1554年、織田信長が誕生した年に、玉湯町の蓮光寺と菅原にある観音寺を兼務していた秀英という僧侶が作製、資料が乏しいといわれる中世戦国時代の為政者尼子氏、僧侶、一般民衆、亡僧の名が墨書で刻まれ、胎内から全法華経を写経し、8巻にまとめて納めた経筒(本来は66個作り、全国に奉納)発見しました。
経筒は本来全国の納経所に土の中に埋めたので、炭化しているものが殆どであるが、この経筒は仏像内部にあったため、完璧に近い状態で非常に珍しい。
法華経は竹の筆で書かれ、細字であります。
戦国時代に生きた地域の為政者や一般住民が一体となって、平和への願いのこもった仏像です。
坐像は高さおよそ2メートル、重量800㎏ 材料肥松。
弘長禅寺創建時(1,263年)は、地頭藤原満質公が6メートルの巨大阿弥陀像を造り、顔面だけ金箔だったと本人自筆文書には書かれています。
中世史専門の井上寬司島大名誉教授から、県重文級のお宝とのお墨付きをいただきました。
いずれにしても、当山は阿弥陀如来様に特別ご縁があるような気がいたします。
上の写真は記録本の中から抜粋したものです、法華経全巻写経したものをくるくる丸めて、左端の写真の如く10㎝ほどの高さの筒の中に写経8包納めます。
これを66個作り全国に奉納行脚したという驚愕の修行があったことを初めて知りました。
勿論写経する方と行脚する方は違うのですが、1個作るのではなく66個ですか…私にはとてもできません。
飛行機も列車も車もない時代、昔の方の命がけの修行のものすごさをあらためて実感した次第です。