方は複雑な心境ではないでしょうか。

 

 「本家本元はこちらだぞ」と、おそらく喉元まで言葉が出ているのではないでしょうか。 その気持ちはよく解りますよね。

 

 では何故親鸞様の方が人気が出て、信者数も格段に多いのでしょうか。

 それは、法然上人様は比叡山で修行中から天才と言われてきて、当時から偉いお坊様と思われていました。

 そうです、妻帯もせず、戒律を守る偉いお坊様だったのです。

 

 それに引き換え、親鸞様は余りにもドラマチックで破天荒で、法然様とはまるで正反対の極にいるがごとき存在だったのです。

 

 自分は決して偉い人間ではない、出家はしているが半僧半俗であり、妻帯もする。

 自らを破戒僧と自覚し、三度の結婚で女犯し、多数の子供をもうけました。

    生真面目過ぎて近寄りがたい人よりも、少しヤンチャで、ちょい悪オヤジみたいな人の方に惹かれる女性が多いと聞きますが、(例えが悪すぎるという声あり)そんな感じなのではないでしょうか。

 

 法然様の教え「南無阿弥陀仏」を唱え、有名な「悪人こそが救われる」という悪人正機説を唱え、実は法然様の教えであったという説があるが、謎めいた生き方もあり、宗教的、哲学的に独自の高度な南無阿弥陀仏を展開された。

 日本人は昔から判官(ほうがん)びいきの傾向があるので、偉いお坊様より、破戒僧と居直る親鸞様により魅力を感じたのではないでしょうか。

お陰で今年は豊年だろ?
いや、知んらん

◎東京感染者224人、過去最大数がでた

              R2/7/10

  昨日はフェイントで75人だったが、本日は過去最高の224人です。

 神奈川25人、埼玉22人、千葉22人、大阪30人、全国でも355人と軒並み高数値となっています。 

  7月10日から野球もサッカーも上限5,000人迄は観客OKです。

 本当に大丈夫なのですか?

 

 球場クラスターとか発生しないでしょうかねー。

 最近浮かび上がった「空気感染」…エアコンがあってもなくても球場でファンが熱狂すれば、もし空気感染なら目も当てられない結末となりそうな危険を感じます。

 

 自然気象は荒れ狂い、コロナも荒れ狂ったならば、ダブルパンチもいいところです。

 おまけに首都直下地震の噂や南海ドラフの噂も気になります。

 

 トランプさんを見ていると、「ホラ見たことか」と思うのですが、小池さんや西村さんが「ホラ見たことか」にならなければよいのですが。

観客なしでは調子狂うぜ!

                 R2/7/9
                                                      
     たまには真面目に仏教のお話をしましょう。
 
 仏の名を呼ぶことによって、極楽浄土に往けると説いた法然上人はすごいと思います。
  
  奈良時代の仏教は哲学を勉強する学問中心の仏教でした。
  
  そして平安時代に入って弘法大師様が大日如来を信仰対象にされたのだが、印を切って真言を唱え、山岳信仰・山岳修行と、国に対する祈祷(国家仏教)に力点を置かれたので、奇跡を起こしていた弘法大師様への信仰は強くなったのですが、大日如来そのものへの熱烈信仰には至らなかった。
  
  また天台宗も総合大学として庶民には理解しがたく、山岳信仰・山岳修行を主張し、やはり国家仏教であり、特定の仏を積極的に信仰対象としなかった。
 
 空海様も最澄様も視点は国や貴族だったのです、つまりは出世指向だったと言えます。   
   だからいずれも、庶民に取っては難解で高値の花であり、とりつきにくい仏教だったのです。
  
  そこへ平安末期に、阿弥陀仏を信仰し「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでお浄土に往けると、説かれたのが法然様です。
 
 当時庶民は識字率がゼロに近かったところへ、庶民誰でもが明快に理解可能で受け入れやすい、「他力本願」を説かれた法然様はスゴイと思います。
 
視点が庶民に移ったために、当然爆発的に浄土信仰が勢力を増していったのです。
  
  難しい仏教を、お浄土をたやすくイメージすることができて、「ナンマンダブ」を唱えるだけで往生できると説いた法然上人はすごいと思います。
  
  仏教を庶民の手に導かれた功績は偉大です。

庶民と仏教を繋いだ法然様はスゴイ

 
           R2/7/8
 
     またまた 脱線してちょっと一休み
 
 東京は6日連続100人超えとなりました。
 相変わらず夜の街関連が多いのでしょうか。
 
 あくまでも私見なので、不謹慎だと叱られそうな気がしそうですが、非常事態宣言解除となった途端に、歌舞伎町に人がワッと詰めかけた。
 
 本能に直結する色欲が、長期に亘り強制抑制を受けた後の解除ですから、「車は急に止まれません」の如く、少々コロナの危険があろうとも、歌舞伎町という甘い響きには適わないんでしょうね。
 
 何せお金さえ払えば、頭のはげ上がった(私もそうです)キモいおじさまでも、女性とアルコールを飲みながら「お客様は神様です」のハーレムスタイルで遊べる訳ですから、こんな楽しいことはないんでしょうね。(私には詳しいことはよく解らないのですが)
 
 そういう男性には何を言っても、無駄に近いのではないでしょうか。
 
 「三密は避けて下さい」という声も、「何だって?三密ってのは、ハチ蜜、あんみつ、壇蜜のことか?」と都合の良い響きにしか聞こえていないのではないでしょうか。
 
 歌舞伎町は、ロックダウンしなければ、コロナ感染はなくならないと思います。

ハーレムだぜー!

 

◎コロナ渦で詰まるところは、

   人の命と経済活性のどちらを選ぶかということです

                         R2/7/7

 

 withコロナという便利な言葉が勢いを増していますが、「コロナと共存をする」ということですよね。

 つまりワクチンや治療薬ができるまでの間に、コロナを押さえながら、ダメージを受けた経済をどう復活するかということです。

 政府や東京都は、コロナの顔色を見ながら不安定な自転車操業をしています。

 早い話が、少々の犠牲は出ても、これ以上経済活動を止めることはできませんよ、ということです。     

 だから都知事が、東京に連続で100人超えようとも、この裏には経済復活があるのだから、当然でしょ、なんてことありませんよという顔になってきた。

 

 押さえ切れていないのに、選挙がせまっているから博打に出て、経済復活のため全面開放策により、毎日5万人の感染者を出しているのが現在のアメリカ、トランプです。

 5万人の感染者をだしていながら、「コロナ対策は成功している」と、選挙までは故意にウソをつき続けるのです。

 5万人に比べれば100人など、確かに可愛いものなのかも知れません。

 

 世界のワクチン開発者は激烈な競争だそうですが、本当に副作用も無く安心なワクチンが完成するのは最低でも2年はかかるそうです。

 でもそんなことをしていたら経済がもたないので、これも博打で、患者に治験をしながら生煮えのワクチンを使うことになるのでしょう。

 

 コロナは、命とは何か、命の重さとは何か、経済とは何か、経済と命を天秤にかけたときの重さはどちらなのか、深く考えさせられます。

 現在の「命」の価値は、かなり暴落しているような気がしています。

 

 

やはり経済も大事だ!

◎自然の猛威の前には、

    人間は全く無力にならざるを得ない

               R2/7/6

 テレビに映し出された次々に襲い来る球磨川への線上降雨帯の恐ろしさに身震いがした。

 9メートルの浸水で急濁流、屋根の上で救助を待つ人々、おそらく生きた心地がしなかったのではないでしょうか。

 車が逆さになり、車も屋根しか見えない状態、養護老人ホームも1階が浸水、多くの犠牲者がでた。

 もちろん、梅雨の時節で、大雨が降るのは当たり前なのかも知れませんが、2年前の岡山・真備町も含めこの線上降雨帯による被害が多くなってきたような気がします。

 

 今回は気象庁の緊急警報も後手に回った感があります。

 しかも3時、4時頃という深夜の突然の緊急警報に気づく人も多くなかったのではないでしょうか。

 

 私は、この異常気象は少なからず、悪魔のようにしか見えないトランプ大統領を筆頭に、世界の自己中リーダー達が、自国利益のみを追求して自然環境破壊の暴走に深く関わっていて、人的災害の要素が多いということを決して忘れてはならないと思っています

 

 

命からがらです

◎そうでしょ、コロナを甘く見ると痛い目に遭います

               R2/7/5

 7/4は、東京で131人の感染者、3日続けての100人超えとなりました。

 東京隣接県」は、3県で62人、大阪も17人、全国でも感染者が拡散しています。

 今日は都知事選投票日なので、小池知事はあまり刺激的な対策が取れないのでしょう。

 彼女の口からは、モヤモヤした言葉しか出てきません。

 全国でも更に感染者が増えていきます…一体どうなるんでしょう。

 

 更に追い打ちをかけるように今冬は新型豚インフルエンザが流行しそうだとのことで、コロナとのダブルパンチパンデミックになりそうです。

 

 アメリカ、ブラジルやその他の国々が初期対応を失敗した上に、その対策がちっとも功を成さない中で、経済復活だけを焦り、対策を緩和したり解除した結果、見るも無惨に軒並み感染者を大量増産して更に痛い目に遭っています。

 日本も少し感染者数が落ち着いたからといって、もっと慎重に構えれば良かったのに、経済復活を焦ってその国々の真似をする必要など本当はなかったのです。

 ただ、その気持ちはわかります、貧乏国になったので、ここで経済を何とかして高得点をあげないと、初期対応を見誤った政府のミスだけが浮き彫りになりますものね。

 

 毎年のように超強力なウィルスが出てきて、コロナや新型豚ウィルス等、ダブル・トリプルどころか何種類ものウィルス地獄に陥れば、人類は危ないのかもしれない。

 希望に満ちた文章を書きたくても、こう毎日不安材料ばっかり発生していては無理ですよ~。

  

 

今年の冬は国民に
    マスクをもう一枚送っとこう

◎脱線ついでに大脱線してみよう

                                        R2/7/4

 

 さて、レビー小体型認知症の義母の続きです。

 

  昼夜が逆になり、徘徊も始まりそうな勢いとなったので、妻と交代で、夜、義母の監視をすることになりました。

 毎晩義母の隣の部屋で、フスマ1枚隔てて監視しながら寝ることになったのです。

 

  義母は、夜通し寝かせてくれませんでした。

 10分おきに、自室から私が寝てる隣の部屋にやってきて、わざわざ灯りをつけて私が布団の中にいるのを確認してから、すぐ消灯し、自室に帰っていく。

 

 それを一晩中繰り返すのです。(昼は熟睡なので、夜は元気いっぱいです)

 

 妻も同じ目に遭っていたので、相談して、これは睡眠不足で身体がもたんから、お互い昼寝をしっかりしようということになった。

 

 そして事件は起きたのです。

 

 妻が監視する夜でした、昼寝に失敗して寝不足で布団に入った妻が、ガサゴソという物音で夜中に目を覚ましたら、義母が妻の上にまたがり、着物の尻をからげて、まさに行為に及ばんとしているところでした。

 「ちょっとおばあさん、何しちょーかね」ビックリして大声で義母をはねのけ、突き飛ばしたそうです。

 「エ・エ~ッ? ここはトイレじゃないのかいね。」

 

 翌朝、不眠とショックで目を真っ赤に腫らした妻が、

 「もうちょっとで便器にされるところだったわ」とフンガイしていた。

 

 数日後、義母には申し訳なかったが、施設に移ってもらうことになった。

本人はこのつもりだったんです

◎お坊さんになってから一番自信を失った日

                                                                          R2/7/3

  10年位前、大晦日と正月に大雪が降ったことがある。

 義母が大晦日に倒れて、精神的にもおかしくなっていった。

 

 義母の部屋のふすまや障子から手が出たり、足が出たり、知らぬ人の顔が出たりする。

 「お化けが出て困るので、この部屋を拝んでくれんかね。」

 

 「任せといて下さい。」

 私は早速、経机を置き、衣とお袈裟で身支度をし、線香を立て、義母の前で馨子(鐘)と木魚で丁寧に長時間、読経をしました。

 

 翌日「あれだけ拝んだのだから、お化けは出なかったでしょう」と自信満々で義母に尋ねたら、「何がねあんた、一晩中、余計にもっと沢山出るようになったわ」と答えが返ってきた。

 

 この時ほど仏教者として、お坊さんとして完璧に自信を失ったことはありません。

 私の法力もこんなものであったか、すっかりしょげかえってしまった。

 

 お化けだらけで、一晩中寝られないと疲労困憊を訴えるので病院に連れて行った。

 するとお医者さんの診断は、「これはレビー小体型認知症です」。

 

  初めて聞いた病名だったが、症状がアルツハイマーの十倍の進行速度がある痴呆症の病で、特徴は障子から手が出たり、足が出たり、知らぬ人の顔が出たりする、怪異現象が出現する病です、と告げられた。

 

 つまり、いくら読経をしようとも、どんな処置をしようとしても、化けものが出現する病だったのだ。 

 「良かった、私の法力とは全く無関係であった」すぐさま自信を取り戻すことができた。

こんなのが一晩中出たら、
そりゃ寝れん!

◎命をいただいた生き物は、やはり命が惜しいんです

                                                         R2/7/2                        

 

 信仰深いおばあさんが、いつもお詣りするお寺の本堂の前で手を合わせ、「仏様、どうかピンピンコロリと死ねますように」と大きな声で祈っていた。

 

 すると、本堂の中でそれを聞いていたいたずら好きな和尚が、「よしよし、ばあさんや、あんたはなかなか信仰深いから、本日その願いを叶えてやろう」

 声色を使って答えたら、おばあさんは「ヒエ~ッ、仏様、なんぼなんでも今日は困ります~、 あと10年待ってくだせ~」と逃げ出していった。

 

    歳をとっても命は惜しいのです。

 

 お釈迦様は、歩くのにいつも下を見つめ、蟻を踏み殺さないように注意を払われたそうです。

 我々はどうでしょう、おそらく今まで何百匹の蟻をうっかり踏み殺したことか。

 それどころか、蚊が飛んでくれば平気でパチン、ハエがいればハエたたきでパチン。

 ゴキブリガ出てくれば、ソレッとパチン、どれくらいの生き物の命を奪ってきたことか。 それどころか、毎日牛肉や豚肉、鶏肉を、直接手がけてはいないけれども、その命をいただいているのです。

 どんな生き物だって殺されるのを望んでなんかいません。

 どんな生き物だって命は惜しいはずです。

 キリスト教では他の命を奪わざるをえないことを、原罪というのでしょう。

 他の命をいただかないと、この命を養うことはかないません。

 

それを当たり前と思わずに「私の命のために、動物さんたちごめんね、有り難う」とほんの少しだけ謝罪と感謝してから命をいただくことが、本当は大切ではないでしょうか。

いたな、人類の敵め!

◎コロナが東京で再び息を吹き返している

                                                                            R2/7/1

  6月30日の感染者は、東京54人、神奈川31人、埼玉10人です。

 特に東京は5日連続で50人以上、その半分は感染経路不明です。

 

 経済復活のため全面解除で、県をまたいでもOKですから、やはり当然の結果でしょう。

 コロナの感染力を甘く見てはいけないと思います。

 潜伏期間を考えると、あと1~2週間位したら全国でどんな数になるか恐ろしいです。

 

  アメリカやブラジルは1日4万人で増加しています。

 日本とは桁が違います。

 トランプ大統領がコロナの脅威よりも経済復興へ走った結果です。

 

 特にブラジルは検査数も少ないから、まともな数値が出ていないので、氷山の一角だそうです。

 インドも感染者が多いし、南アフリカ、南米もパンデミック増加中です。

 とても世界がこのような状態で推移するなら、来年のオリンピックはおそらく無理でしょうね。

 

 ワクチンができても貧困層にはまわらないというのです。

 

 このコロナが怖いのは、2回の陰性が出て退院しても、後遺症に悩む方がものすごく多いそうです。

 一見退院者数だけを見ると、完治して退院と思いがちですが、病院から退院を言い渡されても、自宅療養となる方が多く、必ずしも症状が完治して退院するわけではないのです。

 コロナとは長い付き合いになりそうです。

こうだと良いのですが

◎トランプも金正恩も目ではないトンデモ大統領がいた

                                (ちょっと本日は一休み)      R2/6/30

 

 それはブラジルの ボルソナロ大統領です。

 この方のおったまげ発想は完璧に常人の域を超えている。

 ネットからの転載で申し訳ないのですが、こんな感じです。

 

 

 

コロナ対策では、

「人々が自動車事故で命を落とすからといって、自動車製造工場を閉鎖することはできない」

「私たちのうち90%は、新型ウイルスに感染しても症状が現れない」

「新型コロナウイルスは、軽いインフルエンザか、ただの風邪程度だ。マスコミは、各国の事例を最大限に言いはやし恐怖をあおっている」

「新型コロナウイルスには(国民の)70%が感染する。どうすることもできない」

「(死者が5000人を超えたことについて)それで? 残念なことだ。でも私にどうしろというのか」

「悲しい状況だ。多くは高齢者だが、愛する者を失った家族に同情する。でもこれが人生、あすはわが身だ」

 

 閣内から異論が出て、外出禁止や商業活動の自粛など、常識的な対策を主張する保健相を2人更迭。軍人を暫定保健相に任命した。

 

「大統領、毎日想定を超える多くの感染者が死んでいっています。」と報告があれば

「それがどうしたというのだ、人は必ず死ぬ宿命にある」ですって。

ウーン、なるほどと、変に納得してしまうのだが、この大統領と比較すれば、阿倍首相はかなりまともに思えてくるから不思議だ。 

な~に、ただの風邪程度さ!

 ◎  誰もが認める本物の天才です

                                                  R2/6/29

 そうです17歳の藤井聡太七段です。

  快進撃、すごいですね。

 プロの世界で、高段者をバッタバッタと撃破する、痛快です。

 次々と記録を塗り替え、ゆくゆくは羽生七冠を超える棋士になるに違いありません。

 

 母親から東大へ入学しろと言われているらしいのですから、学業も優秀なのでしょう。

 普通、こういう天才だと面構えもキリリとして、人を寄せ付けない厳しさがある方が多いのですが、彼は全く違います。

 あどけなさが残り、柔和で温厚ですから、対局者も案外そこら辺で隙を作ってしまうのではないでしょうか。

 

 もちろん、若いからということもあるのでしょうが、発する言葉も謙虚で決して偉ぶらない、……ここが大事なところだと思います。

 

 「実るほど頭の垂れる稲穂かな」

 これを生涯徹底してもらいたいと思います。

 

 なぜならいくら能力が抜群でも、頭を垂れることが叶わなくて人望を失う残念な方が、逆に頭がフン反り返って人が寄りつかない惜しい方が、世の中にはわんさといるものですから……あ、すみません、私も能力がないくせに頭を垂れることを忘れる一人かもしれません。

 

 抜群の強さと謙虚さのギャップが、人気に拍車をかけています。

 人の価値は、一面では案外頭を垂れる謙虚さで決まるような気がしています。

 

  藤井君には、今のそのままで謙虚で無敵な生涯、天賦の才を思う存分全うしてもらいたいと思います。

 聡太君、ガンバレ!

謙虚さを失わない天才で!

◎「ケセラセラ」は魔法のことば

       

                R2/6/28

 70年も人生を生きていると、そりゃあ色んなことがありました。

 参ったなあ、どうすれば良いのだろう、あっちもダメ、こっちもダメ、八方ふさがりだ。

 どうあがいても、ニッチもサッチもどうにもならないことだってありました。

 

 そんなときの一番の特効薬は、開き直ることです。

 どうにもならんから、煮るなり焼くなりしてくれー。

 

 その時のことばが「ケセラセラ」です。

 ケセラセラ…なるようになれという歌の文句です。

 開き直ると同時にそのことばによって不思議と力がわいてくるのを覚えました。

 

    魔法の言葉です。

 

 その時はまだお坊さんではなかったのですが、今から思うとこれは仏様の冥力と同じだと思います。

 つまり、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「南無釈迦牟尼仏」と一緒ですね。

 どうにでもしてくれという開き直りの底力ってんでしょうか、それは「助けてくれる人があるならば助けてよ」という思いでもあったはずです。

 

 ペギー葉山さんの歌声が、そのとき開き直った耳に聞こえてきました。

 「ケセラセラ、なるようになれ」…そうだ、この歌だ、今の自分にピッタリの言葉だ。

 寝転んで大の字に投げ出した身体に何故か妙に力がみなぎってきたんです、不思議な言葉です、不思議な歌です、そして不思議な力でした。

 

 「ケセラセラ」は「ナンマンダブ」と同じ魔法のことばなのです。

 

ケセラセラさ!

◎「こちらから」の詩に学ぶ

          R2/6/27

 

  仏教詩人、坂村真民さんの詩に打たれたことがあります。

 

    こちらからあたまを下げる

 こちらからあいさつをする

 こちらから手を合わせる

 こちらから詫びる

 こちらから声をかける

 すべてこちらからすれば

 争いもなく

 なごやかにゆく

 こちらからおーいと呼べば

 あちらからもおーいとこたえ

 あかん坊が泣けば

 お母さんがとんでくる

   すべて自然も人間も

 そうできているのだ

 仏さまへも

 こちらから近づいてゆこう

 どんなにか喜ばれることだろう

 

     読めば読むほど「確かにそうだなあ」と思える詩です。

    こけんとか意地がじゃまをして、人間はなかなか素直に

 なれない生きものなのかもしれません。

 この詩を読むと自分のいたらなさをひしひしとかんじます。

合掌し、仏様に祈ってみよう

◎さ、お待たせいたしました

                      観音経のクライマックスです

                                                                                                    R2/6/26

 観音経には二つの重大要素がある、と申し上げましたが、一つは現世利益です。

 もう一つは、「私自身も仏であり、観音様に違いない」という主張です。

 

  現世利益は、イヤというほど認識できたでしょうから、もう一方に移ります。

 これはひろ先生の解釈なのですが、大体に菩薩様というのは変身の名人です。

 観音様は33の姿に変身されます。

 仏の姿はもちろんのこと、帝釈天や大自在天や富豪や、お坊さんや在家のままで修行する人や大人や子供、化け物に至るまで33の姿に変身されます。

 

 それは一体何の為に……私を仏にするためです。 

 法華経は28巻を通して一貫して、この私を仏にするために懸命に説いているのです。 

 ひろ先生は、観音様の変身の姿の中で4つの大事な姿がある、お坊さんや在家の方々、大人の男女と子供の男女だと説かれます。

 なぜなら自分の周りに普通に沢山いるからです。

 すると、私の前にいるあなたも、あなたも、観音様の変身をした姿だ、ということになります。

 何のために……私を仏に導くためです。

 

 とすると、私の前にいるあなたが観音様の変身した姿であるならば、この私も観音様が変身をした姿ということではないのか、何の為に……あなたを仏にするために。

 

 そうだ私自身も観音様なんだ、何のためかというと……あなたを仏にするためです。

 観音経が叫んでいるのは、「私は観音様が変身をした姿である」ということを強調したかったのです。

 

 私が観音様であるならば、「こん畜生」とか「殺してやる」などというぞんざいな言葉は使わないであろう 、私が観音様であるならば、拳をふりあげたり、刃物を持ったりしないであろう、あなたが私にキツい咎めだてをしても、私は観音様だから、寛容の心であなたに接しましょう。

私が観音様であるならば、観音様にふさわしい言動をせねばならない。

 

 どうです、観音経ってすごいお経で、ギャフンですよね。

 私は観音様なんだから、観音様らしく生きようよ、と呼びかけているお経なのです。

私は仏だ、ヘンシ~ン!

◎恒例の延命地蔵供養祭を厳修

                                                  R2/6/25

 

  毎年6月24日、門前にある地蔵堂に鎮座せる延命地蔵菩薩様の供養祭が執りおこなわれました。

 

 日中はうだるような暑さでしたが、夕方5時半からの開始時には、涼しい風が心地よい状態で読経できました。

 

 今までは、主に弘長寺地区の方のみの参加でしたけれども、本年より対象を全檀家に、護持会行事としてご案内を致しました。

 

 全員で「延命地蔵菩薩経」を読誦しました、家族に世話をかけぬよう元気で長生きができますようにとの思いを込めて。

               具体的に教えてくれ、ですって?
                                                                          R2/6/24
 
 
  了解です、やはり一番気になるところですものね。
  長くなりますから、主なところだけをかいつまんでみましょう。
 
 といっても、経典の中の9割近くは載せてあります。
 
  ★観世音菩薩の名を忘れない人は、たとえ燃え盛る火の中に入ったとしても、
     焼かれることはありません。                                               
  ★大洪水に襲われても、観音の名を称えたならば、たちまち浅い所に逃れられます。
  ★今にも斬り殺されるか、殴り殺されそうな時でも、觀世音の御名を称えれば、刀や棒       がバラバラになり難を逃れられます                               
  ★性欲に悩まされているのなら、いつも観世音菩薩を心の中に思い浮かべて、敬うよう       に心がけることで、その欲が心から離れて、悩むことがなくなるでしょう
  ★怒りを覚え、自分自身を苦しめている人は、いつも観世音菩薩を心の中に思い浮かべ       て、敬うように心がけていれば、腹が立たなくなるでしょう
  ★悪政に虐げられ、死刑を宣告されて正に刑執行の時、観世音菩薩の力をしっかり信        じていたら、振り下ろされる刀は粉々に壊れてしまうでしょう
  ★牢に閉じ込められて縄や鎖で拘束され、手足を枷で縛られても、観世音菩薩の力をし       っかり信じていたら、すぐさまそこから逃れられるでしょう
  ★誰かが呪いやまじない、毒薬で、危害を加えようとしても、観世音菩薩の力をしっ        かり信じていたら、その呪いは本人の元に返ってしまいます
  ★恐ろしい獣に取り囲まれ、鋭い牙や爪を持っていても、観世音菩薩の力をしっかり信        じていたら、たちまちにどこか遠くへ逃げていってしまうでしょう
  ★イモリやヘビまたはマムシやサソリが、毒の息や炎を吐き出していても、観世音菩薩       の力をしっかり信じていたら、どこかに行ってしまうでしょう
  ★雷が鳴り稲妻が落ち、雹が降って大雨になっても、観世音菩薩の力をしっかり信じて       いたら、その瞬間に嵐は静まってしまいます
  ★(観音様には)汚れなき清らかな光があって、その智慧の光は様々な闇を照らし、災       いである煩悩の風や火を鎮め、もれなく明らかに世間を照らし出します
 
  どうです、そろそろゲップが出てきそうでしょう。
 
  観音経はくどいほどに観世音菩薩の御名を唱え、そのお力を念ずれば、願いを叶えて下さいます、と説かれています

こんな時こそ「南無観世音菩薩」です

◎私は余程観音様にご縁をいただいたのです

R2/6/23

 観音様のご縁やいろいろな冥力により、父は一ヶ月程で全快し、私はすぐに修行に戻ることが出来ました。

 

 その修行の途中で、縁があってこの弘長寺に弟子養子で入りましたが、この弘長寺のご本尊様が、やはり観音様でございました。

 

 観音様は阿弥陀如来様の脇侍でいらっしゃいます。

 ひろ先生の解説によれば、お浄土では阿弥陀様が現役で説法していらっしゃるので、観音様は暇なのでこの現世世界に遊行に来ておられる。

 遊行というと遊ぶという字が使ってあるので、遊ぶために存在しておられるのかと思いがちですがそうではなく、お釈迦様が悟りを開かれた後、お亡くなりになるまで45年間も遊行説法の旅でありました。

 つまり、世の人々を救う利他行のことを「遊行」というのです。

 

 平成17年阿弥陀堂(位牌堂)建立時、阿弥陀坐像の体内から県重文級のお宝が発見され、阿弥陀様を修復して安置いたしました。

 その数年後、第三墓地に永代供養塔を建立しましたが、その塔の上には坐像の観音様を安置いたしました。

 

 つまり阿弥陀堂を中心にして本堂と永代供養塔には、脇侍として観音様を配置した形となり、寺院そのものが「お浄土」をイメージする伽藍となりました。

弘長寺そのものがお浄土です

 
                       R2/6/22
 
  私は修行僧となるには、年齢が35歳とやや高齢でしたので、本山に行かせてもらえませんでした。
「お前みたいな中途半端な人間は、本山では務まらんだろうから、地方僧堂に行け」
  右も左も解らぬ私は父の言うとおりにするしかありませんでした。
 
 実家のお寺は弟が後を継いでいました。
 
 修行が始まって3ヶ月が過ぎた頃、夜、実家のお寺から突然電話が入ったのです。
 弟からでした、「父親がくも膜下出血で倒れた、命が危ない状態だ、万が一のことがあるかもしれないので覚悟をしておいてくれ」
 
 まんじりとも出来ぬ夜を過ごした翌朝、作務(掃除)の最中に、なんと草履(道場での上履き)の紐が切れたのです。
    虫の知らせって本当にあるんだと思いました。
 
 僧堂の指導者:鑑寺(かんす)老師に事情をお話したら、「それは心配ですね、あなたのお師匠様のために祈りましょう」と自らも衣に着替えて、天竺殿にある平安時代に作られた金箔木像:手習い観音様の前で一緒に観音経を拝んで下さいました。
 
 鑑寺老師への有り難さ、観音様への有り難さに涙をこらえきれませんでした。
 
 直後に弟からの電話、「父は何とか持ちこたえている、ただ手術のため、遠方の病院へ移さねばならない、しかし今度はお袋が看病疲れで倒れそうだ。
 修行道場に依頼するので、しばらく看病に帰ってくれないか」
   私は修行3ヶ月で実家に帰ることになった
 

毎度、虫の知らせで~す

◎観音経を読み解いてみよう

                                               R2/6/21

 正式には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」というお経です。

 

 般若心経では、観音様が空という哲学を前半で説き、後半は呪文の神通力が説かれているお経でしたですね。

 

 この観音経は主として二つの重大要素を持ち合わせています。

 ★一つは観音様のパワーと、そのお力による現世利益を説いています。

 ★もう一つは、「私自身も仏であり、観音様に違いない」という主張です。

 

 さて今日は観音様の現世利益についてお話ししましょう。

 観音様を信じて、観音様の御名を唱えれば、どんな苦難も乗り越えられるし、命を失う程の危険からも救われる。

 「観音様のお力を信ぜよ」と、具体的な例を沢山お経に盛り込んであります。

 実は曹洞宗を開いた道元様も、中国での修行を了えて日本に帰る途中、嵐に遭い、あわや船が転覆せんとした時、道元様が船の舳先で観音経を唱えられたら、波の向こうに一葉観音様が現れ、やがて嵐が静まり、無事日本に帰ることが出来た、というエピソードが残っています。

 道元様は、日本に帰って初めて曹洞禅の道場を開かれたそのお寺の名を、「観音導利院興聖宝林禅寺」と名付けられました。

 私が修行した道場です。

 

 観音様は私たちを救い、仏の道に誘い、私たちを仏の身とするために、33の姿に変身をされます。

 だから、観音様の札所は33ヶ所です。

 

 実は、私も観音様に救われた経験があります。

 

信ずるならば、願いを叶えよう

◎ああ、木魚が孫の宝物入れになっていた!

                   R2/6/20

 

 木魚は木の魚と書く、何故魚を木で作り、それを読経と同時に叩くのか。

  魚というのは、本当は寝ているんだけれどもまぶたが無くて寝ていないように見える。 昔の人は、魚は寝ないと思っていたようです。

  だから魚のように、四六時中修行をせよとのメッセージがこの木魚に込められています。

 

 ところが、この木魚に関して、困った状態に陥った時期がありました。

 身近なものが次々となくなっていったのです、特にメガネが4箇はあったのに、悉く無くなっていくのです。

 その犯人は、当時2~3才だった孫(男の子)でした。

 私が本堂で作業をしていたら、孫が本堂に入ってくるのが解りましたので、驚かせてやろうと思い隠れていたら、何と彼が木魚にある穴にいろいろな物を詰め込んでいるのを見たのです。

 

 彼が本堂を出た後で木魚に明かりを入れてみたら、ティッシュや洗濯ばさみ、クレヨンやオモチャなどがいっぱい放り込んでありました。

 どうりで最近木魚の音の響き具合が悪いと思っていました。

 当然、メガネも4箇出て参りました、何かもうかったような気になりました。

 ただ木魚はパカッと開けないものですから、取り出すのに火ばさみや割り箸を使って相当苦労したのを覚えています。

 こっぴどく叱ってやりましたが、反省の色などなく「僕の宝箱、何でわかったの?」

   まいった!

 

ああまさか、孫の宝物入れに!

◎出棺の際、お棺の蓋締めをやめるわけにも行かない

                      R2/6/19

  葬儀出棺の際、昔は釘打ちという儀式があった。

 故人の霊が棺から飛び出て悪さをしたり、祟ったりしないように、四隅を全員が、石で釘を打ちつけるのです。

 そんなことをしたって霊は簡単に出入りすると思うのですが、気休めです、特に故人に対して生前、いじめたり苦痛を与えたような人に対しては、これで安心という儀式になったりしたのではないでしょうか。

 

 しかし最近、葬祭業者の一方的なやり方で、釘打ちが出来ない立派なお棺を作ってしまいました。

 仕方なく棺の蓋を4~50㎝の高さから全員の手で閉める、という儀式に変更せざるを得なくなりました。

 

 実はこれでめでたしめでたしという訳には参りません、遺族が多いと、コロナ問題では本来三密は避けるべきなのに、指だけでも蓋に触れようとギュウギュウの押しくらまんじゅうでお互いが濃密着されるのです。

 お別れの儀式で、お花飾りが終わり、司会進行する葬祭業者の係員が、「それではお棺の蓋を閉める儀式に入ります。」

 この時です、遺族親族が異様に多い葬儀では、その押しくらまんじゅうが始まります。

 「あーけー、私にもちょんぼし隙間を開けてごしないやい」と押し合いへし合いが始まったりします。

 この際には、三密なんて言っておられるかい、という独特の雰囲気が起きてしまいます。

 その剣幕の前では、「今日は蓋閉めをやめましょう」、などと言える状況ではありません。

 

    人生の最後のお別れに、泣きながら一心に別れの儀式を立派に務めようとされている皆様に「蓋閉めはやめましょうか」などと言ったら、ひっぱたかれそうな雰囲気になります。 

 島根では現在1人も感染者いないのだから、マスクさえしとればコロナへの用心よりも、悔いのない別れの方が大事だという切々たる思いは、僧侶の口も黙らせる力があります。

化けて出ちゃダメよ、
   しっかりと打ちつけたからね

◎あっ、流れ焼香ってそういうことなんですか!

                  R2/6/18

   葬儀で導師をしていると、後ろの会葬者の様子が全くわかりません。

 しかし、説明を聞いて納得しました。

 葬儀開始前・葬儀中にかかわらず、来られた方から順に受付だけをすませてから、そのまま焼香台に行かれて すぐ焼香をすませ、そのままお帰りいただくのです。

 

 なるほど考えましたね、三密を避けて、しかもしっかり名前を記入して、そのまま焼香が速やかに可能となる。

 長い葬儀に付き合うこともなく、あっという間に会葬のお勤めが終了する。

 

 遺族にとっても会葬者をお見送りする手間も省ける。

 いいことずくめであるような気がして、このやり方が定着しそうでありますが、つまりは全て「簡素化」に向かっているということになります。

 

 ではこのやり方に問題はないのかというと、やはりあるんです。

 それは、普通の葬儀ならば、導師が引導を渡して焼香した後で喪主焼香があり、代表焼香が終わって、会葬者をお見送りする遺族が焼香してから一般焼香に移ります。

 

 だから、このやり方の問題点は、導師や喪主より会葬者が先に焼香してしまうことです。

 苦肉の策とはいえ、本来はそんな失礼なやり方はあり得ません。

 焼香さえすれば良いというものではありません。

 

 結婚式に例えれば、披露宴で仲人さんの挨拶や乾杯の前に、参列者が早々とお酒や料理に手をつけているようなもんです。

 乾杯する頃には、泥酔者が「早くカラオケを歌わせろ」などと怒鳴っている。

 そこまでは行かないにしても、人生にとって葬儀は、結婚式と同等の大切で厳粛な儀式ですから、礼を失するのはいかがなものでしょうか。

 いや、結婚式より重大かな、なぜなら結婚式は人生の途中で2回、3回と数回なさる方がおいでになりますが、葬式は必ず人生の最後1回だけですから。

  礼を損じては、式の厳粛さも同様に損なうのではないでしょうか。

  まさかコロナが終束しても、このやり方が簡単だから、このままにしてしまおうなんて流れにならないでしょうね。

 

 だから、一見良さそうなこの「流れ焼香」を、はたして喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら、僧侶としては複雑な心境です。

  コロナは、人生の最後の別れの儀式さえも簡単に変えてしまった。

流れ焼香というなら、
   香炉の方が流れて来い!

◎地球、この星は不思議だらけ

         R2/6/17

 

  そもそも地球が自転していることが不思議だ

 それも24時間ほぼきっかりに一回転するなんて不思議だ

 

 誰が回してるのだろう

 

 お陰で昼と夜が大体半分づつ、お陰で昼間は、仕事をしたり、遊んだり、夜は疲れた身体を癒やして眠ることができる、不思議だ、生き物は必ず睡眠をとる,不思議だ

人間も身体の中に内蔵があり、脳があり、血管があるけれどその中を見たこともない

 

 不思議だ

 

  おまけに地球は太陽の廻りを365日でほぼ公転する、不思議だ

 

 誰が回しているのだろう、不思議だ、宇宙が生きている証拠だ

 

 お陰で四季があり、暑い時期もあり、寒い時期もある

 四季それぞれに日差しが違い、食物や果物もそれぞれ豊富だ

 当たり前と思っている事を、深く深く思いを極限まで煎じ詰めていくと、

 不思議以外のなにものでもなくなってくる

 

 夜空を見上げれば数えきれぬほどの満点の星空だ、何億光年という時を超えてやっと光が届いた星もある、不思議だ

 

 宇宙は不思議だ、不思議だらけだ、気が遠くなるほどの「大いなる存在」を感ぜずにはいられない、人間の知力ではとうてい理解が及ばない不思議な世界に、ただ今、命をいただいて生きている…不思議だ。 

宇宙:不思議すぎる

◎生死の中に仏あれば生死なし

 

  曹洞宗を開かれた道元禅師の言葉です。

 私が最初35才でお坊さんになったとき、訳のわからぬ言葉に出会ったのは、この言葉でした。

 

 これは道元禅師の九五巻という大著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の中から重要な言葉を選んでお経として仕上げた「修証義」の最初の部分に出てくる言葉であります。

 

 生死(しょうじと読みます)とは「人の一生」ということです。

 つまり直訳すれば「一生涯の中に仏あれば一生涯はない」ということになります。

 皆さん意味がおわかりでしょうか。

 私はさっぱり解りませんでした、先輩僧侶の方々に尋ねても解ったような解らんようなモヤモヤとした解答ばかりだったような気がいたします。

 

 やっと、こういう意味だったのかと解読出来たのは数年経ってからでした

 

 「人間の生涯は、楽しいことも散りばめてあるが、必ず苦しみに捕まる世界だ」

 お釈迦様の言葉です、故に四苦八苦という言葉を述べておられます。

 「しかしその苦しみの中にこそ仏になれる道があるのだ」と解かれました。

 とするとこういう解釈が当てはまります。

 「人間の苦しみの多い生涯の中にこそ仏になれる有り難い道が存在するのだから、それが理解できたならば、もはや人生は苦しいと悩むことはない」という意味だということが、やっと解りました。

 子供の頃、私も修証義を空で拝んでいたと両親が教えてくれました。

 そういえばそのころは、生死のことを障子だと思っていたような気がします。

 障子を破ったら、中から怖い仏様が出てきて、「コラッ」と怒られるような想定で拝んでいたような気がします。

コラッ!悪い子は食べちゃうぞ

◎やっぱりね、そうだよね、

          コロナはそんなに甘くないよね

 

 本日日曜日夕方の東京コロナ発表、47人感染でした。

 やっぱりね、そうだよね、そんなに甘くはないですよね。

 

  コロナってどこに潜んでいるか解らないのに、そして未だに東京で20人以上も毎日感染者があって、「本当に大丈夫かなあ」という多くの懸念の声がある中で、小池知事が「ほぼ全面解除しまーす」ですから、コロナが待ってましたとばかりに暴れ出しています。

 

 安心したり、また対応に苦慮したり、これが当分繰り返されるのだろうと思います。

 

 だって東京をはじめ、各地の感染が収まってくれないと安心はできません、羽田や八重洲、そして各地から島根に、多くの人々がリアルタイムで入り込んで来るのですから、とても安心どころではありません。

 

 たまたまラッキーな特性でコロナ勢力が弱ってきたのに、自分の手柄のように、「日本らしい対応で成功した」と口走った総理の言葉が忘れられません。

 

 山陰中央新報の社説で述べられたように、コロナ菌の種類に違いがあるのではないか、感染力、攻撃力、国によって感染程度や死者数が異なるのは、コロナ菌の成長度の違いも現れてきているのではないか、その研究も早く進めるべきだ。

 決して日本が正確な対応をしたから、弱まって来たのではないと、社説は主張していた。

 真っ当な論説だと感じ、賛同し納得した。

 

  アフリカやブラジル、アメリカもまだまだ爆発的に感染者が増加している。

 ワクチンや治療薬が完成して、副作用がないことが確認され、そしてそれが日本の隅々まで行き渡るまで、どれくらいの日数がかかるのだろうか。 

 

 「2・3年はかかるだろう」と予測する学者・研究者・医師が多いのですが、安心して元の暮らしに戻るには、世界的状況から本当は後どれくらいの年月がかかるのだろうか、47人という新たな感染者を確認し、ため息しか出てこない。

 

エーイ! 一網打尽だ!